11月にさいたまスーパーアリーナのフェスに行った帰りに飛び込んできてしまったニュース。信じられない、信じたくないその報道の内容の真偽なんかはどうあれ、もしかしたら当分ライブを見れなくなるかもしれない、と思った。その通りに秋山黄色は年末に出演が発表されていたフェスなども全て出演キャンセルとなってしまった。
そんな秋山黄色の復帰ツアーとなるのがこの東名阪ツアー「MY COLOR」。この日のZepp Hanedaはファイナルとなるが、周りにいる人たちが秋山黄色という人間や音楽を信じてくれていたからこそのツアーでもあり、自分としては10月の中野サンプラザワンマン以来の秋山黄色のライブである。
この日はZepp Hanedaの客席に椅子が置かれた指定席スタイルであり、スタンディングよりも動員数は減るとはいえ、それでもこんなにたくさんの人が秋山黄色のことを待ち続けていたということにライブ開始前から少しグッとくるものがあるし、どこかいつものライブとは違う緊張感もある。すでに大阪、名古屋と経てきているとはいえ、彼は今どんな表情をしていて、どんな歌を歌って、どんなことを口にするんだろうかと。
開演時間の19時になると場内が暗転し、白いロンTに紫のパンツ、変わらぬ金髪と目元を隠す髪型という出で立ちの秋山黄色がステージに。そのステージにはギター、アンプ、ラップトップ、キーボード…と様々な機材が並び、まるで秋山黄色が築き上げた音楽の秘密基地というような形であるが、観客から湧き上がる大きな拍手を浴びながらその機材たちの中央に秋山黄色が辿り着くと、観客に向かって深々と長く頭を下げる。しかしその次の瞬間には鼻をかむというあたりが実に秋山黄色であるのだが、演奏を始めるよりも先に
「たくさん迷惑をかけて、心配をかけて本当に申し訳ありませんでした。俺がもっと近況とかをみんなに発信できたら良かったんだけど、こうしてステージに立つまでにそれができませんでした」
とファンへ謝罪と感謝を述べ始める。それは決して整理されているような、台本を書いてそれを暗記して喋ってるようなものではないのは、彼がとめどなく感じてしまうくらいに何回も同じようなことを話したりするからなのだが、だからこそこれは秋山黄色本人が心から今思っていることを話しているということがよくわかる。そこに嘘がなくて、やっぱり秋山黄色の人間性がその言葉に滲んでいるからこそ、客席からはすすり泣くような声も至る所から聞こえてきた。
「待っていてくれる人がいるから、こうしてまた歌おうと思いました。本当に来てくれてありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
と真っ直ぐに観客に向かって口にするとラップトップからイントロダクション的な音が流れるのであるが、その音が聞こえなくなるくらいの大きくて長い拍手が起こる。それは秋山黄色が歌おうとする直前まで鳴り止まなかったのであるが、そうして秋山黄色がおなじみのエレアコのギターを弾きながら歌い始めたのは、個人的には再スタートの1曲目はこの曲しかないだろうと思っていた「猿上がりシティーポップ」。もちろん弾き語りであるだけに、バンドでのライブでのあの爆発力はない。それでも秋山黄色の歌唱はただ急にライブができるようになったからやることにした、というわけではなくて、ライブが出来なくなってしまった期間もずっと歌っていた、怠けることなく自身を磨き続けてきたということがすぐにわかるくらいに力強い。弾き語りであっても椅子に座らずに立ち上がって見ている観客も曲が進むごとに緊張感から解放されて腕を挙げたりしているのだが、その観客たちがこの期間中に何度となく聴いては思っていたであろう、
「もう一度どこかで会えたらいいなって」
というフレーズのどこかは紛れもなくここだったのだ。乾いたギターの音が響きながら
「一生一緒なんて思えるようになりたかった」
と歌う歌詞に涙腺が緩むのは、本当にまたそう思えるような日がこうして訪れたからだ。その瞬間に今も秋山黄色を信じ続けていること、こうしてここに来たことは間違いじゃなかったと思えた。今でもやっぱりこの男の音楽や存在に救われているのが自分自身でもはっきりとわかったから。
そんな秘密基地の機材をフル活用するのは、秋山黄色と同じ3月生まれとしてはギリギリ3月のこの日に聴けるのが嬉しく思う「クラッカー・シャドー」であり、ルーパーというかおそらくはオクターバーを駆使してエレアコのギターリフにボディを叩く音をリズムとして重ね、さらにエレキとしてエフェクターを噛ませた浮遊感を感じるサウンドをそこに重ね…と、1人きりでループを重ねるライブスタイルで世界のトップアーティストに君臨しているエド・シーランのライブの際の表情がそうであるように、やっぱり秋山黄色もこうして音を鳴らして遊ぶのが楽しくてしょうがないんだろうなと思う。それはつまり音楽が好きで仕方がないから音楽で生きることを選んだということと同義だ。イラストを描いたりという道もあったかもしれないくらいにマルチな才能を持つアーティストでもあるが、やっぱり音楽しかないんだよな、と思わせてくれる。だからこうして音楽を鳴らす場所に帰ってきたのだ。
するとギターをアコギに持ち替え、自身の声にエフェクトをかけながら歌うのは昨年リリースされ、自分が個人的年間ベストディスク1位に選出した名盤「ONE MORE SHABON」収録の「うつつ」であり、
「夢を見て酔いが覚めていた
違うのさ 風?何もかも」
というフレーズがどうしたって今のこの状況に重なってしまう。歌の持つ意味は時代によって変わっていくけれど、それは歌う人の環境や状況によってもまた変わってしまうということを実感せざるを得ない。それは良くも悪くもであるけれど。
そうしてアコギの音で切なさを感じさせたかと思ったら、一転してそのアコギが軽快さを持って鳴らされるのはジャカジャカと弾き始めた時は一瞬何の曲だかわからなかった「サーチライト」であり、
「人生はきっと後悔の塊だ
幸せもきっとそんなに便利なものじゃない
優しさだけじゃ駄目だ 分かってる 分かってるけど」
「だから悩み続けよう そんなもんだろう
もがけ僕等の足」
というフレーズは聴いている我々のことはもちろん、歌っている自分自身を救うかのようにすら響いていた。きっとそうして我々がそうであるように、秋山黄色本人も自身の音楽に救われているんじゃないかと思うし、だからこそこの曲を弾き語りという形で1人で演奏したんじゃないかと。そうして秋山黄色がまた足を踏み出している姿はやっぱり我々にもそうするような力を与えてくれるのだ。
「忘れたいことと、消し去りたいことは違う。でも過去を消し去れることはできない。そんな消しゴムも売ってない。だからこそ、100均で売ってるようなものでもいいから、蛍光ペンで過去を塗りつぶすようにしていきたいと思います」
と、実に秋山黄色らしい屈折したポジティブさを感じさせる言葉とともに演奏されたのは、こうした弾き語りのライブ(近年はそんなに機会がなくなっていたけれど)ではよく歌っていた、未音源化曲「心開き三週間」であり、そのタイトルからも歌詞からも、こうして待っている人の前に立てるようになるくらいには秋山黄色の心や精神が解放されてきているということを感じさせてくれる。なかなかまだ新曲を作ってリリースするというのは難しいだろうから、この曲を音源化したりしませんか?と思ってしまったりする。
するとリズムに合わせて観客が手拍子をする中でギターをカッティングしながら歌い始めたのは、照明などのスタッフたちもまた秋山黄色の音楽と存在を信じてくれているのがわかるくらいに美しい光の粒がステージと客席に飛び散るという演出の「燦々と降り積もる夜は」なのであるが、間奏で秋山黄色は
「うちのバンドのギタリストから預かってきました!」
と言って、バンドメンバーの井手上誠が使用しているシェイカーをマイクの横で振るのであるが、自身も笑ってしまうくらいにほとんど音が聞こえなくてすぐに振るのをやめてしまう。まだ恥ずかしくてバンドメンバーたちには会えてないらしいが、井手上も藤本ひかりも片山タカズミも、時折サポートしていたBenthamの鈴木敬(ドラム)と辻怜次(ベース)も、きっとこれから先も秋山黄色のことを支え続けてくれるはずだ。何故なら彼らは秋山黄色というバンドのメンバーとして本人の意思をも共有してきた人たちだから。
するとこの曲はもともとはこうして生まれたんじゃ…というくらいにギターをループさせて、歌唱によってタメや緩急をつけるという形で演奏されたのはライブではおなじみの「Caffeine」であり、この曲ではバンドでのライブと変わらないくらいの爆発力をたった1人で感じさせてくれる。それは秋山黄色のサビでの歌唱力の凄まじさによって感じられるものでもあり、真っ赤な照明が色鮮やかになっていくという演出の妙でもあるはず。もうこの辺りからは復活したという感動よりも、「やっぱり秋山黄色ってすげぇな…」というシンプルなライブの感想が思考を支配するようになっていた。
この日はライブのルールとしてまだ合唱はできないけれど、多少の声出しならば可能であり、曲間には
「おかえりー!」
などの観客の声が響き、その声に対して拍手が起こるという、観客が同じように秋山黄色を愛する仲間に対するリスペクトを感じさせるような温かい場面も多々あったのであるが、
「最高にカッコいい!」
という観客の言葉に対して秋山黄色が
「これからはずっとカッコいいままでいるから!」
と返して歌い始めたのは、収録されている1stフルアルバム「From DROPOUT」のクロスフェードが公開された時に一瞬だけでもこの曲を聴いて、これはすごいアルバムになる!と思ったことを今でも思い出せる「エニーワン・ノスタルジー」なのであるが、
「今日も子供になれる大人の飲み物を飲んだよ
子供っぽいと言われてキレちまった
本当の子供
翌日反省焦燥謝罪」
という歌い出しのフレーズに思わずハッとしてしまうのは自分もまた酒癖が悪いと言われることが多々あるからで…なんていう余計なことを思ってしまったりもするけれど、そんな歌詞の曲すらもこの再始動のライブで歌うことを選んだのは逆に二度とあんな報道が出るようなことにはならないという本人の強い意思を感じさせる。アコギでの弾き語りというシンプルな形だからこそ、その歌詞が乗るメロディの美しさを実感することができるのだ。
そんな秋山黄色が
「もう「ありがとう」しか言ってないくらいの感じですけど」
と観客への感謝を重ねながら、
「まごうことなき俺のすべて」
と言って演奏されたのはバンドでのライブでは常に最高沸点を記録してきた「やさぐれカイドー」であり、さすがに今回はそうしたバンドでのぶっ飛んだパフォーマンス(ステージに寝転がってギターをステージから投げ出すように弾いたり)はなかったけれど、だからこそ歌唱とギターに全てを込めていると言ってもいいくらいの気迫がその音に宿っていた。そこにはどこか片山と藤本のキメを打つ力強さも、井手上の弾きまくるギターも浮かんでくるかのような。それはそれくらいにこの曲をあのメンバーで鳴らすのを見てきたからであるが、音に全員の魂を乗せているかのようでもあったからだ。弾き語りであってもロックになってしまうのは、秋山黄色の音楽ややることの全てがロックだからだ。
かと思えばアコギの弾き語りで、去年のツアーでもちょっとだけ演奏したこともあった未発表曲「Rainy day」を高らかに歌い上げるという弾き語りだからこそのパフォーマンスも見せてくれるのであるが、その歌唱の素晴らしさがここに極まっていた。実はライブが出来なかった期間にも個人的にスタジオに入って歌ったりしていて、その時に衰えを感じないくらいに歌えていたということも語っていたけれど、この声量とそれに伴う声の迫力は否が応でも聴いてる我々の心を揺さぶってくる。元から歌は上手いし声量も抜群のシンガーだったが、本当にちゃんと準備して、観客にがっかりされないように進化した形を見せてくれていることがわかる。そしてその歌声は歌に特化した弾き語りという形だからこそより強く実感できるものになっている。そういう意味でもこの曲の音源化、あるいはこのライブの映像化に期待したい。この日のこの感覚や感情を何年経っても忘れることのないように。
そして後半からはより多彩な形での弾き語りというか1人ライブを見せてくれるようになる。同期の音を使いながらもギターを弾きながら、サビではファルセットを全解放するかのような歌唱によって我々の千切れた感情を音と曲でもって縫い付けてくれるかのような「ソーイングボックス」が今までに感じたことのないような包容力を感じさせてくれると、
「これを果たして弾き語りと呼ぶかどうかはあなた次第!」
と言ってエレキギターを持つも、ほとんど弾かずに同期の音に任せて、言うならばカラオケ的とも言える形態になる「ホットバニラ・ホットケーキ」はもはや笑ってしまいそうになるくらいに自由だ。確かに弾き語りというよりは1人バンドと言っていいくらいであるが、それは曲中でキーボードを弾いたりという姿や歌唱に変幻自在にエフェクトやコーラスをかけることによって何人もの秋山黄色が同時に歌っているかのように感じられるからだ。
そしてどこかそれまでとはスイッチを変えるような真剣な面持ちで秋山黄色は
「もしかしたら、俺の音楽を素直に聴けないっていう期間を作ってしまったかもしれない」
と言って、しかしそれでもより心を込めるようにして歌い始めたのは同期も使ってほぼ原曲通りの形での「SKETCH」。リリース当時は「僕のヒーローアカデミア」のエンディングテーマであること、通常とは違う特殊エンディングが用意されるくらいに番組からも愛されていたことから、主人公のデクとその幼なじみのかっちゃんこと爆豪、あるいはまさに居なくなってしまったことによって視聴者を号泣させたトガヒミコとトゥワイスとの関係性を歌った曲として捉えていた。でも今はその
「「居なくならないでね」
「君こそね」
能天気に約束して肩を叩く
きまってどちらかが破るのさ
今回もまた僕じゃなかっただけ」
というサビのフレーズは紛れもなく秋山黄色と我々の関係性を歌ったものとして響く。それは我々の願い通りに秋山黄色がいなくならずにこうして戻ってきたからであるが、自分はミュージシャンはヒロアカで言うと自分が1番好きなキャラである耳郎響香のような、ステージに立って音を鳴らせばたくさんの人を幸せにできるヒーローだと思っているが、今の秋山黄色は己のこれまでを真摯に受け止めて謝罪しながら、これから先もたくさんの人のためにヒーローとして生きていこうとするエンデヴァーのように映る。だから実際に今は自分はエンデヴァーが最も感情移入できるキャラになっているのだが、ある意味では今こうなったことによってこの曲が本当に我々のための曲になったというか。だからこそ本人も
「この曲を歌えて良かった」
と言えたところもあるんじゃないだろうか。もちろんそれはそう思わせてくれる秋山黄色の歌唱の表現力あってこそである。
そして秋山黄色はここで早くも残り2曲になってしまったことを口にすると、客席からは実に久々の(秋山黄色のライブに限って言えばコロナ禍になる前以来だろうか)「えー!?」というリアクションが返ってくるのであるが、それに少し笑いながらも
「ミュージシャンは優しくないと話にならない。それは歌詞とか音が激しかったり暴力的だったりっていう表面的なことではなくて。自分もそういう人間だと思っていた。他の人よりは優しく生きているはずだって。でもそう思うことで胡座をかいていた」
という自分自身へ向けられた真っ直ぐな視座は本当に自身の人間や生き方を振り返って見つめ直す期間があったからこそ出てきた言葉だろうけれども、自分は初めて「Hello my shoes」を聴いてそのリリースライブの渋谷O-Crestで初めて見た時からずっと、秋山黄色の音楽や言葉から優しさを感じてきたし、それを周りにいる人(メンバーやスタッフ、我々観客まで)に分け与えられる人だと思ってきた。それはあの報道が出た時も変わることはなかったし、こうしてこの日のライブを観ると今でもそうあり続けていると思える。それは目の前にいる観客たちを見ていればわかる。みんな秋山黄色からその優しさを貰った人たちであるからだ。
そうした言葉の後にはこの曲で秋山黄色に出会ったという人も多いであろう、アニメ「約束のネバーランド」のタイアップであった「アイデンティティ」が、この曲はシンプルに、ストレートな弾き語りという形で演奏される。その形態だからこそ、
「思い出した 思い出した
流れる風景と それが好きなこと
この世界で出会えたこと
生きていいのに 息苦しいこと」
というフレーズがまさに今この瞬間のことを歌っているかのようにその歌詞がダイレクトに響き、
「好きに生きたい 好きに生きていたい
選んだ未来なら笑えるから」
というフレーズが今の秋山黄色の決意表明であるかのように響く。その歌詞を歌う声も、鳴らすギターも本当に力強いのはそこにありったけの感情を込めているからということが伝わってくるのだ。
そして秋山黄色が丁寧に靴を脱いでからキーボードの方に移動するとその音を鳴らしながら、
「少しだけ、辞めてしまおうかとも…。こうやってみんなの前に出る勇気がなかった」
と本心を口にし始める。キーボードに向かい合う角度的に表情や目元までは見れないが、鼻を啜る音が聞こえていたのはいつもの鼻炎ではなくて込み上げてしまうものがあったからだと思っている。でも、自分は秋山黄色が辞めるなんて全く思ってなかった。また必ずこうやって戻ってくると思っていた。それは他の職種に就いて器用に世渡りしていくところが想像できないくらいに、音楽でしか生きていけない人であることをわかっているからだ。だから絶対にまた音楽を鳴らすために戻ってくると思っていた。
その後に何度目かわからないくらいに観客への感謝を口にして、歌い始めるまでに長く大きな拍手を浴びてから歌い始めたのはキーボード弾き語りによる「夢の礫」。曲中には客席頭上にあるミラーボールも回り、鮮やかな光が場内に散らばっていく。それは
「なんでうまくいかないんだろう…
伝えたい ガラクタみたいな心ごと」
というフレーズで本心を曝け出しながらも、
「夢の今でも離せない
光の粒がここにある」
と、新たな確信を掴んだことを感じさせてくれた。それはやはりその歌唱が心が震えるくらいに見事だったから。やはり自分は、ここにいた人は今でもこうして秋山黄色の音楽と存在に救われているのだ。
観客の求めるアンコールに応えて再び秋山黄色がステージに現れると、どこか本編をやり切ったかのようなスッキリとした、解放されたような表情になっており、
「みんな物販買えた?」
「客いじりでもしようかな…。俺の真似してるやつ、今日来てる?(返事を聞いて)声全然似てないな!(笑)
でも君のおかげで助かってるよ!街で声かけられた時に3回くらい「真似してる人なんです」って言ったことあるから(笑)」
とMCの内容も実にリラックスしていたが、声が全然違うことがバレてしまったことによってもう替え玉作戦は使えなくなってしまった気もする。
「メンバーとはまだ恥ずかしくて会えてないんだけど、また近々バンドでもライブもやりたいし…俺はゆっくりしてるからいつになるかはまだわからないし、まだ新曲を作るっていう感じでもなくて。でもみんなを見てたら、みんなの存在が新曲を作るための米粒なんだなって思えた」
とまた独特な表現で観客が自身にとってどんな存在であるかを口にすると、
「最後に俺のブルースを聞いてくれ!」
と言いながら、ギターが鳴らすサウンドやリズムはブルースというよりレゲエ的な「ゴミステーションブルース」であり、まだコーラスを全員で大合唱できなくても、それはまだこの先一緒にこのフレーズをみんなで歌うまでの約束であるかのように感じられた。自らアンプのボリュームを上げてからの
「声を上げて石を投げる人を横目に
黙って後についてきた人だけに言う
俺はゴミじゃない」
という締めのフレーズは、間違いなくこの状況でも秋山黄色のライブに来てくれている、ついてきてくれている我々に向けて歌われていた。ゴミじゃないなんて、最初からずっとわかっていたんだ。でもそうは見てくれない人もいる。曲は全然聴かないで報道のイメージだけを持ってなんか言ってくるようなやつなんていくらでもいる。そういう声を黙らせるためにはこれからもひたすらに真摯に、良い音楽を作り続けていくしかない。秋山黄色にならそれができると自分は信じている。
それは内面がクソ野郎だとしたら周りにいる人たちがこんなに復帰に向けて早く動いてくれたりしないからだ。「この人を助けたい、力になりたい」と周りが思ってくれる人だからこそ、こうして力を貸してくれる人がたくさんいる。レーベル、事務所、ライブスタッフや各地のイベンター…。翌日に札幌でのイベントに弾き語りで出演するのだって、フェスのラインナップに名前があるのだって、メディアのライターが観に来て記事にしてくれるのだってそう。
「音楽と人間性は別」という論は最もだと思うけれど、でも自分は人間性は必ず音楽に出るとも思っている。曲や歌詞を聴けばどういう人が作ったのかがわかるように。それで言えば秋山黄色の音楽からは自分はやっぱりどうしようもないくらいの優しさを感じる。誰かに向けて書いているわけではなくても、自分のことを見てくれている、追ってくれている人、自分のような音楽がなければどうしようもないような人のことを救ってやりたいという意識が秋山黄色の音楽からは感じられる。そう思うからこそ、報道が出てからもずっと信じてきた。待っていようと思えたのだ。
でもあの報道の真相なんか我々にはわからない。どんな人に聞いたところでそれは伝聞でしかないし、当人たちの感情や意識は当人たちしかわかりようもない。ましてや曲を聴きもしない、報道で秋山黄色を知った人はそのイメージしか持っていない。
でもそんなわからないことでも、というかわからないからこそ、それを持って刺しに来るような奴だっている。それは本人も、我々ファンをも。というのはCOUNTDOWN JAPANに秋山黄色の代打で出演したBase Ball Bearから秋山黄色へのメッセージをツイートした時も「こんな奴を擁護してる邦ロックマジでキモい」的な返信が来たからで、秋山黄色を信じる、応援していくということはファンにも向けられるそういう言葉を我々も乗り越えていかないといけないということ。
そんなことをわざわざ書くのは、秋山黄色のファンの人たちは自分がライブに行っているアーティストのファンの中でもトップクラスに純粋すぎるくらいに純粋で、良い人過ぎて心配になるような人ばかりだから。(あくまでツイッターのフォロワーの方々くらいの範囲だけど)
そんな人たちがそうした外からの悪意を持った言葉にやられて秋山黄色の音楽が聴けない、ライブに行けないということだけにはなりませんように、とこの日最後にステージから去る際に深々と頭を下げた秋山黄色に思いっきり手を叩いて送り出した人たちの姿を見て思っていた。
秋山黄色にも、その人たちにももう一度どころか、何度でもどこかで会えたらいいなって。
自分はこの日も秋山黄色の物販で昔買った黒のパーカーを着るなど、MY COLORといえば黒というくらいに普段から黒い服を着ているが、それでも
「ロックなのか、パンクなのか…。秋山黄色っていう色は俺しかいない」
と言っていた男の色が黒一色だった自分の中に染み込んできている。
1.猿上がりシティーポップ
2.クラッカー・シャドー
3.うつつ
4.サーチライト
5.心開き三週間
6.燦々と降り積もる夜は
7.Caffeine
8.エニーワン・ノスタルジー
9.やさぐれカイドー
10.Rainy day
11.ソーイングボックス
12.ホットバニラ・ホットケーキ
13.SKETCH
14.アイデンティティ
15.夢の礫
encore
16.ゴミステーションブルース