秋山黄色「登校の果て.W」など中止になってしまったライブを思う
- 2020/02/28
- 21:53
本来ならばこんな記事なんかではなく、渋谷WWWで行われた、秋山黄色のワンマンライブ「登校の果て.W」のライブレポを書く予定だった。
しかしながらご存知の通り、新型コロナウイルスの影響による政府の自粛要請によってライブは中止になってしまった。今回の対応における現首相や政府のクソっぷりはここで言うまでもないし、それは第一次政権の時からずっとそう思っているのだが、ライブの開催の是否についてはそれぞれの考え方があるのでここでは触れないとして、本来開催されるはずだった秋山黄色のライブと、中止になってしまったいろんなライブについてあれこれ考えたことを書いてみようと思う。
まずこのワンマンは昨年9月にTSUTAYA O-Crestで開催された「登校の果て」がソールドアウトしたことによって決まった追加公演的なものであり、その9月のセットリストはこちら。
1.猿上がりシティーポップ
2.やさぐれカイドー
3.クラッカー・シャドー
4.日々よ
5.Drown in Twinkle
6.ドロシー
7.夕暮れに映して
8.サツキの悩み (弾き語り)
9.新曲
10.新曲
11.スライムライフ
12.新曲
13.クソフラペチーノ
14.とうこうのはて
encore
15.猿上がりシティーポップ
ドラマーはその日によって変わるとはいえ、おそらくは編成も最近おなじみの4人でのものであろう。その4人が向かい合って呼吸を合わせるようにしてキメを連発する「猿上がりシティー・ポップ」から始まるという流れも今回も変わらなかったと思う。
しかしこの日と今で違うのは、この日が来るべき1stフルアルバム「From DROPOUT」のリリース直前のライブであるということ。すでにドラマの主題歌としてオンエアされ、YouTubeでの再生回数が400万回を超える「モノローグ」を始め、すでにアルバムの全曲トレイラーも公開されているとはいえ、アルバムに収録される新曲たちをライブでフルで聴くという機会になったはずだ。
その一方ではパンクなサウンドに乗せて
「何もいらない いらない 君がいないのなら」
と叫ぶ「スライムライフ」がついに音源化するのは嬉しい限りであるが、ライブではずっと前からおなじみであった「日々よ」や弾き語りで披露された「サツキの悩み」は今回のアルバムには収録されていない。タイトル未定だった新曲もアルバム曲に昇華されたのかはわからないし、そうした「ライブでしか聴けない曲」を聴くことができるのもこの日のライブの楽しみの一つだったことは間違いない。
配信リリースされたのになぜかアルバムには収録されていない(ストレートに企業名が出てくる歌詞から?)「クソフラペチーノ」も含めて。
バンドからネット発のアーティストを含めて様々な若手アーティストが台頭した昨年、自分はこの秋山黄色を2019年の新人王に選出した。その最大の決定打となったデビューミニアルバム「Hello my shoes」に収録されている曲もこの日は全曲演奏されたのだが、こうしてライブが中止になってしまった後に改めて聴くと、歌詞がまた違う意味を帯びて聴こえてくる。
「悲しみを分かち合いたい 分かち合いたいのは 僕一人の我儘だろうか」
という「ドロシー」のフレーズは秋山黄色やスタッフ、そしてライブに来るはずだった人全員の今の心境であるかのようだ。
「また少し大人に近づいた」
と続くのだが、結局は周りのことよりも自分がライブを見たいとしか考えられない私は全く大人に近づいていない、というか大人になれていないことを痛感させられてしまうのだが。
「ねえ 檻の外に出た後の事を
一人でいつまでも思うよ」
というラスサビの歌詞もまた、こうしてライブがなくなってしまって、行き場所のなくなってしまった我々を檻の中にいると捉えるとまた感じ方は変わってくる。
檻の外に出た時、つまりは状況が収束して、今まで通りにライブを観に行けるようになった時に自分はどんなことを思うんだろうかと。
「ねえ いつか出会えたら 泣いておくれよ
僕がいなくても」
「ドロシー」はこのフレーズで締められる。
いつか出会えたら。すでに発表されている次のツアーなどのライブで秋山黄色が歌っている姿を見たら。このライブの中止を経て、この曲をライブで聴いたら間違いなく泣いてしまうと思う。秋山黄色の歌声にはそうして感情を掻き立てるものが確かに宿っているのをこれまでのライブで見てきたから。
でも「僕がいなくても」というフレーズの通りに、その時のライブに自分がいられるという保証はないのだけれど。
ライブタイトルにもなっている曲である「とうこうのはて」。9月のライブでは本編最後に演奏されていたし、今回のライブが追加公演であることを考えるとそれは今回も変わらなかったであろうと思うのだが、
「今現在の残金の総額と
あふるる夢の数がスレてて笑っちまう」
と、自身の持つ金銭のなさ、さらには
「借金まみれの顔 鏡でまた洗っている」
という通りに借金までもあることを打ち明けているこの曲だからこそ、
「ああ コンビニで 安酒買えそう」
とも歌っている。今の状況から考えて、この歌詞が本人の状況としてリアリティを持つのはきっとこの日くらいまでだ。これから先は金がなかった頃の気持ちを思い出すようにして歌うことになるだろうし、なんならWWWの規模でライブが見れることもないだろう。これから先、秋山黄色は借金なんか考えなくてもいいくらいにめちゃくちゃ売れるだろうし、安酒なんか飲まなくてもいい。毎日ちょっと贅沢なエビスビールだって飲めるようになる。そういう意味でもこの「とうこうのはて」はこの日以前と以降で全くリアリティが変わってくるはず。その最後になるであろう日をこの目で見てみたかった。
そして9月のライブでは観客に
「何の曲が聴きたい?」
とアンコールで問い掛けた。まだ持ち曲が少なかっただけに、本編でやった曲をもう1回やるしかなかったのである。その際に観客がリクエストしたのが、当時は秋山黄色の曲の中で最も再生回数が多く、代表曲的な立ち位置でありながら最初に演奏された「猿上がりシティー・ポップ」だった。
最初に演奏したのよりもさらに獰猛になるサウンドに乗せて、
「もう一度どこかで会えたらいいなって」
と歌うサビのフレーズは、その時と今とではまた意味合いが違ってきてしまった。今は会えていないから。もしかしたら開催されるはずのワンマンで初めて秋山黄色のライブに行けるという人もいただろうし、そういう人にとってはまだ「もう一度」と言うことはできない。まだ会えていないのだから。
そして
「何より愛したいんだ 居場所くらいは」
というフレーズはこうしてライブに行くことができない状況だからこそ、ライブハウスがアーティストや我々ファンの居場所であり、その場所への愛しさを改めて感じさせるものとなった。
行けなくなってしまった今だからこそ、自分がライブのために生きていたということ、そしてライブによって生かされていたということに気付く。日々の労働なんかもライブがあるからこそ耐えられる。頑張れる。そうして「あと○日であのライブが見れる」と思いながら生きてきた。
だからこそ払い戻しでチケット代が戻ってきても全く嬉しくないのだ。そもそもお金を持っていること=幸せという人生ならばこんな年間に100本以上もライブに行く生活を選んでいない。どれだけお金を持っていたとしても、お金を使ったとしても手に入れることができないものを自分の記憶や思い出にするためにライブに行っているのだから。
そんな生活をしているからこそ、普通の人からしたら
「馬鹿みたい馬鹿みたいって言って 笑ってよ 笑ってよ」
と言えるような人生なのかもしれない。でも「辛うじて息を吸って吐いている」ような人間だからこそ「一生ビッと背筋はならない」し、
「一生一緒なんて思えるようになりたかった」
と好きなアーティストに対して思ってしまうのである。
秋山黄色に評価するべきポイントはたくさんあるけれど、こんなにも我々のことを言い当ててしまうような歌詞こそがこの男の最も凄いところなのかもしれない。
数々の名盤がリリースされた2019年において、個人的に1番再生回数が多かったアルバムが「Hello my shoes」だった。そういう意味ではダントツの新人王であったし、このクオリティでフルアルバムだったら2019年のMVPに選出していただろう。果たして「From DROPOUT」は2020年のMVPが秋山黄色であることを示す決定打になるのだろうか。それを実感できたであろうこの日のライブが本当に見たかった。
今回のライブは払い戻しがされるが、前に払い戻しをしたのは2011年の東日本大震災の直後。アジカンのホールツアー2daysが中止となり、払い戻しになった。でもその時は仕方がないと思った。ニュースをずっと見ていても、なかなか音楽を聴いたり、ライブに行きたいと思えるような状態ではなかったから。それは震災や被災地に向き合ってきたアジカン(特にゴッチ)もわかっていたはず。じゃないと「ひかり」のような曲は生まれなかったと思う。
でも今回はあの時とは少し違う。少しというかだいぶ違うように感じる。どこか、自分が生きる理由になっているものが政府などから軽んじられているような気がしてしまう。生きる理由を作ってくれている人や、それに人生を賭している人たちのことも。ライブがダメになるんなら、もっとダメになるものがたくさんある気がしてならないのだ。
もちろん悪いのはウイルスである。(ベジータに殺された後に再会した天津飯のように、政府に言いたいことは腐るほどあるけれど)
一刻も早い収束を願うとともに、野外でライブを楽しめる季節には、青空の下で「やっぱり最高だよな」って思いながら音楽を浴びていたい。行けなくなってしまったり、観ることが出来なくなってしまったライブを見ることは決してできないだけに、それが1つでも少なくなりますように。
しかしながらご存知の通り、新型コロナウイルスの影響による政府の自粛要請によってライブは中止になってしまった。今回の対応における現首相や政府のクソっぷりはここで言うまでもないし、それは第一次政権の時からずっとそう思っているのだが、ライブの開催の是否についてはそれぞれの考え方があるのでここでは触れないとして、本来開催されるはずだった秋山黄色のライブと、中止になってしまったいろんなライブについてあれこれ考えたことを書いてみようと思う。
まずこのワンマンは昨年9月にTSUTAYA O-Crestで開催された「登校の果て」がソールドアウトしたことによって決まった追加公演的なものであり、その9月のセットリストはこちら。
1.猿上がりシティーポップ
2.やさぐれカイドー
3.クラッカー・シャドー
4.日々よ
5.Drown in Twinkle
6.ドロシー
7.夕暮れに映して
8.サツキの悩み (弾き語り)
9.新曲
10.新曲
11.スライムライフ
12.新曲
13.クソフラペチーノ
14.とうこうのはて
encore
15.猿上がりシティーポップ
ドラマーはその日によって変わるとはいえ、おそらくは編成も最近おなじみの4人でのものであろう。その4人が向かい合って呼吸を合わせるようにしてキメを連発する「猿上がりシティー・ポップ」から始まるという流れも今回も変わらなかったと思う。
しかしこの日と今で違うのは、この日が来るべき1stフルアルバム「From DROPOUT」のリリース直前のライブであるということ。すでにドラマの主題歌としてオンエアされ、YouTubeでの再生回数が400万回を超える「モノローグ」を始め、すでにアルバムの全曲トレイラーも公開されているとはいえ、アルバムに収録される新曲たちをライブでフルで聴くという機会になったはずだ。
その一方ではパンクなサウンドに乗せて
「何もいらない いらない 君がいないのなら」
と叫ぶ「スライムライフ」がついに音源化するのは嬉しい限りであるが、ライブではずっと前からおなじみであった「日々よ」や弾き語りで披露された「サツキの悩み」は今回のアルバムには収録されていない。タイトル未定だった新曲もアルバム曲に昇華されたのかはわからないし、そうした「ライブでしか聴けない曲」を聴くことができるのもこの日のライブの楽しみの一つだったことは間違いない。
配信リリースされたのになぜかアルバムには収録されていない(ストレートに企業名が出てくる歌詞から?)「クソフラペチーノ」も含めて。
バンドからネット発のアーティストを含めて様々な若手アーティストが台頭した昨年、自分はこの秋山黄色を2019年の新人王に選出した。その最大の決定打となったデビューミニアルバム「Hello my shoes」に収録されている曲もこの日は全曲演奏されたのだが、こうしてライブが中止になってしまった後に改めて聴くと、歌詞がまた違う意味を帯びて聴こえてくる。
「悲しみを分かち合いたい 分かち合いたいのは 僕一人の我儘だろうか」
という「ドロシー」のフレーズは秋山黄色やスタッフ、そしてライブに来るはずだった人全員の今の心境であるかのようだ。
「また少し大人に近づいた」
と続くのだが、結局は周りのことよりも自分がライブを見たいとしか考えられない私は全く大人に近づいていない、というか大人になれていないことを痛感させられてしまうのだが。
「ねえ 檻の外に出た後の事を
一人でいつまでも思うよ」
というラスサビの歌詞もまた、こうしてライブがなくなってしまって、行き場所のなくなってしまった我々を檻の中にいると捉えるとまた感じ方は変わってくる。
檻の外に出た時、つまりは状況が収束して、今まで通りにライブを観に行けるようになった時に自分はどんなことを思うんだろうかと。
「ねえ いつか出会えたら 泣いておくれよ
僕がいなくても」
「ドロシー」はこのフレーズで締められる。
いつか出会えたら。すでに発表されている次のツアーなどのライブで秋山黄色が歌っている姿を見たら。このライブの中止を経て、この曲をライブで聴いたら間違いなく泣いてしまうと思う。秋山黄色の歌声にはそうして感情を掻き立てるものが確かに宿っているのをこれまでのライブで見てきたから。
でも「僕がいなくても」というフレーズの通りに、その時のライブに自分がいられるという保証はないのだけれど。
ライブタイトルにもなっている曲である「とうこうのはて」。9月のライブでは本編最後に演奏されていたし、今回のライブが追加公演であることを考えるとそれは今回も変わらなかったであろうと思うのだが、
「今現在の残金の総額と
あふるる夢の数がスレてて笑っちまう」
と、自身の持つ金銭のなさ、さらには
「借金まみれの顔 鏡でまた洗っている」
という通りに借金までもあることを打ち明けているこの曲だからこそ、
「ああ コンビニで 安酒買えそう」
とも歌っている。今の状況から考えて、この歌詞が本人の状況としてリアリティを持つのはきっとこの日くらいまでだ。これから先は金がなかった頃の気持ちを思い出すようにして歌うことになるだろうし、なんならWWWの規模でライブが見れることもないだろう。これから先、秋山黄色は借金なんか考えなくてもいいくらいにめちゃくちゃ売れるだろうし、安酒なんか飲まなくてもいい。毎日ちょっと贅沢なエビスビールだって飲めるようになる。そういう意味でもこの「とうこうのはて」はこの日以前と以降で全くリアリティが変わってくるはず。その最後になるであろう日をこの目で見てみたかった。
そして9月のライブでは観客に
「何の曲が聴きたい?」
とアンコールで問い掛けた。まだ持ち曲が少なかっただけに、本編でやった曲をもう1回やるしかなかったのである。その際に観客がリクエストしたのが、当時は秋山黄色の曲の中で最も再生回数が多く、代表曲的な立ち位置でありながら最初に演奏された「猿上がりシティー・ポップ」だった。
最初に演奏したのよりもさらに獰猛になるサウンドに乗せて、
「もう一度どこかで会えたらいいなって」
と歌うサビのフレーズは、その時と今とではまた意味合いが違ってきてしまった。今は会えていないから。もしかしたら開催されるはずのワンマンで初めて秋山黄色のライブに行けるという人もいただろうし、そういう人にとってはまだ「もう一度」と言うことはできない。まだ会えていないのだから。
そして
「何より愛したいんだ 居場所くらいは」
というフレーズはこうしてライブに行くことができない状況だからこそ、ライブハウスがアーティストや我々ファンの居場所であり、その場所への愛しさを改めて感じさせるものとなった。
行けなくなってしまった今だからこそ、自分がライブのために生きていたということ、そしてライブによって生かされていたということに気付く。日々の労働なんかもライブがあるからこそ耐えられる。頑張れる。そうして「あと○日であのライブが見れる」と思いながら生きてきた。
だからこそ払い戻しでチケット代が戻ってきても全く嬉しくないのだ。そもそもお金を持っていること=幸せという人生ならばこんな年間に100本以上もライブに行く生活を選んでいない。どれだけお金を持っていたとしても、お金を使ったとしても手に入れることができないものを自分の記憶や思い出にするためにライブに行っているのだから。
そんな生活をしているからこそ、普通の人からしたら
「馬鹿みたい馬鹿みたいって言って 笑ってよ 笑ってよ」
と言えるような人生なのかもしれない。でも「辛うじて息を吸って吐いている」ような人間だからこそ「一生ビッと背筋はならない」し、
「一生一緒なんて思えるようになりたかった」
と好きなアーティストに対して思ってしまうのである。
秋山黄色に評価するべきポイントはたくさんあるけれど、こんなにも我々のことを言い当ててしまうような歌詞こそがこの男の最も凄いところなのかもしれない。
数々の名盤がリリースされた2019年において、個人的に1番再生回数が多かったアルバムが「Hello my shoes」だった。そういう意味ではダントツの新人王であったし、このクオリティでフルアルバムだったら2019年のMVPに選出していただろう。果たして「From DROPOUT」は2020年のMVPが秋山黄色であることを示す決定打になるのだろうか。それを実感できたであろうこの日のライブが本当に見たかった。
今回のライブは払い戻しがされるが、前に払い戻しをしたのは2011年の東日本大震災の直後。アジカンのホールツアー2daysが中止となり、払い戻しになった。でもその時は仕方がないと思った。ニュースをずっと見ていても、なかなか音楽を聴いたり、ライブに行きたいと思えるような状態ではなかったから。それは震災や被災地に向き合ってきたアジカン(特にゴッチ)もわかっていたはず。じゃないと「ひかり」のような曲は生まれなかったと思う。
でも今回はあの時とは少し違う。少しというかだいぶ違うように感じる。どこか、自分が生きる理由になっているものが政府などから軽んじられているような気がしてしまう。生きる理由を作ってくれている人や、それに人生を賭している人たちのことも。ライブがダメになるんなら、もっとダメになるものがたくさんある気がしてならないのだ。
もちろん悪いのはウイルスである。(ベジータに殺された後に再会した天津飯のように、政府に言いたいことは腐るほどあるけれど)
一刻も早い収束を願うとともに、野外でライブを楽しめる季節には、青空の下で「やっぱり最高だよな」って思いながら音楽を浴びていたい。行けなくなってしまったり、観ることが出来なくなってしまったライブを見ることは決してできないだけに、それが1つでも少なくなりますように。