まさかこんなことを書くことになるなんて全く思ってなかった。いつか終わりが来るとしても、自分が今のようにライブに行きまくって、そのライブのレポを書くような生活をしなくなったはるか先にこのバンドの終わりの時が来るんだろうなと思っていたから。だからまだこうして書いていても気持ちの整理がつかないし、現実味がまだない。まだ当たり前のように年末や来年にライブが見れるような感覚すらある。
11月15日、NICO Touches the Wallsが突然の活動終了を発表した。
不穏な空気は確かにあった。これまでの15年間の中でライブ予定がないということはないくらいにずっと走り続けてきたバンドであるにも関わらず、夏フェス後からなんの予定もない、ファンクラブ向けのコンテンツも更新されない、毎年恒例の11月25日の「イイニコの日」のライブについての情報もない、出演し続けてきたCOUNTDOWN JAPANのラインナップにも名前がない。こんなことは初めてだったからである。
「レーベル移籍するんじゃないか」などの予想もある中で、自分はどこか楽観視していた。年齢的にも、ずっと走り続けてきただけに、活動休止とは言わないまでもちょっと休みが欲しくなったんじゃないか、くらいに。
しかしそんな様々な予想は考えられる中で最も最悪な形として発表されてしまった。キャンセルになったマキシマム ザ ホルモンの代打で今年もCOUNTDOWN JAPANに、という淡い期待をしていたわずか数日後のことだった。
2006年、「Wall Is Beginning」でインディーズからデビューしたばかりだったNICO Touches the Wallsのライブをすぐに見れる機会が訪れた。ロッキンオンの主催イベント、今はなき渋谷AXにて行われた、JAPAN CIRCUITというイベント。GRAPEVINEというメンバーがリスペクトを寄せるバンドと共演することになったライブにおいて、ロッキンオンジャパン編集長の山崎洋一郎が
「これから本誌でガンガン押していきたいと思っているバンド」
と紹介した期待感に違わぬライブを見せたが、その当時は「そのTAXI,160km/h」の獰猛性を軸にし、「行方」「病気」といった幽玄さやブルースの要素を持った曲が多かったため、それこそポストGRAPEVINE的なイメージの若手バンドであった。
そのライブの前からすでに千葉のバンドであることは知っていたが、彼らが在籍していた高校は自分が在籍していた高校のすぐ近くだった。何度も部活の練習試合などで自転車で訪れた学校であった。そして光村龍哉(ボーカル&ギター)と坂倉心悟(ベース)は自分と同い年であった。(坂倉は3人とは出身高校は違うけれど)
この世に生まれてからほとんど同じ時間を生きてきて、同じような景色を見て育ってきた。そこに他の同世代のバンドとは少し違う意識や感情を持っていたし、彼らの「runova × handover」に入っていたバラードのタイトルが他のどの花でもなく「梨の花」だったのも実によくわかることだった。
NICOはメジャーデビュー後は勢いよく階段を駆け上がって行った。QUATTROから日比谷野音、Zepp Tokyoと一気に会場が広くなる中、2ndアルバム「オーロラ」をリリース後にバンドは早くも初の日本武道館ワンマンへと歩みを進める。まだ状況的にはZeppがようやく埋まるようになったくらい。そこからの大幅なステップアップはやはりまだ時期尚早であり、武道館のスタンド席の最上段3列ほどに黒いシートがかけられていた光景は今でも忘れられない。それはこの記念すべき日が自分にとっての生まれた日であったというのも忘れられない要素の一つになっている。
その武道館を機にバンドは「リベンジ」という言葉を一つの合言葉にするようになった。次に武道館をやる時はあの日果たせなかったことを果たせるように。例えば初武道館までは「Broken Youth」あたりの曲を光村が歌い切れていない場面もよくあった。まだ抜群に歌が上手いわけでもなければ、めちゃくちゃライブが良いバンドというわけでもなかった。
それを自分たちで理解していて、足りないものが分かっていたからこそ、バンドは武道館の後に敢えて小さいキャパのライブハウスを回りまくるツアー「ミチナキミチ」を開催した。そこでライブバンドとして自分たちに足りなかったものをしっかり手に入れることができたからこそ、その年の年末のCOUNTDOWN JAPAN 10/11でマキシマム ザ ホルモンの裏という実に厳しい時間帯のGALAXY STAGEでのライブはNICOがバンドとして一段階上の場所まで行った、今ならもっと武道館にふさわしいライブができると思えるくらいに素晴らしいものだった。ライブが終わってステージから去る際に光村と対馬が肩を組んで歩いていた光景はその手応えをバンドが感じていたからであっただろうし、今思い返すと涙が出てきてしまいそうなものでもある。
しかし同時にその初武道館のあたり、「オーロラ」には「ホログラム」「かけら -総べての想いたちへ-」というそれまでに比べたらはるかに大きなタイアップを獲得した、さらに広い場所でたくさんの人に届かせようとするタイプの曲が入っていた。実際に音楽に全く興味のない当時の同級生もタイアップによって「ホログラム」は知っていた。
そうした曲はそれ以前のファンからは「変わった」と言われる要因になったし、「ポップな歌モノのバンド」というイメージが強く定着していった。そもそもスピッツなどに大きな影響を受けている光村のメロディメーカーとしての素養が強く表出した時期であったが、そのイメージによって翻弄されたり、ナメられたりしていたように感じたのも確かだ。ライブバンドとしての力をつけていたからこそ、そこのギャップによるジレンマをファンは強く感じるようになっていった。
それからバンドはメロディこそキャッチーでありながらロックバンドとしてのタフさを増していった「PASSENGER」「HUMANIA」(2011年に2枚もフルアルバムを出している)と傑作アルバムを次々に生み出し、「HUMANIA」リリース後にはバンドの地元と言える千葉の幕張メッセイベントホールでもワンマンを行い、この辺りから新しい世代のバンドの筆頭格としてフェスのメインステージに立つようになっていく。一気に何段階も飛ばしていくんじゃなくて、何年もかけてそこまで辿り着いたのが実にこのバンドらしかったし、その光景は本当に感慨深かった。
そして完全無欠の大勝利にしてリベンジシングルとなった「天地ガエシ」(2014年)をもってバンドは2度目の日本武道館ワンマンを行い、1度目は埋まらなかった客席を見事に埋めてみせた。ある意味では第一期のNICOの集大成だったと言ってもいいそのライブの後に生み出した「Shout to the Walls!」はそれまでのアルバムとは違い、バンドの多面的な要素や音楽性の引き出しの多さ、何よりも歴としたライブバンドとなったことによるメンバーの技術を集結させた、自分たちが鳴らしたいロックを鳴らしたアルバムになった。
この頃からNICOはライブにおいても「ただ音源と同じように演奏する」のではなくて、「その時のモードや閃きによって日にしかやらないようなアレンジを施して演奏する」というライブの在り方に変化していった。
それまでも素晴らしいライブを見せてくれていたNICOのライブをより見逃せなくなったのはこの頃からだ。ライブによってアレンジを変えるということは全く同じセトリでライブをやっても内容は全く違うものであるということ。実際に自分は3回目の日本武道館ワンマンとなった2016年の「東の渦」のライブを見た際に、
「数年後にまたこの日本武道館で全く同じセトリでライブをやっても全然違うライブになるはず」
と書いた。テンポを速くしたり遅くしたり、使う楽器を変えたり、リズムを大胆に変えたり、メンバー4人のうちの2人だけで演奏したり、セッション的な演奏を加えたり、あるいはのちにACO Touches the Walls名義として本格化するアコースティックアレンジにしたり。毎回ライブを見るのが本当に楽しかった。いつもそのアレンジやアイデアに驚かされていた。広い会場になると演出などで違いをもたらすのが普通のやり方である中、NICOはあくまで音楽で、曲で遊ぶようにして1つ1つのライブに違いをもたらしていた。
そうしたライブの作り方はNICOを唯一無二のバンドたらしめる最大の要素だったのだが、一方でフェスなどで「曲は知ってるけど初めて見る」というような人たちにはどう見えているんだろうかと思うこともあった。
ワンマンをずっと見ているとその凄さを実感せざるを得ないのだけれど、もしかしたら音源通りに聞きたかったという人もいるんじゃないかと。実際にこの辺りからはフェスでメインステージに立ってはいるけれど、「なんでNICOがメインステージなんだ」と言われるのをよく目や耳にしていた。
確かに単純に動員力だけで見たらNICOよりもメインステージが埋まる若手バンドもたくさんいるかもしれない。でもやっぱりライブを見ると、こんなライブができるのはNICOしかいないと思っていたし、だからこそずっとNICOにはメインステージに立ち続けて欲しかった。もっとたくさんの人にこのバンドの凄さを見てもらいたかったし、武道館までではなくてさらにその先、その上の場所でライブを見たかった。そこに立つべきバンドだと思っていたから。
その願いは今年の夏フェスまではなんとか叶っていた。まだメインステージに立つNICOの姿を見ることができた。一方でバンドのスケジュールとしては少し違和感を感じていたのもまた事実であった。
シングル曲を一曲も収録していない、ただひたすらに自分たちのやりたいことをやったアルバムという「QUIZMASTER」を6月にリリースし、今まであまりNICOを聴いていなかったような人たちにも評価してもらえた名盤となったのだが、リリースツアーのスケジュールのほとんどはアルバムリリース前に終わっており、リリース後は東京と大阪のみ。つまりアルバムをしっかり全部聴いてからライブを見れたのはその2公演だけというなんともアンバランスなものだったから。
とはいえ当初の予定よりリリースが遅れてツアーのスケジュールと噛み合わなくなるというのはサカナクションでありBase Ball Bearであり同世代のバンドたちでも経験していることではあるのだが、てっきり追加公演をやるだろうと思いきやそれもない、残るのは夏フェスのみという状況はファンに戸惑いや不安を感じさせてしまうものになっていた。
その不安は考え得る最も悪い形で的中してしまった。バンドの形が変わることなく、止まることもなく長い年月続いていく。かつて主催フェスに呼んでくれたアジカンのような存在になれる同世代のバンドはNICOくらいだと思っていた。これからもずっとそうやって続いていくと思っていたから。それなのに15年間の結末がこんなにあっけないものとは。
せめて最後にライブの1本くらいは、と思ってしまう。去年のCOUNTDOWN JAPANでNICOは終わることを選んだチャットモンチーの「ハナノユメ」をカバーした。それは自分たちはこれからも進んでいくというあの時点での宣誓であったはずだ。そのチャットモンチーが最後に武道館でワンマンをやり、地元の徳島でフェスをやってから終わったように、最後に会える場が欲しかったし、どんなに悲しいものになるとしても、最後のライブをちゃんと「最後だ」と思って見たかった。結果的にラブシャが最後、っていうのでは全く実感が湧かない。
何よりも、NICOが最後のライブでどんな曲を演奏することにしたのか、それをどんな形で鳴らすのか。画面越しの誰が書いたのかもよくわからない1枚の紙だけではなくて、目の前で直接本人たちの言葉を聞きたかった。それをしっかり最後の形として記憶しておきたかった。
それにライブをやることによってファンが集まれるような機会を作って欲しかった。NICOのライブに行けば当たり前のようにNICOが好きなフォロワーさんがたくさんいて、ライブが終わった後に感想をツイートしたり、ごく稀に打ち上げをしに行ったり。自分なんぞの書いたライブレポをきっと1番たくさん見てくれていたのもNICOのファンの人たちだった。いつも褒めていただけて本当に嬉しかったし、ちょっとくらいはNICOの魅力を伝えられていたんじゃないかと思えていた。
ファンはバンドを写す鏡だなんてよく言うが、フェスでの最前場所取りやゴミのポイ捨てなど、バンドのTシャツを着ている人がやったらすぐにSNSに書かれて拡散されるような現代において、NICOのファンがとやかく言われるのを全く見たことがなかった。そこまでみんな主張が強いわけではないというのもあるだろうけれど、何よりみんな「どうすればNICOがもっとたくさんの人たちに聞いてもらえるか」ということをひたすら考えて話し合ったりした。次のツアーに何本行くか、なんてことも含めてもうそういう話をする機会がないというのも本当に寂しい限りだ。それは自分以外のファンの人がどう思っていて、どう見ているのかというのを確かめられる時間だったから。
永遠なんてない、いつか終わりが来る、なんてことは言われなくてもわかっている。今までどれだけ多くのバンドがいなくなっていくのを見てきたことか。
でも、NICOにとってのそれはもっともっとはるか先のことだと思っていた。それこそお互いが老人になったくらい。いや、それよりももっと先。今のThe Rolling Stonesの年齢を超えた時にもNICOは続いていると思っていた。いろいろあったけれど、続いてきたとしても形が変わってしまった同世代のバンドたちを横目に、NICOはずっとあの4人でこれまで続いてきたから。その姿に自分は勝手に勇気も愛も貰っていた。同年代のスポーツ選手も数えられるくらいの人数になっていく中、NICOが今なお進化し続けている姿を見るたびに、まだまだいける。まだまだ大丈夫だって思ってきたから。NICOはメンバーの口から全くそういうことを発してこなかったけれど、音楽を鳴らす姿は何よりも雄弁に自分のそうした感情を奮い立たせてきてくれた。
そうして続いていくと思っていたのは、NICOのメンバーたちがバンド以外の活動をほとんどやってこなかったからということもある。いくらでもソロで活動できそうな光村でさえも、DJくらいしか課外活動を行わなかった。古村も坂倉も対馬も、NICOのメンバーとしてしか生きていく姿が想像できなかった。だからこそずっとこの4人のままでいると思っていたのだ。
メンバーは変わらずに改名、という声もあるけれど、かつて[Champagne]が[ALEXANDROS]に変わったそれとはまた違う。改名宣言をしてライブ中に新しい名前を発表した[ALEXANDROS]には覚悟があったし、中身は何も変わらないのがわかっていたから。(NICOのフェストに何回も出てくれて本当にありがとう)
もしこれから4人がまた一緒にバンドをやるとしても、もう我々が長い年月ずっと愛してきたNICO Touches the Wallsという名前ではなくなってしまう。ACO Touches the Wallsも「カベニミミ」も、このバンド名だからできたことだ。なんならインディーズ1stの「Wall is Beginning」というタイトルさえも。NICOの名前が変わるということはそうした15年間の全てがもう取り戻せないものになってしまうということだ。
結局のところ、終わりにしようとした理由はどんなに見てきたとしても我々からはわからない。「求められることとやりたいことの違い」というのも、休止前に明らかにそこに悩んでいたthe telephonesと比べると(若手時代に一緒にスペシャ列伝ツアーを回った同期)、NICOはそこをほとんど気にしていないようにすら見えていた。ただただ、もうNICO Touches the Wallsの新曲を聴くこともなければ、「今日のあの曲はあんなアレンジで…」と思い返しながらライブレポを書くこともないという事実だけが残っている。
でもこうして悲しい気分になるのは出会えたから。悲し過ぎて泣きそうになるのは出会えて、その存在を愛していたから。少なくともYahooニュースのコメントに「知らない」だけ言うような奴よりも自分ははるかに幸せだったと思っている。もっと見ていたかったのはもちろんだけど、もっと見ておけばよかったと後悔しないくらいにずっと見続けることができたから。
「バイバイまた会える日まで僕を忘れないでよ」も「来世で逢いましょう」もまだ言えない。「死が2人を分かつまで」「螺旋階段は続いていく」と思っていたから、まだ実感が全くないのだ。しれっと来年の夏にはまたロッキンのGRASS STAGEやラブシャのLAKESIDE STAGEに立っているんじゃないかって。だから感謝の言葉も全く浮かんでこないけれど、それを素直に、心から言えるようになれる時が来たら、「いつか迎えに来てよ 夜の果てへ 僕のもとへ」。