BOOM BOOM SATELLITES MICHIYUKI KAWASHIMA FAREWELL EVENT @新木場STUDIO COAST 11/15
- 2016/11/15
- 21:29
あれはGalileo Galileiのラストライブを日本武道館に見に行った日だから10/11の昼、BOOM BOOM SATELLITESの公式ホームページや音楽サイトなどで、かねてから脳腫瘍の闘病中だったボーカルの川島道行が10/9に逝去していたことが発表された。
自分がBOOM BOOM SATELLITESを初めて聴いたのは3rdアルバムの「PHOTON」がリリースされた後だったので、2003年か2004年頃だと思う。すでに海外でライブを行ってリリースもしている日本のダンスロックユニットという情報はネットがほとんどなかった当時でもいろんな媒体から耳にしていたが、実際に聴いた時の第一印象は「難しい、というか本当に洋楽を聴いているみたいだ」というものだった。なのでそのアルバムでインパクトに残った曲は、活動晩年までライブの定番曲であり続けた「DRESS LIKE AN ANGEL」のギターのリフのカッコよさくらいだった。
しかし次のアルバム「FULL OF ELEVATING PREASURES」(2005年)収録の「Dive For You」という曲が「難しい」という自分のイメージを一変させた。それまでのアルバムより明らかにメロディが際立っており、本人たちも後にインタビューで「この曲ができたのが大きかった」と語っており、この曲がバンドの大きなターニングポイントになったのは間違いない。
そして次作「ON」(2006年)でバンドの状況は劇的に変わる。アルバム1曲目を飾る「Kick it out」がガムのテレビCMに起用されたことにより、彼らの楽曲は一般層にまで届くようになり(収録曲では他に「Pill」「Girl」がタイアップとしてテレビで流れまくった)、オリコンTOP10入りを果たして一気にシーンの先鋭にして最前線に躍り出たのである。
その辺りからそれまではあまり出ていなかった国内のフェスやイベントにもよく出るようになり、自分が初めてライブを見たのもこの頃だった。「Kick it out」のあの印象的なイントロは流れた瞬間に何万人もの人が見ている景色を一瞬で変えた。同期を使い、デジタルな機材を使うと薄れていくはずの肉体性が彼らのライブには信じられないほど強く宿っていた。川島道行と中野雅之(ベース)にサポートドラムの福田洋子というたった3人だけであるにもかかわらず(後期は現在は銀杏BOYZのサポートギタリストでもある山本幹宗も参加した4人編成になったが)、「この人たちは何か音の力を増幅するような装置を開発して自分たちだけで使っているんじゃないだろうか」と思うくらいに凄まじいライブをやっていた。サマソニのMOUNTAIN STAGEに出た時、そのライブの迫力は同じステージに出ていた海外のバンドすらも圧倒するようなレベルだった。
その後、バンドはキャリアの中で最も踊れてライブで盛り上がれる、キラーチューン満載のアルバム「EXPOSED」(2007年。自分が最も好きなアルバム)、その方向性に自ら終止符を打って、川島のボーカリストとしての覚醒を果たした神聖なサウンドと新たなビートやリズムを探求した壮大なアルバム「TO THE LOVELESS」(2010年)とリリースを重ねていき、ますますシーンにおいて唯一無二の存在になっていく。
しかし、彼らの活動は川島の脳腫瘍との戦いでもあった。たまにリリース時期が長く開くのも、「ドラムのキック1音を取るだけに何日間も費やす」という妥協なきスタイルによるものだと思っていた。
だが、実際には川島は3回も脳腫瘍の手術を受けていたことを3回目の手術終了後に発表した。それが自分たちの活動が思うようなペースでできない原因であったことも。中野はその発表後のインタビューで
「なんで川島くんと俺たちだけがこうならなければならないんだ」
と悔しさを吐露するような言葉を残している。
実際その時期にはそれまでに比べたら信じられないくらいに毎週毎週どこかしらのフェスに出ていた。すでにベテランの域に達していたバンドなだけに、勢いのある若手バンドの裏で厳しい集客だったステージも何度かあった。
しかしそれよりもはるかに印象的だったのは、川島が真夏なのにニット帽を被ってライブをしていたこと(これは脳腫瘍の手術後だったということをその後に知ったら納得だったが)と、それまではフェスであれワンマンであれひたすらクールに徹していたメンバーがライブ後に客席を背景にして写真撮影をしていたこと。最初は中野のカメラの趣味が高じて、とも思っていた。しかし、その後にライブ活動すらもできない状態に川島が陥ると、「あの写真撮影はもうこのステージに立ってこの景色を見るのは最後かもしれない」という思いだったんじゃないかと思う。
実際、バンドは2015年11月に予定されていたワンマンライブを中止することを発表してその予感は現実味を帯びてきてしまう。しかし2人は「最後の作品を作ろう」と、ミニアルバム「LAY YOUR HANDS ON ME」を製作し、リリースする。もはや川島は歌える状態ではなかったという。それでもこのアルバムを包んでいるのは肯定的な光のイメージ。川島の娘が出演しているPVも含めて、どこか旅立ちへの祝福のようですらあった。
そして前述の発表から1ヶ月後のこの日。バンドが幾度となくライブを行ってきた新木場STUDIO COASTで、川島とのお別れ会が行われた。19時スタートというまるでライブそのもののようなスタイルで、スーツを着て仕事終わりに駆けつけたような人も多い。献花は用意されているとのことだったが、買ったものを持参してきた人もたくさんいる。
外の列に並んでから1時間ほど。それでもまだまだたくさんの人が並んでおり、日本全国からBOOM BOOM SATELLITESの音楽を愛してきた人たちが集まってきているのがよくわかる。
中に入ると、すぐ最初に用意されていたのは遺影の置かれた祭壇だった。たくさんの花が手向けられており、手を合わせながらすすり泣く人もたくさんいた。川島の遺影はアー写で使われていたものであったが、やはりその目は今見ても凛として強い意志を放っている。
「(BAYCAMPでの大トリを務めたあとのインタビューで)あの朝日と朝まで雨にも負けないで楽しそうにしていたお客さんの顔を見て、自分はこうしてライブをしてステージに立って死んでいくんだ、って」
と語ったように。
歩みを進めると、普段は客席PA裏にあたる位置(スタンディングエリアの階段を上がったところ)には歴代のアー写とリリースしたCDのジャケ写が並んでいる。アー写を見ると2人の見た目の変遷がすごくよくわかるし、2人ともデビュー当時はクールなイメージよりもかなりやんちゃな格好をしている。
スタンディングエリアに降りると、ステージには楽器が置かれている。しかしながらその楽器を演奏するメンバーはステージにいない。代わりに流れていたのは武道館ワンマンの映像。ちょうど「Kick it out」が流れており、曲が終わるとそこにいた人たちが一様に拍手を送る。まるでライブそのもののように。
フロアには他にも川島の直筆メッセージや川島が使用してきたギター、これまでのバンドのライブ中の写真が飾られていた。カメラに収める人、しっかり目に焼き付けようとする人…誰もが思い思いにBOOM BOOM SATELLITESの活動と自身の人生に対峙していた。
大きなバンドロゴの下を抜けて出口に向かうと、メンバーの中野雅之が立っており、一人一人と言葉を交わしながら、バンドが最後に起用されたタワレコのポストカードを手渡ししながら、ファンの一言に耳を傾けていた。みんな、本当に一言だけ。1番言いたかった一言だけを言う。もうメンバーも良い歳だったが故に、ファンも大人ばかりだった。ちゃんとこういう時の礼儀をみんながわきまえていた。
ニュースサイトや公式での中野雅之のコメントを見ても、自分には川島道行がいなくなったという実感がなかった。しかし今日のCOASTの、花が捧げられた遺影、楽器だけが置かれたステージを見て、それは実感を持った事実として受け入れざるを得ないものになった。1つ言えることであり、自分が中野雅之に言ったのは「出会えて本当に幸せでした」ということ。遺影の前で手を合わせていたら、否が応でも今まで見てきたライブの光景が頭の中に蘇ってきた。今までありがとうございました。もらったポストカードの写真の2人のように、今はまだ笑ってBOOM BOOM SATELLITESの音楽を聴くことはできないが、聴き続けていればきっといつかは。
それなりの年月を生きてきて、好きなミュージシャンがいなくなってしまう経験は一度や二度ではない。これから生きていればその経験は必ずさらに増えてくる。その瞬間やこういう場所に来た時に、いったい自分はこれからどんな想いを抱くか。できれば誰に対しても、
「出会えて本当に幸せだった」
って後悔を抱くことなく見送れるようにありたい。



自分がBOOM BOOM SATELLITESを初めて聴いたのは3rdアルバムの「PHOTON」がリリースされた後だったので、2003年か2004年頃だと思う。すでに海外でライブを行ってリリースもしている日本のダンスロックユニットという情報はネットがほとんどなかった当時でもいろんな媒体から耳にしていたが、実際に聴いた時の第一印象は「難しい、というか本当に洋楽を聴いているみたいだ」というものだった。なのでそのアルバムでインパクトに残った曲は、活動晩年までライブの定番曲であり続けた「DRESS LIKE AN ANGEL」のギターのリフのカッコよさくらいだった。
しかし次のアルバム「FULL OF ELEVATING PREASURES」(2005年)収録の「Dive For You」という曲が「難しい」という自分のイメージを一変させた。それまでのアルバムより明らかにメロディが際立っており、本人たちも後にインタビューで「この曲ができたのが大きかった」と語っており、この曲がバンドの大きなターニングポイントになったのは間違いない。
そして次作「ON」(2006年)でバンドの状況は劇的に変わる。アルバム1曲目を飾る「Kick it out」がガムのテレビCMに起用されたことにより、彼らの楽曲は一般層にまで届くようになり(収録曲では他に「Pill」「Girl」がタイアップとしてテレビで流れまくった)、オリコンTOP10入りを果たして一気にシーンの先鋭にして最前線に躍り出たのである。
その辺りからそれまではあまり出ていなかった国内のフェスやイベントにもよく出るようになり、自分が初めてライブを見たのもこの頃だった。「Kick it out」のあの印象的なイントロは流れた瞬間に何万人もの人が見ている景色を一瞬で変えた。同期を使い、デジタルな機材を使うと薄れていくはずの肉体性が彼らのライブには信じられないほど強く宿っていた。川島道行と中野雅之(ベース)にサポートドラムの福田洋子というたった3人だけであるにもかかわらず(後期は現在は銀杏BOYZのサポートギタリストでもある山本幹宗も参加した4人編成になったが)、「この人たちは何か音の力を増幅するような装置を開発して自分たちだけで使っているんじゃないだろうか」と思うくらいに凄まじいライブをやっていた。サマソニのMOUNTAIN STAGEに出た時、そのライブの迫力は同じステージに出ていた海外のバンドすらも圧倒するようなレベルだった。
その後、バンドはキャリアの中で最も踊れてライブで盛り上がれる、キラーチューン満載のアルバム「EXPOSED」(2007年。自分が最も好きなアルバム)、その方向性に自ら終止符を打って、川島のボーカリストとしての覚醒を果たした神聖なサウンドと新たなビートやリズムを探求した壮大なアルバム「TO THE LOVELESS」(2010年)とリリースを重ねていき、ますますシーンにおいて唯一無二の存在になっていく。
しかし、彼らの活動は川島の脳腫瘍との戦いでもあった。たまにリリース時期が長く開くのも、「ドラムのキック1音を取るだけに何日間も費やす」という妥協なきスタイルによるものだと思っていた。
だが、実際には川島は3回も脳腫瘍の手術を受けていたことを3回目の手術終了後に発表した。それが自分たちの活動が思うようなペースでできない原因であったことも。中野はその発表後のインタビューで
「なんで川島くんと俺たちだけがこうならなければならないんだ」
と悔しさを吐露するような言葉を残している。
実際その時期にはそれまでに比べたら信じられないくらいに毎週毎週どこかしらのフェスに出ていた。すでにベテランの域に達していたバンドなだけに、勢いのある若手バンドの裏で厳しい集客だったステージも何度かあった。
しかしそれよりもはるかに印象的だったのは、川島が真夏なのにニット帽を被ってライブをしていたこと(これは脳腫瘍の手術後だったということをその後に知ったら納得だったが)と、それまではフェスであれワンマンであれひたすらクールに徹していたメンバーがライブ後に客席を背景にして写真撮影をしていたこと。最初は中野のカメラの趣味が高じて、とも思っていた。しかし、その後にライブ活動すらもできない状態に川島が陥ると、「あの写真撮影はもうこのステージに立ってこの景色を見るのは最後かもしれない」という思いだったんじゃないかと思う。
実際、バンドは2015年11月に予定されていたワンマンライブを中止することを発表してその予感は現実味を帯びてきてしまう。しかし2人は「最後の作品を作ろう」と、ミニアルバム「LAY YOUR HANDS ON ME」を製作し、リリースする。もはや川島は歌える状態ではなかったという。それでもこのアルバムを包んでいるのは肯定的な光のイメージ。川島の娘が出演しているPVも含めて、どこか旅立ちへの祝福のようですらあった。
そして前述の発表から1ヶ月後のこの日。バンドが幾度となくライブを行ってきた新木場STUDIO COASTで、川島とのお別れ会が行われた。19時スタートというまるでライブそのもののようなスタイルで、スーツを着て仕事終わりに駆けつけたような人も多い。献花は用意されているとのことだったが、買ったものを持参してきた人もたくさんいる。
外の列に並んでから1時間ほど。それでもまだまだたくさんの人が並んでおり、日本全国からBOOM BOOM SATELLITESの音楽を愛してきた人たちが集まってきているのがよくわかる。
中に入ると、すぐ最初に用意されていたのは遺影の置かれた祭壇だった。たくさんの花が手向けられており、手を合わせながらすすり泣く人もたくさんいた。川島の遺影はアー写で使われていたものであったが、やはりその目は今見ても凛として強い意志を放っている。
「(BAYCAMPでの大トリを務めたあとのインタビューで)あの朝日と朝まで雨にも負けないで楽しそうにしていたお客さんの顔を見て、自分はこうしてライブをしてステージに立って死んでいくんだ、って」
と語ったように。
歩みを進めると、普段は客席PA裏にあたる位置(スタンディングエリアの階段を上がったところ)には歴代のアー写とリリースしたCDのジャケ写が並んでいる。アー写を見ると2人の見た目の変遷がすごくよくわかるし、2人ともデビュー当時はクールなイメージよりもかなりやんちゃな格好をしている。
スタンディングエリアに降りると、ステージには楽器が置かれている。しかしながらその楽器を演奏するメンバーはステージにいない。代わりに流れていたのは武道館ワンマンの映像。ちょうど「Kick it out」が流れており、曲が終わるとそこにいた人たちが一様に拍手を送る。まるでライブそのもののように。
フロアには他にも川島の直筆メッセージや川島が使用してきたギター、これまでのバンドのライブ中の写真が飾られていた。カメラに収める人、しっかり目に焼き付けようとする人…誰もが思い思いにBOOM BOOM SATELLITESの活動と自身の人生に対峙していた。
大きなバンドロゴの下を抜けて出口に向かうと、メンバーの中野雅之が立っており、一人一人と言葉を交わしながら、バンドが最後に起用されたタワレコのポストカードを手渡ししながら、ファンの一言に耳を傾けていた。みんな、本当に一言だけ。1番言いたかった一言だけを言う。もうメンバーも良い歳だったが故に、ファンも大人ばかりだった。ちゃんとこういう時の礼儀をみんながわきまえていた。
ニュースサイトや公式での中野雅之のコメントを見ても、自分には川島道行がいなくなったという実感がなかった。しかし今日のCOASTの、花が捧げられた遺影、楽器だけが置かれたステージを見て、それは実感を持った事実として受け入れざるを得ないものになった。1つ言えることであり、自分が中野雅之に言ったのは「出会えて本当に幸せでした」ということ。遺影の前で手を合わせていたら、否が応でも今まで見てきたライブの光景が頭の中に蘇ってきた。今までありがとうございました。もらったポストカードの写真の2人のように、今はまだ笑ってBOOM BOOM SATELLITESの音楽を聴くことはできないが、聴き続けていればきっといつかは。
それなりの年月を生きてきて、好きなミュージシャンがいなくなってしまう経験は一度や二度ではない。これから生きていればその経験は必ずさらに増えてくる。その瞬間やこういう場所に来た時に、いったい自分はこれからどんな想いを抱くか。できれば誰に対しても、
「出会えて本当に幸せだった」
って後悔を抱くことなく見送れるようにありたい。




[Alexandros] Tour 2016~2017 ~We Come In Peace~ @横浜アリーナ 11/16 ホーム
Czecho No Republic @Zepp DiverCity 11/12