さユり レイメイのすヽめ @Zepp Tokyo 10/19
- 2018/10/20
- 01:22
「2次元と3次元を行き来する2.5次元パラレルシンガーソングライター」、さユり。RADWIMPSの野田洋次郎が提供した2016年12月リリースの「フラレガイガール」がスマッシュヒットし、1stフルアルバムの「ミカヅキの航海」は発売日のオリコンチャートで1位を獲得するという、新世代の女性シンガーソングライターとして完全に確固たる地位を確立している。
MVでもYKBX(amazarashiの映像なども手がけているクリエイター)らによるコンセプチュアルかつ、最大限に曲と歌詞のイメージを伝える映像を生み出してきたが、今回のツアーは映像とのコラボによるものというテーマが前もって発表されており、聴覚だけでなく視覚にも大きな刺激を与えることは間違いないという意味でも実に楽しみなもの。
ソールドアウトとなったZepp Tokyoの中は、「ここまでのは久しぶりだな…」と思うくらいに男性比率が高い。しかも年齢層がやや高め。女性のバンド(yonigeやリーガルリリーなど)のワンマンには最近でも足を運んでいるが、どちらかと言えば若いファンが多いバンドのライブとは異なる客層に、自分がこうして女性シンガーソングライターのワンマンに来ることが久しぶりであるということを悟る。
映像とのコラボによるライブ、ということでamazarashiのライブと同様にステージには薄い紗幕がかけられている。しかしながら顔出しをしていないアーティストであるamazarashiとは異なり、紗幕の明度が高いので、先にステージに登場した、バックバンドのガスマスクたち(バックバンドのメンバーは「酸欠少女」という、さユりの通称に合わせてガスマスクを装着している)の存在もしっかり確認することができる。
その紗幕に美しい満月(ミカヅキではない)が輝く惑星の映像が映し出されると、その映像が終わる頃には、さユりもアコギを抱えてステージに立っており、激しくアコギを搔き鳴らしながら、
「何が悲しくて泣いているんだろう?」
と冒頭から自身の存在を問いかけながらも、ここから物語が始まることを感じさせる「夜明けの詩」からスタート。
この曲は全編弾き語りであるが、続く「来世で会おう」も弾き語りでスタートしたため、バックバンドはいつ演奏に加わるのか?と思っていると、2コーラス目からバンドが演奏に加わり、一気にロックさ、疾走感を感じさせるサウンドに様変わり。
「アノニマス」では都会の夜景を上空から眺める孤独な少年と少女のアニメーションが
「本当の声で言葉で話しがしたいよ」
という他者との関係性が断絶されながらもコミュニケーションを渇望する歌詞の切実さを引き立たせる。
しかし、はっきり言ってこの「来世で会おう」「アノニマス」という流れでのさユりの歌声は実に不安定というか、いつひっくり返ったり、あるいは歌えない箇所が出てきたりしてもおかしくないくらいに出ていなかった。正直、「これだとワンマンとはいえ歌い切れるのは10曲程度かもしれない」「ポリープとかの喉の症状を抱えているのでは?」と思ってしまうくらい。新たな航海の船出は全てが万全である、とは言えない荒波に飲まれながらのものとなった。
とはいえやはりキツそうに感じたのは高音を張り上げるような歌唱の曲であったため、ロックなバンドサウンドではなく、ヒップホップやR&Bの要素が強いシンプルなビートが主体の「いくつもの絵画」ではボーカルは実に安定しており、アニメーションではなく、街や河川敷を歩いたりという実際の風景の映像がそれまでの自分自身と向き合わざるを得ないシリアスな流れから、一転しておだやかさを感じさせる。映像の途中に登場した、トレードマークのポンチョを着て顔を隠すようにその場に座り込むという演技を見せたさユりの姿もこの曲の持つ、些細な日常の風景から感じる幸せを感じるが、サビでの「落雷」というフレーズの激しいリフレインはやはりさユりの曲がただ穏やかさのみを感じさせるものにはならないということを一瞬で示している。
「「レイメイ」は夜明けなどの意味がある」
と今回のツアータイトルについて触れながら、
「お台場は海が近くにあっていいですね。みんなはここまでどうやって来たの?ゆりかもめとかりんかい線とかあるけれど、みんなはどんな気持ちで、どうやってここまで来てくれるんだろう?って思いながらこの日を迎えました」
とこのツアーの初日を本人も心待ちにしていたことを語りながら演奏されたのは、満点の空に輝く星たちの映像が思わず「君の名は。」を帰ってから見返したくなるくらいの美しさだった、野田洋次郎が手がけた「フラレガイガール」。
自分はさユりは「それは小さな光のような」などの他者からの提供曲よりも、本人が作詞作曲した曲の方がはるかに良い曲だし、江口亮によるギターロック的なアプローチのアレンジに合っていると思っている。何よりももっと華やかに生きていけそうなくらいのビジュアルを持っていながらも、「孤独」が決して埋まることのない非常に強い表現者としての性を持つさユりというアーティストが歌う意義を感じるのは彼女の中から出てきたメロディと歌詞だからである、と考えているのだが、この「フラレガイガール」だけはちょっと違っていて、それは歌っているさユりの向こう側に野田洋次郎の姿をはっきりと感じ取ることができるからである。
「あなたが買った歯磨き粉も
9割5分も残していったいどこへ行ったの?」
などの野田洋次郎節としか言いようのないフレーズの数々。だけどもRADWIMPSのラブソングの視点である女々しい男ではなく、逆サイドとも言える女性目線。野田洋次郎そのもののようでいて、洋次郎がこのさユりの幼さを残しながらも小さい体から放出される生命力に溢れた歌声にこの曲を託した意志がしっかりと伝わってくる。
きっとこの曲がなかったとしてもさユりはブレイクしていたのは間違いないと思っているのだが、こうした運命とも言える邂逅によって、さユりの音楽を聴く人が増えて、さユりの音楽を人生の拠り所にして生きていく人が増える。そうした意味でも実に幸せなコラボレーションの曲だ。
映像ではなくレーザー光線が会場中を飛び交いながら、
「あなたの瞳は美しい」
と「普通」とは異なるものや価値観を持つ存在を全肯定してみせる「オッドアイ」は、この後にさユりが言った
「自分自身でいられるか、よりも、自分自身で立っていられるか、っていうことばかり考えてしまう」
とこれだけたくさんの人に求められる存在になった今でも不安に苛まれるさユり自身を自分で肯定しているかのようだった。
序盤の不安定さからすると実にしっかりと歌えていたからこそ、「月と花束」らの紗幕に歌詞が映し出された曲は余計な心配をすることなくしっかりと歌詞に向き合うことができたが、そのタイミングで今回のツアーのタイトルにもなっている、アニメ「ゴールデンカムイ」のタイアップ曲にして、まさかのMY FIRST STORYとの共作曲となった「レイメイ」を披露。
目まぐるしく次々に言葉が押し寄せてくる情報量の多さは、さユりのポエトリーリーディング的なフレーズの後半部分でより一層強まるが、当然というか何というか、MY FIRST STORYのメンバーたちが出てくるわけではないので、Hiroのパートもさユりが歌うのかな?とも思っていたが、Hiroのボーカル部分は打ち込みであった。さすがにこれは1人では絶対歌えない曲だと思うけれど。
しかし、さユりという闇の中から一筋の光に向かって手を伸ばすようなタイプのアーティストと、ラウドロックと言ってもいい重いサウンドと現在の音楽シーンの中で他の誰も持ち得ないコンプレックスの持ち主である、MY FIRST STORYのHiro。その両者が合わさるというのは、暗く重い方向(それこそamazarashiが中島美嘉に提供した「僕が死のうと思ったのは」のように)に向かってもおかしくないと思っていたのだが、「レイメイ」のサウンドはそうした重さや暗さとは対極とも言えるようなダイナミックかつアッパーなロックサウンドだ。きっとこの曲はタイトル通りに両者にとっての新たな夜明け、旅立ちのきっかけの曲になるはずだ。
自身の存在を「醜い生物」に投影した「よだかの歌」、歌詞の通りに「光と闇」を感じさせる映像と照明が交互に明滅し、会場内を光と闇の世界が行き来する「光と闇」というあたりではさユりはアコギではなくエレキを弾きながら歌う。やはりMVなどでもアコギのイメージが強いだけにこうした姿は実に新鮮だ。
さユりが歌い出しのフレーズを歌い始めるとレーザー光線とともに紗幕に歌詞が次々に映し出された「平行線」からはさらにアッパーなサウンドに乗せて己の感情を放出させていく。
とりわけ「るーららるーらーるららるーらー」ではやはり声がキツそうな部分も多かったのだが、上手く歌おうというよりは感情の高ぶりに任せて押し切っていく、というかのように声が完璧に出ていないからこそ感じる熱量のようなものが確かにあったし、それはこうしてライブという場所でなければ感じることができないものだ。きっとそれはそう歌おうと思って歌ったというよりもきっと無意識に体や心が反応したことによるものだと思う。
メジャーデビューシングルにして変わらぬさユりの決意表明であり続ける「ミカヅキ」では自身の分身とも言えるアニメーションの少女が文字通りミカヅキに腰掛けながら世界を俯瞰する。やはりその視線や、
「それでも誰かに見つけて欲しくて 夜空見上げて叫んでいる
逃げ出したいなぁ 逃げ出せない 明るい未来は見えない」
という歌詞は孤独な人生を歩んできたからこそその思いを歌にして乗せることができるし、同じように逃げ出したくても逃げ出せないような状況にいるような少年少女たちにとっては強固なシェルターと言ってもいいような存在の曲だし、それは彼ら彼女らが大人になっても決して拭い去れるものではないとも思う。
紗幕がさユりとバンドメンバーたちを額縁で囲うようにして、まるで演奏している姿をそのまま絵画のような芸術作品のようにし、その背後で流れるMVによって最後はその額縁が破壊されてしまうという、誕生や再生というテーマを強く浮かび上がらせたのは、さユりが20歳を迎えた時に作った「birthday Song」。
この曲を聴くとまださユりが実に若い年齢であるということを改めて感じさせられるのだが、自分が20歳の時なんか本当に何にも考えていなかったし、こうしてさユりのように自身の心情や世の中に対する違和感を声高に叫ぶようなことさえできなかった。というか本当に言いたいことも、やりたいことも何にもなかった。ただのんべんだらりと平凡な毎日を過ごしているだけだった。だからこそ、この年齢で己の心の底から全てを曝け出して、それをたくさんの人に届くようなポップソングに昇華しているさユりの覚悟や信念には改めてリスペクトせざるを得ないし、毎年8月26日(さユりのデビュー日)にはこの曲を聴いて
「ハッピーバースディ」
と、ハッピーの前に何もつけることなく、ただただ素直にさユりという存在の誕生を祝っていたいと思う。
そして旅の終着点はあまりにも壮大なスケールの曲ゆえに、どうやってその世界観を提示するのか、と思っていた「十億年」。宇宙から大自然。我々が知る由も無いくらいはるか昔から長い年月を経てもずっと存在しているもの。それを美しい映像が描き出し、さユりの歌とメロディが視覚以外の感覚を開ききってみせるこの曲はまるで1時間半の映画のラストシーンであるかのようで、アウトロの音が止まった瞬間に「酸欠少女さユり」というロゴが紗幕に映し出され、そのままアンコールもなしにライブが終了となったのも納得せざるを得ないくらいの余韻を残した。
こうして映像という演出を伴ってのライブを見ると、その曲の持つ魅力やイメージはさらに増大するし、そうした1曲1曲が積み重なることで、その曲たちが収録されたアルバムの印象も変化する。自分は昨年の年間ベストディスクにおいて、さユりの「ミカヅキの航海」を10位に選出したが、このライブでの「十億年」を見ていたら、その順位はさらに上がっていたかもしれない。こうした演出は誰にでもできることではない。歌詞や曲にしっかりとしたストーリーや情景があって、それを具現化できる映像を作れる人がいるアーティストじゃないとできない。さユりは間違いなくそれができるアーティストだし、この戦い方は次々に新しい才能が浮上してくる女性シンガーソングライターという形態の中で、これからもさユりがさユり自身として音楽を続けていく上で強い武器になっていくはずだ。
しかしそうした映像やバンドの演奏、アレンジという様々な才能ある人の存在に恵まれながらも、さユりというアーティストの最大の芯は、2時間全編弾き語りという形態のライブでも間違いなく通用するし、違った種類の感動を与えてくれるであろう、路上ライブ時代から培ってきたメロディと歌の力だ。
だからこそ、歌声が安定すればライブそのものは絶対にもっと良くなる。そういう意味ではまだまだ発展途上とも言えるが、現状の年齢でこれだけのクオリティを持っているのにさらなる成長の余地があるというのは恐ろしさすら感じる。
「「レイメイ」は夜明けっていう意味だ、って何回も言ってるけど、その一方で明日が来るのが怖いっていう感覚がある」
と語っていたさユりの新たな旅の始まりとなった一夜にして、後から振り返った時に今回のツアーは大きなターニングポイント的なものになるかもしれない。それは、「レイメイ」を経てさユりはもっと自由な、心の赴くままに活動を行なっていくような予感がしているから。
1.夜明けの詩
2.来世で会おう
3.アノニマス
4.プルースト
5.いくつもの絵画
6.フラレガイガール
7.オッドアイ
8.月と花束
9.レイメイ
10.よだかの歌
11.光と闇
12.平行線
13.るーららるーらーるららるーらー
14.ミカヅキ
15.birthday Song
16.十億年
十億年
https://youtu.be/CUnIza2lr90
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MVでもYKBX(amazarashiの映像なども手がけているクリエイター)らによるコンセプチュアルかつ、最大限に曲と歌詞のイメージを伝える映像を生み出してきたが、今回のツアーは映像とのコラボによるものというテーマが前もって発表されており、聴覚だけでなく視覚にも大きな刺激を与えることは間違いないという意味でも実に楽しみなもの。
ソールドアウトとなったZepp Tokyoの中は、「ここまでのは久しぶりだな…」と思うくらいに男性比率が高い。しかも年齢層がやや高め。女性のバンド(yonigeやリーガルリリーなど)のワンマンには最近でも足を運んでいるが、どちらかと言えば若いファンが多いバンドのライブとは異なる客層に、自分がこうして女性シンガーソングライターのワンマンに来ることが久しぶりであるということを悟る。
映像とのコラボによるライブ、ということでamazarashiのライブと同様にステージには薄い紗幕がかけられている。しかしながら顔出しをしていないアーティストであるamazarashiとは異なり、紗幕の明度が高いので、先にステージに登場した、バックバンドのガスマスクたち(バックバンドのメンバーは「酸欠少女」という、さユりの通称に合わせてガスマスクを装着している)の存在もしっかり確認することができる。
その紗幕に美しい満月(ミカヅキではない)が輝く惑星の映像が映し出されると、その映像が終わる頃には、さユりもアコギを抱えてステージに立っており、激しくアコギを搔き鳴らしながら、
「何が悲しくて泣いているんだろう?」
と冒頭から自身の存在を問いかけながらも、ここから物語が始まることを感じさせる「夜明けの詩」からスタート。
この曲は全編弾き語りであるが、続く「来世で会おう」も弾き語りでスタートしたため、バックバンドはいつ演奏に加わるのか?と思っていると、2コーラス目からバンドが演奏に加わり、一気にロックさ、疾走感を感じさせるサウンドに様変わり。
「アノニマス」では都会の夜景を上空から眺める孤独な少年と少女のアニメーションが
「本当の声で言葉で話しがしたいよ」
という他者との関係性が断絶されながらもコミュニケーションを渇望する歌詞の切実さを引き立たせる。
しかし、はっきり言ってこの「来世で会おう」「アノニマス」という流れでのさユりの歌声は実に不安定というか、いつひっくり返ったり、あるいは歌えない箇所が出てきたりしてもおかしくないくらいに出ていなかった。正直、「これだとワンマンとはいえ歌い切れるのは10曲程度かもしれない」「ポリープとかの喉の症状を抱えているのでは?」と思ってしまうくらい。新たな航海の船出は全てが万全である、とは言えない荒波に飲まれながらのものとなった。
とはいえやはりキツそうに感じたのは高音を張り上げるような歌唱の曲であったため、ロックなバンドサウンドではなく、ヒップホップやR&Bの要素が強いシンプルなビートが主体の「いくつもの絵画」ではボーカルは実に安定しており、アニメーションではなく、街や河川敷を歩いたりという実際の風景の映像がそれまでの自分自身と向き合わざるを得ないシリアスな流れから、一転しておだやかさを感じさせる。映像の途中に登場した、トレードマークのポンチョを着て顔を隠すようにその場に座り込むという演技を見せたさユりの姿もこの曲の持つ、些細な日常の風景から感じる幸せを感じるが、サビでの「落雷」というフレーズの激しいリフレインはやはりさユりの曲がただ穏やかさのみを感じさせるものにはならないということを一瞬で示している。
「「レイメイ」は夜明けなどの意味がある」
と今回のツアータイトルについて触れながら、
「お台場は海が近くにあっていいですね。みんなはここまでどうやって来たの?ゆりかもめとかりんかい線とかあるけれど、みんなはどんな気持ちで、どうやってここまで来てくれるんだろう?って思いながらこの日を迎えました」
とこのツアーの初日を本人も心待ちにしていたことを語りながら演奏されたのは、満点の空に輝く星たちの映像が思わず「君の名は。」を帰ってから見返したくなるくらいの美しさだった、野田洋次郎が手がけた「フラレガイガール」。
自分はさユりは「それは小さな光のような」などの他者からの提供曲よりも、本人が作詞作曲した曲の方がはるかに良い曲だし、江口亮によるギターロック的なアプローチのアレンジに合っていると思っている。何よりももっと華やかに生きていけそうなくらいのビジュアルを持っていながらも、「孤独」が決して埋まることのない非常に強い表現者としての性を持つさユりというアーティストが歌う意義を感じるのは彼女の中から出てきたメロディと歌詞だからである、と考えているのだが、この「フラレガイガール」だけはちょっと違っていて、それは歌っているさユりの向こう側に野田洋次郎の姿をはっきりと感じ取ることができるからである。
「あなたが買った歯磨き粉も
9割5分も残していったいどこへ行ったの?」
などの野田洋次郎節としか言いようのないフレーズの数々。だけどもRADWIMPSのラブソングの視点である女々しい男ではなく、逆サイドとも言える女性目線。野田洋次郎そのもののようでいて、洋次郎がこのさユりの幼さを残しながらも小さい体から放出される生命力に溢れた歌声にこの曲を託した意志がしっかりと伝わってくる。
きっとこの曲がなかったとしてもさユりはブレイクしていたのは間違いないと思っているのだが、こうした運命とも言える邂逅によって、さユりの音楽を聴く人が増えて、さユりの音楽を人生の拠り所にして生きていく人が増える。そうした意味でも実に幸せなコラボレーションの曲だ。
映像ではなくレーザー光線が会場中を飛び交いながら、
「あなたの瞳は美しい」
と「普通」とは異なるものや価値観を持つ存在を全肯定してみせる「オッドアイ」は、この後にさユりが言った
「自分自身でいられるか、よりも、自分自身で立っていられるか、っていうことばかり考えてしまう」
とこれだけたくさんの人に求められる存在になった今でも不安に苛まれるさユり自身を自分で肯定しているかのようだった。
序盤の不安定さからすると実にしっかりと歌えていたからこそ、「月と花束」らの紗幕に歌詞が映し出された曲は余計な心配をすることなくしっかりと歌詞に向き合うことができたが、そのタイミングで今回のツアーのタイトルにもなっている、アニメ「ゴールデンカムイ」のタイアップ曲にして、まさかのMY FIRST STORYとの共作曲となった「レイメイ」を披露。
目まぐるしく次々に言葉が押し寄せてくる情報量の多さは、さユりのポエトリーリーディング的なフレーズの後半部分でより一層強まるが、当然というか何というか、MY FIRST STORYのメンバーたちが出てくるわけではないので、Hiroのパートもさユりが歌うのかな?とも思っていたが、Hiroのボーカル部分は打ち込みであった。さすがにこれは1人では絶対歌えない曲だと思うけれど。
しかし、さユりという闇の中から一筋の光に向かって手を伸ばすようなタイプのアーティストと、ラウドロックと言ってもいい重いサウンドと現在の音楽シーンの中で他の誰も持ち得ないコンプレックスの持ち主である、MY FIRST STORYのHiro。その両者が合わさるというのは、暗く重い方向(それこそamazarashiが中島美嘉に提供した「僕が死のうと思ったのは」のように)に向かってもおかしくないと思っていたのだが、「レイメイ」のサウンドはそうした重さや暗さとは対極とも言えるようなダイナミックかつアッパーなロックサウンドだ。きっとこの曲はタイトル通りに両者にとっての新たな夜明け、旅立ちのきっかけの曲になるはずだ。
自身の存在を「醜い生物」に投影した「よだかの歌」、歌詞の通りに「光と闇」を感じさせる映像と照明が交互に明滅し、会場内を光と闇の世界が行き来する「光と闇」というあたりではさユりはアコギではなくエレキを弾きながら歌う。やはりMVなどでもアコギのイメージが強いだけにこうした姿は実に新鮮だ。
さユりが歌い出しのフレーズを歌い始めるとレーザー光線とともに紗幕に歌詞が次々に映し出された「平行線」からはさらにアッパーなサウンドに乗せて己の感情を放出させていく。
とりわけ「るーららるーらーるららるーらー」ではやはり声がキツそうな部分も多かったのだが、上手く歌おうというよりは感情の高ぶりに任せて押し切っていく、というかのように声が完璧に出ていないからこそ感じる熱量のようなものが確かにあったし、それはこうしてライブという場所でなければ感じることができないものだ。きっとそれはそう歌おうと思って歌ったというよりもきっと無意識に体や心が反応したことによるものだと思う。
メジャーデビューシングルにして変わらぬさユりの決意表明であり続ける「ミカヅキ」では自身の分身とも言えるアニメーションの少女が文字通りミカヅキに腰掛けながら世界を俯瞰する。やはりその視線や、
「それでも誰かに見つけて欲しくて 夜空見上げて叫んでいる
逃げ出したいなぁ 逃げ出せない 明るい未来は見えない」
という歌詞は孤独な人生を歩んできたからこそその思いを歌にして乗せることができるし、同じように逃げ出したくても逃げ出せないような状況にいるような少年少女たちにとっては強固なシェルターと言ってもいいような存在の曲だし、それは彼ら彼女らが大人になっても決して拭い去れるものではないとも思う。
紗幕がさユりとバンドメンバーたちを額縁で囲うようにして、まるで演奏している姿をそのまま絵画のような芸術作品のようにし、その背後で流れるMVによって最後はその額縁が破壊されてしまうという、誕生や再生というテーマを強く浮かび上がらせたのは、さユりが20歳を迎えた時に作った「birthday Song」。
この曲を聴くとまださユりが実に若い年齢であるということを改めて感じさせられるのだが、自分が20歳の時なんか本当に何にも考えていなかったし、こうしてさユりのように自身の心情や世の中に対する違和感を声高に叫ぶようなことさえできなかった。というか本当に言いたいことも、やりたいことも何にもなかった。ただのんべんだらりと平凡な毎日を過ごしているだけだった。だからこそ、この年齢で己の心の底から全てを曝け出して、それをたくさんの人に届くようなポップソングに昇華しているさユりの覚悟や信念には改めてリスペクトせざるを得ないし、毎年8月26日(さユりのデビュー日)にはこの曲を聴いて
「ハッピーバースディ」
と、ハッピーの前に何もつけることなく、ただただ素直にさユりという存在の誕生を祝っていたいと思う。
そして旅の終着点はあまりにも壮大なスケールの曲ゆえに、どうやってその世界観を提示するのか、と思っていた「十億年」。宇宙から大自然。我々が知る由も無いくらいはるか昔から長い年月を経てもずっと存在しているもの。それを美しい映像が描き出し、さユりの歌とメロディが視覚以外の感覚を開ききってみせるこの曲はまるで1時間半の映画のラストシーンであるかのようで、アウトロの音が止まった瞬間に「酸欠少女さユり」というロゴが紗幕に映し出され、そのままアンコールもなしにライブが終了となったのも納得せざるを得ないくらいの余韻を残した。
こうして映像という演出を伴ってのライブを見ると、その曲の持つ魅力やイメージはさらに増大するし、そうした1曲1曲が積み重なることで、その曲たちが収録されたアルバムの印象も変化する。自分は昨年の年間ベストディスクにおいて、さユりの「ミカヅキの航海」を10位に選出したが、このライブでの「十億年」を見ていたら、その順位はさらに上がっていたかもしれない。こうした演出は誰にでもできることではない。歌詞や曲にしっかりとしたストーリーや情景があって、それを具現化できる映像を作れる人がいるアーティストじゃないとできない。さユりは間違いなくそれができるアーティストだし、この戦い方は次々に新しい才能が浮上してくる女性シンガーソングライターという形態の中で、これからもさユりがさユり自身として音楽を続けていく上で強い武器になっていくはずだ。
しかしそうした映像やバンドの演奏、アレンジという様々な才能ある人の存在に恵まれながらも、さユりというアーティストの最大の芯は、2時間全編弾き語りという形態のライブでも間違いなく通用するし、違った種類の感動を与えてくれるであろう、路上ライブ時代から培ってきたメロディと歌の力だ。
だからこそ、歌声が安定すればライブそのものは絶対にもっと良くなる。そういう意味ではまだまだ発展途上とも言えるが、現状の年齢でこれだけのクオリティを持っているのにさらなる成長の余地があるというのは恐ろしさすら感じる。
「「レイメイ」は夜明けっていう意味だ、って何回も言ってるけど、その一方で明日が来るのが怖いっていう感覚がある」
と語っていたさユりの新たな旅の始まりとなった一夜にして、後から振り返った時に今回のツアーは大きなターニングポイント的なものになるかもしれない。それは、「レイメイ」を経てさユりはもっと自由な、心の赴くままに活動を行なっていくような予感がしているから。
1.夜明けの詩
2.来世で会おう
3.アノニマス
4.プルースト
5.いくつもの絵画
6.フラレガイガール
7.オッドアイ
8.月と花束
9.レイメイ
10.よだかの歌
11.光と闇
12.平行線
13.るーららるーらーるららるーらー
14.ミカヅキ
15.birthday Song
16.十億年
十億年
https://youtu.be/CUnIza2lr90
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座談会「バンドBについて」 ~Base Ball Bear~