これまで「スターライト」や「虚無病」などの楽曲と連動した様々なコンセプトのライブを行ってきた、amazarashi。
今回のワンマンライブ「新言語秩序」はこれまでの全ての曲で、秋田ひろむでしか絶対に書けない歌詞を生み出してきたamazarashiが「言葉」をテーマにしたライブを行うということは想像できることだが、初の武道館ワンマンというと通常はそれまでの活動の集大成的な内容になるが、この日のためのスマホアプリが配信されたり(前回の中野サンプラザワンマンの時にアプリのデモンストレーションが行われた)と、全くそんな空気はないどころか、どんなライブになるのか全く想像がつかない。
武道館の中に入ると、場内正面にそびえ立つのは、かつて幕張メッセイベントホールで行われた360°客席のライブでも使われた、鳥かごのようなLEDパネルに取り囲まれたステージ。そのパネルには
「新言語秩序」「言葉ゾンビ」「再教育」
というこのライブのキーワードとなるであろう単語の説明が表示されている。
19時を過ぎると、LEDパネルに「通告」という文字とアナウンスが流れ始め、スマホアプリの起動を促し、アプリの画面をステージ方向にかざすと、伏せられた文字が次々と明らかになっていく。これが今回のスマホアプリと連動したライブの演出であり、座席から立ち上がることがないので、アクションを取ることが全くない観客がamazarashiのライブを作る要素の1つになっているということを実感させてくれる。
LEDパネルの向こう側にメンバーが登場すると、メンバーは南側の座席に向かって横並びになり、新聞に「新言語秩序」による活動によって世の中の全ての言語がテンプレート化されていっており、それが世論や政府の支持を得ていて、セクハラやパワハラが減少している、というデータが映し出されていく映像とともに演奏されたのは「ワードプロセッサー」。「言葉」をテーマとしたライブの1曲目として、言葉を打つ機械である「ワードプロセッサー」が選ばれたのは当然と言えるが、よく見ると新聞の見出しにはこの曲の歌詞が映し出されては、新言語秩序の検閲によって黒く塗りつぶされていく。amazarashiの歌詞はやはりテンプレート化されたものではない、ということ、そうした意志を持って秋田ひろむが言葉を紡いでいる、ということがよくわかるスタートであり、秋田は曲終わりで
「青森県から来ました、amazarashiです!」
と力強くおなじみの挨拶。
この武道館ワンマンの直前にリリースされ、過激な描写のMV(実はこのストーリーの内容の一部を示していたものでもある)が話題を呼んだシングル曲「リビングデッド」が早くも披露されると、次々と新言語秩序を支持するツイッターのアカウントの画面が映し出されていく。その中で新言語秩序の中心人物が「実多」(ミタ)という女性であることが見えてくる。そしてその新言語秩序と対立する、言葉の自由を求める人々「言葉ゾンビ」の中心人物が「希明」(キア)という少年であることも。
その映像の向こう側にはメンバーの演奏する姿がうっすらと、でも確かに見えるのだが、映像の奥という見えないシーンの方が多いライブであっても自身の奏でるサウンドに合わせて体を大きく動かしながら弾くギターの井手上誠(黒木渚など)の姿が目を惹く中、ステージ下手で椅子に座ってピアノを弾いている女性は、前回のツアーには参加していなかった、amazarashiのもう1人のメンバーである、豊川真奈美。近年の曲ではもはやピアノ&コーラスというよりはもうひとりのボーカルという側面も強くなってきているだけに、その声がこの会場で発されて秋田のボーカルに重なっていくというのは、amazarashiの世界観を100%見せる重要な要素である。
秋田のボーカルは序盤はやはり日本武道館でのライブということもあってか、緊張感を感じる場面も多々あったが、風景を描いたアニメーションの中にamazarashiの歌詞が映し出される「空洞空洞」、観客がスマホをステージにかざすことで新言語秩序によって検閲されて黒塗りになった歌詞があらわになっていくというアプリの演出が生かされ(スマホをかざすと画面が光るので、暗闇の中で光るスタンド席がとてもキレイだ)、アッパーなギターロックのサウンドがストーリーだけではない音楽のライブとしてのダイナミズムを与えてくれる。
ここで画面には新言語秩序の機密情報として、物語の第1章が秋田ひろむによる朗読という形で語られる。実多が新言語秩序という団体を作り上げることになった、壮絶なストーリー。学校でいじめられ、教師には無視され、実の父親にレイプされ…。そうした経験から実多は醜い言葉や汚い言葉を拒絶、排除するようになり、ついには父親を殺害するに至る。
「目覚まし時計で頭を何度も殴りつけた。目覚まし時計は壊れてしまったが、私は目覚めたのだ」
という、実多が新言語秩序に向かっていく第1章の結びの文章は残酷ではあれど実に秀逸だ。
朗読が終わると、メンバーは90°向きを変えており、東側の観客に正対する形に。ステージが客席の中央にある360°ライブとなると、演者の姿が見えにくい時もあるが、幕張メッセイベントホールでの「虚無病」の時と同様にこうしてメンバーが向きを変えることによって、映像越しというスタイルではあれど全ての位置の観客に全ての角度からライブを見せようとしている。
そうして映し出されたのは、YouTubeでの「自虐家のアリー」の再生画面。しかしながらamazarashiの楽曲は新言語秩序による検閲対象になってしまっているため、関連動画に並ぶ過去曲たちは次々と凍結されていく。そんな中でコメント欄に並ぶ、amazarashiの曲の言葉から力や希望を貰い、言葉の力を信じる言葉ゾンビたちの言葉。その中には言葉ゾンビのカリスマである希明のコメントも。
豊川のコーラスが力強く突き刺さる、CMのタイアップとしてお茶の間にも響き渡った「フィロソフィー」、希明と思われる人物の背中に歌詞が映し出されることにより、ナモナキヒトが言葉の力を得てカリスマ性を得ていくというストーリーを感じさせる、久しぶりにライブで演奏された「ナモナキヒト」、やはり歌詞の検閲が解除されていくことによって、自身の内にある言葉をしっかりと発するという当たり前の行為を行う人間という存在こそが命にふさわしい、と考えさせられる「命にふさわしい」と、アッパーなサウンドだった序盤とは異なり、徐々にテンポを落とした曲が演奏されていくことによって、否が応でも「言葉」「生きること」「人間」というものについて考えさせられる。
朗読の第2章では言葉ゾンビのカリスマとしてアーティストとしてライブハウスで自身の言葉を発する活動をしている希明が新言語秩序のメンバーによって捕まり、「再教育」という名の、テンプレート化された言葉のみを使用させるための洗脳プログラムに連行されていくという場面に。
しかしながら希明の鋭い眼光と、希明が取り押さえられたことによって暴徒化した言葉ゾンビのメンバーたちが
「言葉を取り戻せ!」
というクライマックスへの布石となる合言葉を叫んで実多を襲撃し、暴行を加える。痛みを感じない実多が殴られる中で思い出していたのは父親のこと。彼女にとって言葉を殺すということは忌まわしき父親を殺すことと同意なのであった。
希明が連行されても言葉ゾンビたちによる新言語秩序への抵抗は続き、さらに激化の一途を辿る。その抵抗の一部である言葉が街中の至る場所に書かれた映像とともに演奏された「ムカデ」が物語の展開を促すと、「リビングデッド」のカップリングである「月が綺麗」ではタイトル通りに月のアニメーションが映し出される。
てっきりこの曲はこうしたコンセプトに縛られない、「さくら」や「隅田川」といったamazarashiのメロディの美しさに特化した曲だと思ってCDを聴いていたのだが、
「僕が言葉を話す 君が言葉で答える
僕らの距離を埋めたのは きっと言葉だった」
という歌い出しのフレーズがこの曲もまた「言葉」をテーマにしたこのライブの中の重要な1曲であることを気付かせる。
「人生において苦楽は 惑星における衛星のよう」
というフレーズもまた、言葉にひたすらにこだわってきたamazarashiだからこそ描ける真理だ。
希明とamazarashiの言葉についての雑誌のインタビュー映像とともに
「生きる意味とはなんだ 寝起き一杯のコーヒーくらいのもんか
それとも酔いどれの千夜一夜」
というフレーズが「生きること」の意味を考えさせられ、秋田のポエトリーリーディング的な「しらふ」と、より一層言葉の鋭さが増していく曲が並ぶと、ストーリーは佳境へ差し掛かっていく。
「再教育」を施されている希明の病室を訪れる実多。抵抗は失っていないが、肉体と精神を切り裂かれていくような洗脳によって立ち上がることすらできない希明が、言葉によって侮辱され、罵られたことによって言葉を憎むようになった実多へ
「人は言葉で変われる。人を殺す言葉もあれば、人を生かす言葉もある」
と語る。それを聞いて思わず口から出た、実多の
「やはり殺しておくべきだった」
という、テンプレートから逸脱した言葉。そうした自分の中に自由な言葉を持っている実多のことを見抜いた希明によって、物語は最終章へ進んでいく。
「「言葉を消した」という言葉は消えなかった」という言葉も消えなかった
と実多は自身の中に言葉を残しながら。
「遺書」と書かれた文書が次々に現れ、机には「死ね」という大きな文字と、遺書と花。それは他者を殺さずに自分を殺すことを選んだ道の実多のもの。それが「僕が死のうと思ったのは」によってより一層生々しさを与えていく。元々は中島美嘉に提供した曲のセルフカバーであったが、この物語の中に組み込まれることによって、曲の中の言葉に新たな意味と力が宿っていく。amazarashiのライブはそうして、過去に作られた曲であってもまるでこの日のために作られたんじゃないだろうか、と感じる曲がたくさんある。そうしたライブができる人を自分は他に見たことがない。
そうしてメンバーの演奏はもちろん、秋田のボーカルはもはやここが武道館というロックの聖地であるということを忘れさせるくらいの鬼気迫る表情を見せていく。
「ねぇママあなたの言うとおり 彼らは裁かれてしかるべきだ」
という「性善説」のフレーズはテンプレートから逸脱したことによって「再教育」という裁きを受けることになった希明のことを示しているようだし、
「必ず死ぬと書いて必死 夢の中と書いて夢中」
と金八先生ばりに言葉の成り立ちを説く「空っぽの空に潰される」と、終盤ということもあって物語に、言葉の本質にさらに深く刺さっていくような曲が演奏されていく。その曲たちはamazarashiがこれまでも何度もライブで演奏してきた曲であり、amazarashiの言葉に向き合うスタンスが過去から全く変わっていないことを示している。
とりわけそれが最も感じられたのは、かつては松明のような炎が灯される中で「クリスマス」の映像とともに演奏されていた「カルマ」。検閲が解除された歌詞の向こう側で
「笑って生きていたいと健気に 海の風に微笑むあの娘は
愛する人が銃で撃たれたことを まだ知らない」
というフレーズを絶唱する秋田。その後に繰り返される
「どうかあの娘を救って」
というリフレインは実多の救済を懇願するかのように鳴り響いていた。
最終章では言葉ゾンビたちが様々な主張を掲げる国会前の大規模デモのステージで演説をする希明と、その様子をスマホで撮影し、テンプレートから逸脱した言葉を消そうとデモ隊に紛れ込む実多が対峙。希明の取り巻きが実多を発見し、殺されるかもしれない恐怖を抱く実多に対して
「言いたいことはあるか?」
と問いかけ、マイクを実多に向ける希明。マイクを手にするということは言いたいことがある、すなわち新言語秩序の敗北を意味する。事前に公開されたストーリーの中ではマイクではなくナイフを手にして希明を刺すことで言葉を消した実多の中に蠢く様々な言葉や感情。
そして実多はナイフではなくマイクを手にする。自分の言葉を口にするために。
そこで物語は終わり、最初と同じように南側を向いたメンバーが演奏したのは、「リビングデッド」のカップリングの3曲目に収録されたが、新言語秩序の検閲によってほとんどの言葉が聞き取れないという「検閲済み」バージョンであった「独白」。それがもはや言葉ゾンビの同胞となった観客がスマホをステージに掲げることによって、全ての歌詞があらわになった完全体として初披露される。
過去の曲すらもこの日のために作られたかのようだ、と前述したが、この曲だけはまさにこの日、このライブのために作られた曲だった。徹底的に言葉の力を信じるような歌詞と、まるで秋田ひろむがデモのステージに立っている希明であるかのごとくに繰り返す
「言葉を取り戻せ!」
というリフレイン。
「言葉」を軸にしたストーリーを通して、これまでの活動を通してamazarashiが表現してきたこと、そしてこれからのamazarashiとしての戦い方。日本武道館という場所を忘れてしまいそうだったが、やはり初めての武道館というのは活動の集大成であり、またこれからを示すようなものとなったのだった。
演奏が終わると、スタッフロールが流れ、ステージを降りていくメンバーたち。1本のライブとは思えない、まるで映画並みの関わった人の数の多さ。それは武道館を完璧に埋めきった観客同様に、amazarashiの言葉の力を信じてきた言葉ゾンビがこんなにもたくさんいるのだ、というのを示しているかのようだった。
「スターライト」も「虚無病」もそうだった。amazarashiのコンセプトライブには、その時の社会問題に対する意見や考え、メッセージがあった。この「言葉」というテーマは昨今のSNSなどでのちょっとした失言が拡散されまくって、叩かれまくる言葉のディストピア。誰かを傷つけないように言葉を選ぶのは大事なことではあるが、それだけになっていくと、次第に監視社会化していき、誰もが当たり障りのないことしか言えなくなっていく。そうなったらamazarashiは歌える歌がなくなってしまうし、世に溢れる音楽は同じものばかりになってしまう。
でも我々が心を動かされたり、人生を変えられたのは、amazarashiをはじめとした、その人にしか歌えない、その人が歌うことによって説得力を帯びるアーティストの「言葉」だった。
そこに誰よりも自覚的に向き合ってきたからこそ、amazarashiはこれからも自分の言葉でもって、世界や社会と対峙していく。その覚悟や信念が溢れすぎて、心と体がただただ震えるしかなかった、素晴らしい初武道館だった。
全く楽しいという感情にならないし、一体感もない。だけども音楽が、演奏や歌が、それを最大限に際立つような演出や設定に圧倒されてしまうし、芸術だな、って思える。こんなライブができるアーティストはこの世に他に誰もいない。
1.ワードプロセッサー
2.リビングデッド
3.空洞空洞
4.季節は次々死んでいく
第1章
5.自虐家のアリー
6.フィロソフィー
7.ナモナキヒト
8.命にふさわしい
第2章
9.ムカデ
10.月が綺麗
11.吐きそうだ
12.しらふ
第3章
13.僕が死のうと思ったのは
14.性善説
15.空っぽの空に潰される
16.カルマ
第4章
17.独白
リビングデッド
https://music.youtube.com/watch?v=JtcyvtepPiU
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