ヨルシカ LIVE 2023 「前世」 @日本武道館 2/9
- 2023/02/10
- 19:14
「文学シリーズ」と題した配信シングルをリリースしてきたかと思いきや、まさかの広瀬すず主演ドラマ「夕暮れに、手をつなぐ」([Alexandros]の川上洋平も出演している)で曲が流れまくるというフィーチャーっぷりでついにお茶の間にまでこのユニットの名曲たちが流れることになった、ヨルシカ。そんな状況で開催するライブは「前世」。それはコロナ禍になった後に八景島シーパラダイスで収録されたアコースティック配信ライブと同じタイトルである。新曲も次々に発表される中でのこのタイトルのライブは果たしてどんなものになるのか。この日は先月の大阪城ホール2daysに続いて開催された日本武道館2daysの2日目、つまりはツアーファイナルとなる日である。
1週間ぶりに武道館の中に入ると、ステージは昨年3月に東京ガーデンシアターで見た「月光 再演」(自分が見た日はライブ中にsuisが倒れてしまうというアクシデントもあったけれど)に比べるといたってシンプル。楽器が並ぶ中で背面には巨大なLEDスクリーンと、中央には椅子。そして「盗作」でも重要な役割を担っていた百日紅の木が上手後方に聳えている。たくさんの真っ赤な花をその木に宿しながら。
客電が点いていて鳥の囀りが聞こえてくる中、19時になると場内アナウンスが流れ、それからもう5分くらい経って場内が暗転。その薄暗いステージに歩みを進めるのはヨルシカのコンポーザーであり、ギタリストでもあるn-bunaで、百日紅の前のベンチに腰掛けると本を開く。それはヨルシカのライブではおなじみの物語の朗読。今回のプロローグは緑道を歩く女性が百日紅の木の下のベンチに座る男性と会うというシーンから始まる。スクリーンにはそのシーンが切り絵のようなタッチのアニメーションで描かれる中、2人はどうやらもともとは一緒に暮らしていたらしいということが2人の距離感から察せられるのであるが、男性の方は
「最近、変な夢を見るんだ。自分がいろんな生き物になった夢」
と女性に向かって話し始める。その輪郭を持った夢は自分の「前世」なのではないかと。そんな話の合間にはn-buna、suis(ボーカル)とともにバンドメンバーの名前も映し出され、朗読の途中でメンバーたちもステージに合流する。「前世」という言葉を男性が口にする時だけはスクリーンにも黒地に白い文字で「前世」とだけ映し出される。それがこのライブの、物語のタイトルでありテーマだ。
それを軸に曲が演奏されていくことがわかるのであるが、n-bunaがベンチから立ち上がってギターを手にすると、ステージは一瞬の暗転。その暗闇の中でメンバーが演奏を始めるとステージに薄っすらと明かりが灯り、その中央には白い服の上に赤い装飾を纏い、青い髪色のsuisが立っている。スクリーンには曲タイトルが映し出される。静止画を並べて動かすような映像とともに鳴らされたのは「負け犬にアンコールはいらない」というごく初期の曲。まだボカロミュージック的な要素の強いギターロックサウンドは今のヨルシカの音楽からすれば蒼さのようなものを感じさせるが、それはsuisのボーカルもリリース当時の少女性の強いボーカルもそうであるように見えて、今はsuisがこの曲を歌うために敢えてそうした声を出しているという表現力を獲得していることがわかる。それは最後のサビ前あたりから一気に歌声のギアが上がるような歌唱によってわかるし、アリーナど真ん中の前の方という、顔がハッキリ見えてしまう位置に座っていたからこそ、彼女がアウトロで笑顔を浮かべているのがわかったからだ。
スキンヘッドかつ大柄な平畑徹也(キーボード)は早くもガンガン頭を振りながら演奏し、ソロとしてもブレイクしているにも関わらずヨルシカに参加し続けるキタニタツヤ(ベース)はアウトロでボーカリストならではの歌声あるベースを弾く。その姿を見ると、ヨルシカは2人組であってもこのサポートメンバーたちを含めたバンドだと思う。紛れもなくロックバンド・ヨルシカのライブだ。
そのメンバーであるMasack(元MY FIRST STORY)が長い髪を靡かせながらビートを刻み、ここまではリードギターとしてヨルシカのギターロックサウンドを下鶴光康(ギター)が牽引する「言って」でも切り絵のようなアニメーションの上に歌詞が映し出されていくという形であるが、まさかこんなにも初期の曲が連発されるとは思わなかった。それはまだ曲の内容が物語に深く紐付く前の段階だからこそでもあり、今のヨルシカの「前世」と言えるような曲でもあると思う。
緑道のベンチに座った2人の会話は、男性が
「昨日見た夢では、俺は鳥だった」
と話し始め、その夢の中を可視化したかのように山奥の中の川を滑空しているかのような視点で、美しい自然の風景が流れていく。その自然の中を抜けると彼は海に出て太陽を目指すのであるが、それは太陽ではなくて丸い月であり…というのが今になると後の展開を示唆していたんだなと思うが、まだこの段階ではそんなことは知る由もなかったのである。
そんな鳥になった、というより鳥が前世であった男性の夢をそのまま曲にしたかのように響く「靴の花火」ではそうした自然の中などを飛ぶ映像が映し出され、曲が物語と密接に結びついていく。この曲もまた初期の曲であるが、そうして物語の中に組み込まれることによってまた曲が新たな意味を宿していく。
その「靴の花火」と、一転して歌詞に焦点を絞った映像がスクリーンに流れる「ヒッチコック」もまた初期の曲であるが、その歌詞を聴いていると近年ヨルシカがリリースしている配信シングルは「文学シリーズ」と言われているが、実はこの初期の頃からその要素を歌詞に含んでいたということがわかる。「靴の花火」の「ヨダカ」は間違いなく宮沢賢治から着想を得ているのだろうし、「ヒッチコック」には
「ニーチェもフロイトもこの穴の埋め方は書かないんだ。」
という歌詞がある。こうしたライブでの物語の朗読も含めて、n-bunaの作家性は近年急に開花したものではなくて、そもそもが文学少年だったということがわかるのであるが、そのn-bunaはギター少年でもあり、この2曲ではリードギターとして思いっきりギターを唸らせまくっている。そこにはただ物語を描く、そのために曲を再現するというだけではなくて、曲順通りにプレイリストを作るだけでは伝わらないものをライブという場で表現していることがわかる。それは徐々に歌い方が少女的な声から多面性を覗かせるようになるsuisも同じである。
すると一転して少女が森の中、さらには新宿駅小田急口の前で華麗に舞い続ける映像とともに演奏されたのは、こちらも初期の代表曲にして今なおSNSなどでたくさんの人が使っている「ただ君に晴れ」。ちなみにこのライブ(というか「月光 再演」「盗作」も含めて)は観客は着席指定であり、こうしたギターロック曲でも立つことなく座って鑑賞するスタイルだったのだが、それでもさすがにここでは、とばかりにサビでリズムに合わせてパパンと手を叩いたら周りが1人も手を叩いておらず、見える範囲で手を叩いていたのは歌いながらそうしていたsuisと、ギターと歌だけになる最後のサビ前で大きく手を叩いた平畑だけであり、指定席、かつ着席であってもライブハウスの癖が抜けない自分は空気が読めないみたいになってしまったのは少し周りに申し訳なさもあった。
「俺は虫だったのかもしれない」
「あるいはその虫の周りに咲く花だったのかもしれない。花は目がないから視界は見えないが、虫が蜜を吸う感覚は確かに覚えている」
と、様々な生き物が自身の前世として夢に出てきたことを男性が語ると、その生き物たちが揃って行進していくかのようなアニメーションが映し出され、ここまでとはガラッと変わってジャジーかつ体を揺らすようなサウンドを鳴らすのは昨年リリースの配信シングル「ブレーメン」。
「あっはっはっは」
という笑い声を表現する、平畑のピアノとハモるようなフレーズでのsuisの歌唱がどこか悍ましさをも感じさせるのであるが、前半の流れは「これはもしかしてこのライブは初期曲に絞ったコンセプトなのだろうか?」とも思ったけれど、やはりそんなことはなく、過去曲と新しい曲たちが物語の上で並列に繋がっていくというのはヨルシカのライブならではだ。この曲を演奏している時は座ったままの観客をよそにn-bunaがステージ上で楽しそうに踊るようなステップを見せている。それがどこかヨルシカのライブ特有の客席の緊張感を解きほぐしてくれるかのようですらある。つまりはそのn-bunaの楽しそうな姿が我々をも楽しくさせてくれるのである。
そんな「ブレーメン」のアウトロでMasackが1人ドラムのビートを鳴らすと、一瞬でそれが「雨とカプチーノ」のイントロに切り替わるというあまりに見事なライブアレンジ。スクリーンには「月光 再演」の時と同様にテーブルの上に置かれたカプチーノが映し出されているのであるが、サウンドがレイドバックしたものに変化していくことによって、suisの歌い方もどこか深みを帯びたものへと変わっていくという豊かな表現力を示してくれる。まるでそれは「月光」の主人公たちに憑依したかのようだ。n-bunaはギターを弾きながら下鶴と向かい合い、指差したりするなどやはりこうしてステージで演奏しているのが本当に楽しそうである。
それは日めくりカレンダーの映像が映し出され、寺山修司「書を捨てよ、町へ出よう」を引用した「チノカテ」の隙間を生かしたリズムでも全く機械的にならないボーカルもそうであるのだが、改めて近年のヨルシカのサウンドの振り幅に驚かされるとともに、コーラスフレーズではメンバー全員が声を重ねるというバンドらしさを最大限に発揮する。そんな中でも下鶴が椅子に座ってアコギを弾いているというのはこの後の展開を示唆するような、前半と後半を繋ぐ中間を担う曲だったと言っていいだろう。
そのn-bunaがステージ前まで出てくると、ステージを覆うかのように紗幕が降りてくる。そこに映し出されたのは雨が降る緑道の映像で、傘を忘れて雨に濡れる女性を男性が傘の中に入れると、雨の中を歩きながら
「俺は魚だったのもしれない」
という前世の回想では水中に場面が切り替わる。その魚が好きだった光景は、水の中から水面に入ってくる月の光、すなわち「月光」。回想を終えると2人は緑道から橋を越えて男性の家へと向かっていくのであるが、この物語が「月光」と連なるものであるという予感が漂ってきていた。
その映像が映し出されていた紗幕が上がると、なんとステージセットが両サイドの壁に絵画やアコギ、本などが飾られた家の中のものへと変化している。しかもn-buna、下鶴、キタニは椅子に座り、Masackもアコースティックセット、さらにはヴァイオリン、ビオラ、チェロという4人のストリングス隊までも加わるという場面の一新っぷりであるが、suisも白いワンピースと出で立ちも変わるという驚きの演出によって演奏された「嘘月」はまさに部屋の窓から月を見上げているかのような情景がしっとりとしたアコースティックサウンドによって鳴らされるのであるが、ライブを見終わった後になると
「僕は君を待っている」
というフレーズも、
「君の鼻を知っていない
君の頬を想っていない
さよならすら云わないまま
君は夜になって行く」
という締めの歌詞までもが「あぁ…」と思えるものとして響く。もちろんこの曲を聴いている段階ではアコースティックに合わせたsuisの歌声の柔らかさを感じていたりしただけなのであるが。
そのsuisの歌声の柔らかさをさらに感じられるのはアコギの音色とともに歌い始める「花に亡霊」。スクリーンにはバス停や百日紅の花という「盗作」の時に使われていた映像が映し出されることによって、この物語が「盗作」とも連なるものであるということを感じさせる。思えばあのライブも
「生まれ変わりって信じる?」
というセリフが印象的な「生まれ変わり」というタイトルの朗読が挟まれる物語だった。時系列としては「月光」→「前世」→「盗作」であり、このライブを見てからもう一度「盗作」を見たらまた違うものが見えたりするのだろうか、と思っていると、サビではストリングスのサウンドがこの名曲をより壮大にアレンジし、スクリーンには花火の映像が映し出される。それもまた「盗作」と同様のものであるが、その花火も、町の夏祭りの盆踊りのような風景も、確かに自分が子供の頃に見てきた、経験してきたかのような光景に見える。実際にはそれとは違う花火であり祭りだろうけれど、子供の時にそうした場所で見た花火や、学生の時に同級生たちと行った夏フェスで見た花火を思い出す。そんな記憶を呼び覚ましてくれることによって、このライブの物語がより「自分のもの」になっていくような感覚があるのだ。
n-bunaの朗読の場面もステージ上同様に、緑道から男性の家の中へと変わる。濡れた髪を乾かす女性と、キッチンへ向かう男性。思えば、そこで女性に出される飲み物がホットミルクだったということも、彼女がテーブルに置かれた写真立てを落としてしまい、それを拾えなかったというのも物語の結末を知った後では「そうだよな…」と思う部分だ。なんなら「花に亡霊」の
「もう忘れてしまったかな?」
「忘れないように 色褪せないように
形に残るものが全てじゃないように」
というフレーズも。本来は「盗作」の物語の根幹を担っていた曲がこの物語にもその位置にいる。それはやはりヨルシカがライブで描く物語は全て密接に繋がり合っているということだ。
そんな女性が落とした写真立てには桜の木の下に映る男性と女性の姿。それを拾い上げた男性が
「これ、楽しかったよなぁ。秋の嵐の後に桜が狂い咲きしてるっていうニュースを見て、2人でピクニック気分で行ったら、木にほんの少しだけ桜が咲いてるくらいの感じで」
と写真に映る当時の2人を回想する。その時はこの2人はまたそうやって一緒にいれるようになる、やり直せるんじゃないかと思っていたのだ。
そんな回想の後の「思想犯」からはアコースティックから通常のバンドセットへ、サウンドもギターロックへと転換していくのであるが、suisのキーの低いボーカルはまさに「思想犯」の男性そのものが歌っているかのようであるが、ただ男性のキーで歌っているのではなくて、そこには凛とした力強さ、高貴さのようなものを感じるのはsuisのボーカルだからこそだ。だからこそ
「さよならが口を滑る」「また明日 口が滑る」
というサビを締めるフレーズたちが、言えなかったまま過ぎ去ってしまった2人の思いであるかのように響き、それは曲自体が回想であるかのような歌詞の中で
「秋になって 冬になって
長い眠りについたあとに
雲に乗って 風に乗って
遠くに行こうよ」
と歌われることによって切なさが加速する(物語の結末を知った後に歌詞を見るとよりそう思う)「冬眠」もそうであるが、この流れで鳴らされることによってまるで初期のこの曲が「盗作」期に作られたかのように感じられる。それは1曲1曲が物語であり、それが連なることによってさらに一つの大きな物語になるというヨルシカのライブだからこそ感じられるものである。
徐々に朗読による物語も核心へと迫っていく。
「俺は昔、人間だった」
という男性の言葉が響く中、部屋にある世界の観光書籍を開くと、この国から出たことがないのに鮮やかに北欧であろう街並みの風景を思い出せる。そこで暮らして詩を書き、曲を作っていたことも。何故その国を訪れたのかは覚えていないというが、その朗読時にステージに映し出された街並みの写真は紛れもなく「月光」の時のものであった。それによってここまでにも「もしかして…」と思うような要素があったのがハッキリと確信に変わる。この男性は「月光」の主人公であった「エイミー」の生まれ変わりなのだ。それに気付いた瞬間、なぜヨルシカが昨年敢えて新曲を全く演奏しない「月光」の再演ライブを行ったのかがわかった。「盗作」の前の配信ライブが「前世」だったのも。やはり「月光」の次の物語が「前世」だからこそ、このライブをやる前にコロナ禍になったことによって長い年月が経った「月光」の物語を再度今の自分たちの力で提示した上でこの「前世」を紡ぐ必要があったのだ。
なので、丸いテーブルにコーヒーカップが置かれ、窓の外の風景が朝から夕方、夜へと変わっていくという演出によって演奏された「詩書きとコーヒー」からはエイミーの過去を最短距離で辿るような曲が演奏されていくことになる。
「わかんないよ」
というサビのフレーズを連呼するsuisのボーカルも「月光」の物語の登場人物になったかのような感情が宿る。それは演じているというよりも憑依、同化しているというくらいに。それはよりギターを弾く姿が衝動的になっていくn-bunaもそうである。
そんなギターロックなサウンドの「詩書きとコーヒー」から一転して穏やかなサウンドとボーカルになる「声」ではステージ上をスモークが漂う。最後のサビ前ではそのステージが薄暗くなり、ステージ上からレーザー光線が三角錐上にsuisを取り囲むように放たれる。
「神様の話」
というフレーズがこの曲にはあるが、その神様は今目の前で光を浴びながら歌っているこの人なんじゃないかと思うくらいに、その姿は実に神々しかった。
そしてMasackがバスドラを四つ打ち的に踏むと、平畑のピアノが重なりながらsuisが歌い始めたのは「だから僕は音楽を辞めた」。それはエイミーの記憶の終着点と言える曲であるだけに、その前世としての記憶を探るならばもちろん演奏されなければならない曲であるのだが、自分が「ああ、この曲が来るのか…」と思ったのは昨年の「月光 再演」を自分が見た時にsuisがステージ上で倒れてしまったのがまさにこの曲だったからだ。おそらくは過呼吸の症状だと思われるが、登場人物に入り込みすぎてしまったとも思っているあの日にsuisはステージに戻ってきてライブを再開したが、この日のライブではその曲を実に力強く乗りこなすように歌ってみせる。ストリングスのドラマチックなサウンドもそのsuisの歌声への援護射撃のように鳴らされるのであるが、自分がヨルシカのライブを素晴らしいと思っているのは、演出や物語がそうであるのはもちろんとして、ステージ上にいるメンバーの鳴らしている音や姿から確かな、強い熱量や衝動を感じられるから。しかもそこにはメンバーだけではなくて登場人物の感情すらも乗ることによって何倍にも曲がダイレクトに心に響いてくる。そんなライブができるヨルシカはライブの本数こそ決して多くはないが、紛れもなくライブバンドだと思っている。だからこんなにもその音だけでこんなにも胸が震えるのだ。
そんな間違いなく一つのハイライトを刻んだ後のn-bunaの朗読では部屋の中で男性が女性に話しかけるシーンが続く。それは女性目線のものなのであるが、男性の
「俺は何をこんなに話しているんだろうな。相手は犬なのに」
というセリフに衝撃が走る。女性がかつて暮らしていたこの部屋の鏡を見ると、自分が犬であることを認識する。女性の生まれ変わりがこの犬であり、犬の前世がかつてこの男性と一緒に暮らしていた女性という、あまりにも予期せぬ大どんでん返し。男性の前世を辿るものだと思っていた物語はここで一変する。
そう考えると雨の降る中で傘を持っていなかったのも、部屋についてホットミルクを男性に出されたのも、落とした写真立てを拾うことが出来なかったのも、なんなら1曲目が「負け犬にアンコールはいらない」だったのも。全てがこの結末への伏線だったと言える。なんでまた一緒にならないんだろう、この2人は。と思っていたのは、もう元に戻ることができないんだという思いに一瞬で変わってしまった。
そんな衝撃が残る男性の部屋の風景が映し出される中で演奏されたのは昨年リリースされた「左右盲」。
「君の左眉は少し垂れている
上手く思い出せない
僕にはわからないみたい
君の右手にはいつか買った小説
あれ、それって左手だっけ」
という歌詞が、生まれ変わって男性のことを忘れてしまってきている犬(=女性)の心境であるかのように穏やかなサウンドで響く。
「何を食べても味がしないんだ
身体が消えてしまったようだ
貴方の心と 私の心が
ずっと一つだと思ってたんだ」
という締めのフレーズもまた然り。離れてしまったからこそわかってしまったこと。suisの歌声は穏やかであるからこそ、そこにある切なさを募らせていく。それを支えるように鳴らされるストリングスサウンドの押し引きの妙も本当に素晴らしいアレンジだ。
そんなライブの最後に演奏されたのは、下鶴のアコギと平畑のピアノのサウンドが実に美しい「春泥棒」。すでに「盗作」のライブでも演奏されていたが、このライブで聴くとMVに出てくるあの犬がこの物語の犬であり、男性の視点によるものであるとわかる。だから最初はsuisも男性視点の声で歌い、場面転換で女性の声に変わる。
「今日も会いにいく」
というフレーズが女性でありながら犬の思いであるということに気がつくと、
「愛を歌えば言葉足らず
踏む韻さえ億劫
花開いた今を言葉如きが語れるものか」
のフレーズではsuisの歌声とギターの音だけになり、ステージも真っ暗になる。スクリーンに現れていた歌詞も映らなくなる。その直後の最後のサビで明るくなったと思ったらステージ中央には百日紅の木が聳えるというセットに早変わりしており、炸裂音とともに場内に満面の花吹雪が舞う。これが狂い咲きってやつなんだな、とここまでの物語を思い返しながら見るこの景色と、壮大なストリングスを加えた演奏はまさに、瞬きさえ億劫なほどの美しさであった。
このライブが行われた週のはじめくらいまでは最高気温が15°Cほどに達するくらいに暖かさを感じる日が増えていた。だがこのライブの翌日、関東地方でも雪が観測されるくらいに一気に冷え込んだ。それは、まさに春泥棒というくらいに見事なまでにヨルシカが奪い去っていったものなんじゃないだろうか。観客の服に大量に付着した花びらを見たら、通行人はどんなことを思うんだろうか、なんてことを思っていた。
演奏が終わるとsuisとn-bunaを残してバンドメンバーとストリングス隊がステージを去り、n-bunaはそれまでとは違ってライブで体力を使い果たしたような様子でベンチに座り、最後の朗読を始める。緑道で男性と犬になった女性が再び出会い、男性の家に行く。自身が亡くなった日の日付で止まっている日めくりカレンダーが女性の前世を強く意識させる中、男性はベランダで月を見上げる。スクリーンに映る美しい月の映像。それを見て男性は犬に
「一緒に暮らすか?」
と口にする。犬になった女性の気持ちである
「あなたは私の気持ちを知っているのか」
というセリフに、この日の朗読で最もn-bunaは感情を込める。決してハッピーエンドと言えるような物語ではないかもしれないけど、前世で悲しい別れをした2人はこうして形を変えて再び一緒になることができた。それは今我々それぞれが一緒に生活している人(それは家族に限らず、友人なども含めて)は、前世での大事な存在の人だったのかもしれない。そう思えば、少しだけ今までよりも周りの人に優しさや思いやりを持って接することができるような。
朗読が終わり、suisとn-bunaが客席に向かって頭を下げると、それまで曲間では控えめだった拍手が大きな音で響き、スクリーンにはこの日のライブタイトルが映し出された。どうしたって客席にいると特別な感情を抱く、数え切れないくらいたくさんのライブを見てきた武道館が、これまでで最も武道館にいる感覚を感じさせなかった。それは我々がこの日いたのは百日紅の木がある緑道であり、男性の部屋であったからだ。そんな物語の中に意識をつれていってくれた、ヨルシカの日本武道館での「前世」だった。
音楽はエンタメでもあるけれど、芸術という分野に属するものでもある。それだけに、音楽がコロナ禍で不要不急というレッテルを貼られてしまっていたのには強い反発があった。
その音楽は芸術であるということをその曲で、そしてライブで最も示し続けている存在であるヨルシカはすでに次なる作品のリリースとツアーが決まっている。果たしてそれはどんな物語になるのだろうか。内容はわからないけれど、そこにはこの日我々が追いかけていた2人の存在がどこかにあるはず。それが少しでも幸せであると感じられるものであったらいいな。
朗読
1.負け犬にアンコールはいらない
2.言って
朗読
3.靴の花火
4.ヒッチコック
5.ただ君に晴れ
朗読
6.ブレーメン
7.雨とカプチーノ
8.チノカテ
朗読
9.嘘月
10.花に亡霊
朗読
11.思想犯
12.冬眠
朗読
13.詩書きとコーヒー
14.声
15.だから僕は音楽を辞めた
朗読
16.左右盲
17.春泥棒
朗読
1週間ぶりに武道館の中に入ると、ステージは昨年3月に東京ガーデンシアターで見た「月光 再演」(自分が見た日はライブ中にsuisが倒れてしまうというアクシデントもあったけれど)に比べるといたってシンプル。楽器が並ぶ中で背面には巨大なLEDスクリーンと、中央には椅子。そして「盗作」でも重要な役割を担っていた百日紅の木が上手後方に聳えている。たくさんの真っ赤な花をその木に宿しながら。
客電が点いていて鳥の囀りが聞こえてくる中、19時になると場内アナウンスが流れ、それからもう5分くらい経って場内が暗転。その薄暗いステージに歩みを進めるのはヨルシカのコンポーザーであり、ギタリストでもあるn-bunaで、百日紅の前のベンチに腰掛けると本を開く。それはヨルシカのライブではおなじみの物語の朗読。今回のプロローグは緑道を歩く女性が百日紅の木の下のベンチに座る男性と会うというシーンから始まる。スクリーンにはそのシーンが切り絵のようなタッチのアニメーションで描かれる中、2人はどうやらもともとは一緒に暮らしていたらしいということが2人の距離感から察せられるのであるが、男性の方は
「最近、変な夢を見るんだ。自分がいろんな生き物になった夢」
と女性に向かって話し始める。その輪郭を持った夢は自分の「前世」なのではないかと。そんな話の合間にはn-buna、suis(ボーカル)とともにバンドメンバーの名前も映し出され、朗読の途中でメンバーたちもステージに合流する。「前世」という言葉を男性が口にする時だけはスクリーンにも黒地に白い文字で「前世」とだけ映し出される。それがこのライブの、物語のタイトルでありテーマだ。
それを軸に曲が演奏されていくことがわかるのであるが、n-bunaがベンチから立ち上がってギターを手にすると、ステージは一瞬の暗転。その暗闇の中でメンバーが演奏を始めるとステージに薄っすらと明かりが灯り、その中央には白い服の上に赤い装飾を纏い、青い髪色のsuisが立っている。スクリーンには曲タイトルが映し出される。静止画を並べて動かすような映像とともに鳴らされたのは「負け犬にアンコールはいらない」というごく初期の曲。まだボカロミュージック的な要素の強いギターロックサウンドは今のヨルシカの音楽からすれば蒼さのようなものを感じさせるが、それはsuisのボーカルもリリース当時の少女性の強いボーカルもそうであるように見えて、今はsuisがこの曲を歌うために敢えてそうした声を出しているという表現力を獲得していることがわかる。それは最後のサビ前あたりから一気に歌声のギアが上がるような歌唱によってわかるし、アリーナど真ん中の前の方という、顔がハッキリ見えてしまう位置に座っていたからこそ、彼女がアウトロで笑顔を浮かべているのがわかったからだ。
スキンヘッドかつ大柄な平畑徹也(キーボード)は早くもガンガン頭を振りながら演奏し、ソロとしてもブレイクしているにも関わらずヨルシカに参加し続けるキタニタツヤ(ベース)はアウトロでボーカリストならではの歌声あるベースを弾く。その姿を見ると、ヨルシカは2人組であってもこのサポートメンバーたちを含めたバンドだと思う。紛れもなくロックバンド・ヨルシカのライブだ。
そのメンバーであるMasack(元MY FIRST STORY)が長い髪を靡かせながらビートを刻み、ここまではリードギターとしてヨルシカのギターロックサウンドを下鶴光康(ギター)が牽引する「言って」でも切り絵のようなアニメーションの上に歌詞が映し出されていくという形であるが、まさかこんなにも初期の曲が連発されるとは思わなかった。それはまだ曲の内容が物語に深く紐付く前の段階だからこそでもあり、今のヨルシカの「前世」と言えるような曲でもあると思う。
緑道のベンチに座った2人の会話は、男性が
「昨日見た夢では、俺は鳥だった」
と話し始め、その夢の中を可視化したかのように山奥の中の川を滑空しているかのような視点で、美しい自然の風景が流れていく。その自然の中を抜けると彼は海に出て太陽を目指すのであるが、それは太陽ではなくて丸い月であり…というのが今になると後の展開を示唆していたんだなと思うが、まだこの段階ではそんなことは知る由もなかったのである。
そんな鳥になった、というより鳥が前世であった男性の夢をそのまま曲にしたかのように響く「靴の花火」ではそうした自然の中などを飛ぶ映像が映し出され、曲が物語と密接に結びついていく。この曲もまた初期の曲であるが、そうして物語の中に組み込まれることによってまた曲が新たな意味を宿していく。
その「靴の花火」と、一転して歌詞に焦点を絞った映像がスクリーンに流れる「ヒッチコック」もまた初期の曲であるが、その歌詞を聴いていると近年ヨルシカがリリースしている配信シングルは「文学シリーズ」と言われているが、実はこの初期の頃からその要素を歌詞に含んでいたということがわかる。「靴の花火」の「ヨダカ」は間違いなく宮沢賢治から着想を得ているのだろうし、「ヒッチコック」には
「ニーチェもフロイトもこの穴の埋め方は書かないんだ。」
という歌詞がある。こうしたライブでの物語の朗読も含めて、n-bunaの作家性は近年急に開花したものではなくて、そもそもが文学少年だったということがわかるのであるが、そのn-bunaはギター少年でもあり、この2曲ではリードギターとして思いっきりギターを唸らせまくっている。そこにはただ物語を描く、そのために曲を再現するというだけではなくて、曲順通りにプレイリストを作るだけでは伝わらないものをライブという場で表現していることがわかる。それは徐々に歌い方が少女的な声から多面性を覗かせるようになるsuisも同じである。
すると一転して少女が森の中、さらには新宿駅小田急口の前で華麗に舞い続ける映像とともに演奏されたのは、こちらも初期の代表曲にして今なおSNSなどでたくさんの人が使っている「ただ君に晴れ」。ちなみにこのライブ(というか「月光 再演」「盗作」も含めて)は観客は着席指定であり、こうしたギターロック曲でも立つことなく座って鑑賞するスタイルだったのだが、それでもさすがにここでは、とばかりにサビでリズムに合わせてパパンと手を叩いたら周りが1人も手を叩いておらず、見える範囲で手を叩いていたのは歌いながらそうしていたsuisと、ギターと歌だけになる最後のサビ前で大きく手を叩いた平畑だけであり、指定席、かつ着席であってもライブハウスの癖が抜けない自分は空気が読めないみたいになってしまったのは少し周りに申し訳なさもあった。
「俺は虫だったのかもしれない」
「あるいはその虫の周りに咲く花だったのかもしれない。花は目がないから視界は見えないが、虫が蜜を吸う感覚は確かに覚えている」
と、様々な生き物が自身の前世として夢に出てきたことを男性が語ると、その生き物たちが揃って行進していくかのようなアニメーションが映し出され、ここまでとはガラッと変わってジャジーかつ体を揺らすようなサウンドを鳴らすのは昨年リリースの配信シングル「ブレーメン」。
「あっはっはっは」
という笑い声を表現する、平畑のピアノとハモるようなフレーズでのsuisの歌唱がどこか悍ましさをも感じさせるのであるが、前半の流れは「これはもしかしてこのライブは初期曲に絞ったコンセプトなのだろうか?」とも思ったけれど、やはりそんなことはなく、過去曲と新しい曲たちが物語の上で並列に繋がっていくというのはヨルシカのライブならではだ。この曲を演奏している時は座ったままの観客をよそにn-bunaがステージ上で楽しそうに踊るようなステップを見せている。それがどこかヨルシカのライブ特有の客席の緊張感を解きほぐしてくれるかのようですらある。つまりはそのn-bunaの楽しそうな姿が我々をも楽しくさせてくれるのである。
そんな「ブレーメン」のアウトロでMasackが1人ドラムのビートを鳴らすと、一瞬でそれが「雨とカプチーノ」のイントロに切り替わるというあまりに見事なライブアレンジ。スクリーンには「月光 再演」の時と同様にテーブルの上に置かれたカプチーノが映し出されているのであるが、サウンドがレイドバックしたものに変化していくことによって、suisの歌い方もどこか深みを帯びたものへと変わっていくという豊かな表現力を示してくれる。まるでそれは「月光」の主人公たちに憑依したかのようだ。n-bunaはギターを弾きながら下鶴と向かい合い、指差したりするなどやはりこうしてステージで演奏しているのが本当に楽しそうである。
それは日めくりカレンダーの映像が映し出され、寺山修司「書を捨てよ、町へ出よう」を引用した「チノカテ」の隙間を生かしたリズムでも全く機械的にならないボーカルもそうであるのだが、改めて近年のヨルシカのサウンドの振り幅に驚かされるとともに、コーラスフレーズではメンバー全員が声を重ねるというバンドらしさを最大限に発揮する。そんな中でも下鶴が椅子に座ってアコギを弾いているというのはこの後の展開を示唆するような、前半と後半を繋ぐ中間を担う曲だったと言っていいだろう。
そのn-bunaがステージ前まで出てくると、ステージを覆うかのように紗幕が降りてくる。そこに映し出されたのは雨が降る緑道の映像で、傘を忘れて雨に濡れる女性を男性が傘の中に入れると、雨の中を歩きながら
「俺は魚だったのもしれない」
という前世の回想では水中に場面が切り替わる。その魚が好きだった光景は、水の中から水面に入ってくる月の光、すなわち「月光」。回想を終えると2人は緑道から橋を越えて男性の家へと向かっていくのであるが、この物語が「月光」と連なるものであるという予感が漂ってきていた。
その映像が映し出されていた紗幕が上がると、なんとステージセットが両サイドの壁に絵画やアコギ、本などが飾られた家の中のものへと変化している。しかもn-buna、下鶴、キタニは椅子に座り、Masackもアコースティックセット、さらにはヴァイオリン、ビオラ、チェロという4人のストリングス隊までも加わるという場面の一新っぷりであるが、suisも白いワンピースと出で立ちも変わるという驚きの演出によって演奏された「嘘月」はまさに部屋の窓から月を見上げているかのような情景がしっとりとしたアコースティックサウンドによって鳴らされるのであるが、ライブを見終わった後になると
「僕は君を待っている」
というフレーズも、
「君の鼻を知っていない
君の頬を想っていない
さよならすら云わないまま
君は夜になって行く」
という締めの歌詞までもが「あぁ…」と思えるものとして響く。もちろんこの曲を聴いている段階ではアコースティックに合わせたsuisの歌声の柔らかさを感じていたりしただけなのであるが。
そのsuisの歌声の柔らかさをさらに感じられるのはアコギの音色とともに歌い始める「花に亡霊」。スクリーンにはバス停や百日紅の花という「盗作」の時に使われていた映像が映し出されることによって、この物語が「盗作」とも連なるものであるということを感じさせる。思えばあのライブも
「生まれ変わりって信じる?」
というセリフが印象的な「生まれ変わり」というタイトルの朗読が挟まれる物語だった。時系列としては「月光」→「前世」→「盗作」であり、このライブを見てからもう一度「盗作」を見たらまた違うものが見えたりするのだろうか、と思っていると、サビではストリングスのサウンドがこの名曲をより壮大にアレンジし、スクリーンには花火の映像が映し出される。それもまた「盗作」と同様のものであるが、その花火も、町の夏祭りの盆踊りのような風景も、確かに自分が子供の頃に見てきた、経験してきたかのような光景に見える。実際にはそれとは違う花火であり祭りだろうけれど、子供の時にそうした場所で見た花火や、学生の時に同級生たちと行った夏フェスで見た花火を思い出す。そんな記憶を呼び覚ましてくれることによって、このライブの物語がより「自分のもの」になっていくような感覚があるのだ。
n-bunaの朗読の場面もステージ上同様に、緑道から男性の家の中へと変わる。濡れた髪を乾かす女性と、キッチンへ向かう男性。思えば、そこで女性に出される飲み物がホットミルクだったということも、彼女がテーブルに置かれた写真立てを落としてしまい、それを拾えなかったというのも物語の結末を知った後では「そうだよな…」と思う部分だ。なんなら「花に亡霊」の
「もう忘れてしまったかな?」
「忘れないように 色褪せないように
形に残るものが全てじゃないように」
というフレーズも。本来は「盗作」の物語の根幹を担っていた曲がこの物語にもその位置にいる。それはやはりヨルシカがライブで描く物語は全て密接に繋がり合っているということだ。
そんな女性が落とした写真立てには桜の木の下に映る男性と女性の姿。それを拾い上げた男性が
「これ、楽しかったよなぁ。秋の嵐の後に桜が狂い咲きしてるっていうニュースを見て、2人でピクニック気分で行ったら、木にほんの少しだけ桜が咲いてるくらいの感じで」
と写真に映る当時の2人を回想する。その時はこの2人はまたそうやって一緒にいれるようになる、やり直せるんじゃないかと思っていたのだ。
そんな回想の後の「思想犯」からはアコースティックから通常のバンドセットへ、サウンドもギターロックへと転換していくのであるが、suisのキーの低いボーカルはまさに「思想犯」の男性そのものが歌っているかのようであるが、ただ男性のキーで歌っているのではなくて、そこには凛とした力強さ、高貴さのようなものを感じるのはsuisのボーカルだからこそだ。だからこそ
「さよならが口を滑る」「また明日 口が滑る」
というサビを締めるフレーズたちが、言えなかったまま過ぎ去ってしまった2人の思いであるかのように響き、それは曲自体が回想であるかのような歌詞の中で
「秋になって 冬になって
長い眠りについたあとに
雲に乗って 風に乗って
遠くに行こうよ」
と歌われることによって切なさが加速する(物語の結末を知った後に歌詞を見るとよりそう思う)「冬眠」もそうであるが、この流れで鳴らされることによってまるで初期のこの曲が「盗作」期に作られたかのように感じられる。それは1曲1曲が物語であり、それが連なることによってさらに一つの大きな物語になるというヨルシカのライブだからこそ感じられるものである。
徐々に朗読による物語も核心へと迫っていく。
「俺は昔、人間だった」
という男性の言葉が響く中、部屋にある世界の観光書籍を開くと、この国から出たことがないのに鮮やかに北欧であろう街並みの風景を思い出せる。そこで暮らして詩を書き、曲を作っていたことも。何故その国を訪れたのかは覚えていないというが、その朗読時にステージに映し出された街並みの写真は紛れもなく「月光」の時のものであった。それによってここまでにも「もしかして…」と思うような要素があったのがハッキリと確信に変わる。この男性は「月光」の主人公であった「エイミー」の生まれ変わりなのだ。それに気付いた瞬間、なぜヨルシカが昨年敢えて新曲を全く演奏しない「月光」の再演ライブを行ったのかがわかった。「盗作」の前の配信ライブが「前世」だったのも。やはり「月光」の次の物語が「前世」だからこそ、このライブをやる前にコロナ禍になったことによって長い年月が経った「月光」の物語を再度今の自分たちの力で提示した上でこの「前世」を紡ぐ必要があったのだ。
なので、丸いテーブルにコーヒーカップが置かれ、窓の外の風景が朝から夕方、夜へと変わっていくという演出によって演奏された「詩書きとコーヒー」からはエイミーの過去を最短距離で辿るような曲が演奏されていくことになる。
「わかんないよ」
というサビのフレーズを連呼するsuisのボーカルも「月光」の物語の登場人物になったかのような感情が宿る。それは演じているというよりも憑依、同化しているというくらいに。それはよりギターを弾く姿が衝動的になっていくn-bunaもそうである。
そんなギターロックなサウンドの「詩書きとコーヒー」から一転して穏やかなサウンドとボーカルになる「声」ではステージ上をスモークが漂う。最後のサビ前ではそのステージが薄暗くなり、ステージ上からレーザー光線が三角錐上にsuisを取り囲むように放たれる。
「神様の話」
というフレーズがこの曲にはあるが、その神様は今目の前で光を浴びながら歌っているこの人なんじゃないかと思うくらいに、その姿は実に神々しかった。
そしてMasackがバスドラを四つ打ち的に踏むと、平畑のピアノが重なりながらsuisが歌い始めたのは「だから僕は音楽を辞めた」。それはエイミーの記憶の終着点と言える曲であるだけに、その前世としての記憶を探るならばもちろん演奏されなければならない曲であるのだが、自分が「ああ、この曲が来るのか…」と思ったのは昨年の「月光 再演」を自分が見た時にsuisがステージ上で倒れてしまったのがまさにこの曲だったからだ。おそらくは過呼吸の症状だと思われるが、登場人物に入り込みすぎてしまったとも思っているあの日にsuisはステージに戻ってきてライブを再開したが、この日のライブではその曲を実に力強く乗りこなすように歌ってみせる。ストリングスのドラマチックなサウンドもそのsuisの歌声への援護射撃のように鳴らされるのであるが、自分がヨルシカのライブを素晴らしいと思っているのは、演出や物語がそうであるのはもちろんとして、ステージ上にいるメンバーの鳴らしている音や姿から確かな、強い熱量や衝動を感じられるから。しかもそこにはメンバーだけではなくて登場人物の感情すらも乗ることによって何倍にも曲がダイレクトに心に響いてくる。そんなライブができるヨルシカはライブの本数こそ決して多くはないが、紛れもなくライブバンドだと思っている。だからこんなにもその音だけでこんなにも胸が震えるのだ。
そんな間違いなく一つのハイライトを刻んだ後のn-bunaの朗読では部屋の中で男性が女性に話しかけるシーンが続く。それは女性目線のものなのであるが、男性の
「俺は何をこんなに話しているんだろうな。相手は犬なのに」
というセリフに衝撃が走る。女性がかつて暮らしていたこの部屋の鏡を見ると、自分が犬であることを認識する。女性の生まれ変わりがこの犬であり、犬の前世がかつてこの男性と一緒に暮らしていた女性という、あまりにも予期せぬ大どんでん返し。男性の前世を辿るものだと思っていた物語はここで一変する。
そう考えると雨の降る中で傘を持っていなかったのも、部屋についてホットミルクを男性に出されたのも、落とした写真立てを拾うことが出来なかったのも、なんなら1曲目が「負け犬にアンコールはいらない」だったのも。全てがこの結末への伏線だったと言える。なんでまた一緒にならないんだろう、この2人は。と思っていたのは、もう元に戻ることができないんだという思いに一瞬で変わってしまった。
そんな衝撃が残る男性の部屋の風景が映し出される中で演奏されたのは昨年リリースされた「左右盲」。
「君の左眉は少し垂れている
上手く思い出せない
僕にはわからないみたい
君の右手にはいつか買った小説
あれ、それって左手だっけ」
という歌詞が、生まれ変わって男性のことを忘れてしまってきている犬(=女性)の心境であるかのように穏やかなサウンドで響く。
「何を食べても味がしないんだ
身体が消えてしまったようだ
貴方の心と 私の心が
ずっと一つだと思ってたんだ」
という締めのフレーズもまた然り。離れてしまったからこそわかってしまったこと。suisの歌声は穏やかであるからこそ、そこにある切なさを募らせていく。それを支えるように鳴らされるストリングスサウンドの押し引きの妙も本当に素晴らしいアレンジだ。
そんなライブの最後に演奏されたのは、下鶴のアコギと平畑のピアノのサウンドが実に美しい「春泥棒」。すでに「盗作」のライブでも演奏されていたが、このライブで聴くとMVに出てくるあの犬がこの物語の犬であり、男性の視点によるものであるとわかる。だから最初はsuisも男性視点の声で歌い、場面転換で女性の声に変わる。
「今日も会いにいく」
というフレーズが女性でありながら犬の思いであるということに気がつくと、
「愛を歌えば言葉足らず
踏む韻さえ億劫
花開いた今を言葉如きが語れるものか」
のフレーズではsuisの歌声とギターの音だけになり、ステージも真っ暗になる。スクリーンに現れていた歌詞も映らなくなる。その直後の最後のサビで明るくなったと思ったらステージ中央には百日紅の木が聳えるというセットに早変わりしており、炸裂音とともに場内に満面の花吹雪が舞う。これが狂い咲きってやつなんだな、とここまでの物語を思い返しながら見るこの景色と、壮大なストリングスを加えた演奏はまさに、瞬きさえ億劫なほどの美しさであった。
このライブが行われた週のはじめくらいまでは最高気温が15°Cほどに達するくらいに暖かさを感じる日が増えていた。だがこのライブの翌日、関東地方でも雪が観測されるくらいに一気に冷え込んだ。それは、まさに春泥棒というくらいに見事なまでにヨルシカが奪い去っていったものなんじゃないだろうか。観客の服に大量に付着した花びらを見たら、通行人はどんなことを思うんだろうか、なんてことを思っていた。
演奏が終わるとsuisとn-bunaを残してバンドメンバーとストリングス隊がステージを去り、n-bunaはそれまでとは違ってライブで体力を使い果たしたような様子でベンチに座り、最後の朗読を始める。緑道で男性と犬になった女性が再び出会い、男性の家に行く。自身が亡くなった日の日付で止まっている日めくりカレンダーが女性の前世を強く意識させる中、男性はベランダで月を見上げる。スクリーンに映る美しい月の映像。それを見て男性は犬に
「一緒に暮らすか?」
と口にする。犬になった女性の気持ちである
「あなたは私の気持ちを知っているのか」
というセリフに、この日の朗読で最もn-bunaは感情を込める。決してハッピーエンドと言えるような物語ではないかもしれないけど、前世で悲しい別れをした2人はこうして形を変えて再び一緒になることができた。それは今我々それぞれが一緒に生活している人(それは家族に限らず、友人なども含めて)は、前世での大事な存在の人だったのかもしれない。そう思えば、少しだけ今までよりも周りの人に優しさや思いやりを持って接することができるような。
朗読が終わり、suisとn-bunaが客席に向かって頭を下げると、それまで曲間では控えめだった拍手が大きな音で響き、スクリーンにはこの日のライブタイトルが映し出された。どうしたって客席にいると特別な感情を抱く、数え切れないくらいたくさんのライブを見てきた武道館が、これまでで最も武道館にいる感覚を感じさせなかった。それは我々がこの日いたのは百日紅の木がある緑道であり、男性の部屋であったからだ。そんな物語の中に意識をつれていってくれた、ヨルシカの日本武道館での「前世」だった。
音楽はエンタメでもあるけれど、芸術という分野に属するものでもある。それだけに、音楽がコロナ禍で不要不急というレッテルを貼られてしまっていたのには強い反発があった。
その音楽は芸術であるということをその曲で、そしてライブで最も示し続けている存在であるヨルシカはすでに次なる作品のリリースとツアーが決まっている。果たしてそれはどんな物語になるのだろうか。内容はわからないけれど、そこにはこの日我々が追いかけていた2人の存在がどこかにあるはず。それが少しでも幸せであると感じられるものであったらいいな。
朗読
1.負け犬にアンコールはいらない
2.言って
朗読
3.靴の花火
4.ヒッチコック
5.ただ君に晴れ
朗読
6.ブレーメン
7.雨とカプチーノ
8.チノカテ
朗読
9.嘘月
10.花に亡霊
朗読
11.思想犯
12.冬眠
朗読
13.詩書きとコーヒー
14.声
15.だから僕は音楽を辞めた
朗読
16.左右盲
17.春泥棒
朗読
キュウソネコカミ 「1曲目「キュウソネコカミ」から始まるツアー @Zepp DiverCity 2/13 ホーム
SUPER BEAVER 自主企画「現場至上主義2023」 SUPER BEAVER / The Birthday / ATATA @Zepp Haneda 2/7