amazarashi Live Tour 2022 「ロストボーイズ」 @東京ガーデンシアター 11/24
- 2022/11/25
- 21:22
今年の4月に最新アルバム「七号線ロストボーイズ」をリリースした、amazarashi。そのリリースツアーは本来なら6月に終わっていたはずだったが、秋田ひろむ(ボーカル&ギター)の体調不良によって後半の4公演が延期となり、元々はセミファイナルだった東京がファイナルになるという事態に。秋田は復活を果たし、ついに辿り着いたのがこの日の東京ガーデンシアターでのツアーファイナルである。
早めにガーデンシアターに到着すると、会場隣の商業施設の中ではこの日のライブに合わせてひたすらamazarashiが流れているというのはなんだかファンの1人として「すいません…」という気持ちになってしまう。それくらいにこれだけ一日中amazarashiが流れているとどこか陰鬱な気持ちになってしまいそうだからだ。
そうしてガーデンシアターの場内に入場すると、amazarashiのライブではいつもの通りの全席指定であり、なおかつ着席指定であることが周知されている。なかなかamazarashiのライブで立ち上がる人はいないだろうけれど、それが変わらぬamazarashiのライブだなということを感じさせる。
開演前にはステージ前に貼られた紗幕に文章が次々に映し出されていたのだが、19時を少し過ぎたあたりで場内が暗転すると、幕の向こうにいるであろう秋田がその開演前に映し出されていた文書を朗読し始める。
「勉強は向いていない」「スポーツは向いていない」
などの幼少期から
「詐欺まがいのレーベルに金銭を要求され」「予定していたはずのリリースはなくなり」
などのミュージシャンになってからのものまで、これがリアルならばあまりにもキツすぎるような記憶の数々。その朗読の主が暮らしているであろう薄暗い部屋が映像として映し出されるのもamazarashiのライブではおなじみである。
朗読が終わって紗幕にはアーティストロゴが映し出されると、
「ロストボーイズツアー東京、青森から来ました、amazarashiです!」
と秋田が力強く挨拶して、バンドの鳴らす音に秋田のポエトリーリーディング的な歌唱が乗るアルバムのオープニングナンバー「感情道路七号線」からスタート。紗幕には歌詞が次々に映し出されていき、薄ぼんやりと紗幕の向こう側に見えるメンバーの演奏にもその歌詞の映像にも視線が向く。豊川真奈美(キーボード)に加えて井手上誠(ギター)らおなじみのサポートメンバーが今もずっと音を鳴らしてくれているというのはどこか安心感を感じる。
そのまま「火種」へと至るというのはアルバムの収録曲順通りであるが、ポエトリー的ではない曲だからこそ秋田のボーカルの声量の大きさとその声の迫力に圧倒されてしまう。ツアーが延期になってしまった体調不良の理由は詳しくはわからないけれど、むしろ歌唱、パフォーマンスはこれまでよりもパワーアップしている感すらある。
その歌唱によって紗幕に映し出される歌詞の数々もさらに強い説得力を感じさせるとともに1語1語、1フレーズ1フレーズがより深く刺さってくる。それは前回のツアーまではアニメーションの映像も流れていた「境界線」が歌詞が映し出されるのみというシンプルなものに変わっているというところからも感じられるのであるが、秋田の歌唱も素晴らしいがバンドの鳴らす轟音のロックサウンドも凄まじい迫力をもってこの会場内に響いている。観客はずっと座ったままであるが、見ていて感情が沸々と湧き上がってくるのが自分でもわかる。それは他の観客もきっと同じだったと思う。
歌詞が映し出されることによって次々と押し寄せる言葉の中で
「少年は闇の中 金属バットやカッター ナイフとかハサミでは
切り裂けない夜がある」
というフレーズにハッとさせられるのはアルバムタイトル曲と言っていい「ロストボーイズ」であるが、今回のアルバムは冒頭の朗読や曲の合間合間に挟まれる朗読も含めて秋田の人生を辿るような内容になっている。それが全てリアルなものだったのかどうかはわからないが、聴いているとリアルとしか思えないような切迫感を感じるのだ。それはステージ前に貼られた紗幕とステージ背面のスクリーンの両方に文字が映し出されることによって、かつて3Dメガネをつけて鑑賞していたライブを行った時のように言葉が立体感を持って迫ってくるから感じることができるものなのかもしれない。
ステージ前に貼られていた紗幕が一旦上方に迫り上がっていき、よりハッキリとメンバーの姿が見えるようになった中で演奏されたのは「間抜けなニムロド」と、ここまでは全てアルバムの曲順通りに演奏されているのだが、歌詞とともに神秘的な空間内にいることを思わせるような図形が次々に背面のスクリーンに映し出されると、ステージ前に貼られている薄い紗幕(まさかの2層構成)にもそうした図形が映し出され、前後で重なることによってより立体的に感じられる。秋田の歌唱も張り上げるというよりも低いトーンを活かした、語りかけるようなものになっているのが秋田がニムロドなる人物に向けて歌っている、話しているかのような感覚になる。
秋田による、鉄道模型が部屋の中を走るような映像とともに口にされる自身の過去の記憶を辿るような朗読から不穏な同期のリズムが流れて演奏されたのは過去作からの「空洞空洞」であるのだが、その朗読しかりここまでの曲しかり、秋田のamazarashiに至るまでの人生の叙述が空洞であるように感じられるからこそ、この曲がこうしてここで演奏されることが必然であるかのように響く。一つの大きな物語を作ってその物語を構成する曲を演奏するというような過去ほどの強いコンセプトはないライブではあるが、それでもやはりこうして過去曲が然るべき場所に置かれて演奏されることによって確かな一本の芯を感じられる。タイトルに合わせて「空」という文字が次々に映し出された時には「空っぽの空に潰される」が演奏されるのかなとも思ったけれど。
そんな中で背面のスクリーンにも赤い幕がかかる。つまりは映像の使用を抑えた中で、その幕の前には蝋燭のような灯りが灯される。それはかつてのライブで言うなら「カルマ」を演奏する時のような演出であるのだが、今回その演出で披露されたのはかつて中島美嘉に提供した曲のセルフカバーである「僕が死のうと思ったのは」。映像も演出もないからこそハッキリと見える(さすがに薄暗いだけに秋田と豊川の顔は見えないけれど)メンバーの演奏する姿。歌詞から想像できる情景。タイトルだけ見ると絶望の曲であるし、最初はそうした歌詞が続くのであるが最後には
「僕が死のうと思ったのは まだあなたに出会ってなかったから
あなたのような人が生まれた 世界を少し好きになったよ
あなたのような人が生きてる 世界に少し期待するよ」
という最後の歌詞によって希望へと反転する。その「あなた」が秋田にとっては一緒に音を鳴らすメンバーだったり、目の前にいる我々であってくれたら幸せだと思うし、我々にとってはこうした歌を作ってくれる秋田こそがそうした存在なのだ。そう思えるような感受性がある人たちがamazarashiのライブには集まっているからこそ、曲が終わった後にはすすり泣くような音が聞こえてきていた。その音によって、世間的に見たらダメな人間の集まりかもしれないけれど、でもamazarashiとその音楽を愛する人たちは慈愛に満ちた人間だと思える。
そんな死のうと思った僕が成長して社会人になって、上手くいかない日々を生きているようなアニメーションが映し出されるのは「あんたへ」。希望を持っていた幼少期の記憶を思い返しながら、そうした日々を生きながらも前に進んでいくというストーリーが描かれるのであるが、時折映し出される秋田の歌唱する姿(やっぱり顔はハッキリとは見えない)はその主人公に、つまりは我々一人一人の「あんた」へと語りかけるように歌っている。
「はやく 涙拭けよ 笑い飛ばそう 僕らの過去
そうだろう 今辛いのは 戦ってるから 逃げないから
そんな あんたを 責めることができる奴なんてどこにも いないんだぜ」
という歌詞はかつて秋田がライブのMCで「「amazarashiの音楽は負け組の音楽」って言われたこともあったけど、負け組なんて言わせないから」と言ってくれたことを思い出す。思えばamazarashiはずっとそうした秋田自身のような存在である我々に向けて歌い続けてきたのかもしれないとも思う。つまりアニメーションの主人公は秋田自身でもあり我々自身でもあるということだ。
そんな空気が一変するのは今や初期の曲と言ってもいい「夏を待っていました」であり、スクリーンにはかつてのamazarashiのマスコットキャラクター的な存在のMVが映し出されるのであるが、今こうして最新曲たちとの並びでこの曲を聴くと歌詞などが今よりもはるかに剥き出しだと思える。それはきっと今ではもう書くことができないものでもあると思うのだが、そうした時期の曲だからこそ、冒頭に感じた秋田の歌唱のパワーアップっぷりを感じられる曲でもある。もう夏はとっくに過ぎ去ったからこそ、この曲で描かれている幼少期を思い出すようにまた次の夏を待つような。この時期に聴くこの曲はそんなことを感じさせてくれる。
これまでのアルバムにもそうした曲は多々あったけれど、「七号線ロストボーイズ」はこれまで以上に秋田の見てきたであろう景色や過去の記憶を歌詞にしている曲が多いというイメージであり、それは「戸山団地のレインボー」という、おそらくは秋田がかつて住んでいたであろう団地名をそのままタイトルにしたような曲からも顕著だ。もちろんスクリーンには団地やその近隣を思わせるようなデジタルな映像が映し出されるのであるが、最初は無色や単色だった映像が曲が進むにつれてタイトル通りに色彩を纏って七色に変化していく。曲が始まる前には秋田による
「あれはまだ引っ越したばかりだった…」
という朗読もあったのだが、この団地に引っ越してきた当時は
「戸山団地のレインボー あれはまだ引っ越したばっかで
夢見てた成功 希望を足せば僕だけの色彩」
という締めの歌詞の通りにまだこの場所に住んでいた頃は希望に満ち溢れていたりしたのだろうか。
するとステージ前の紗幕には漢数字が次々に映し出されていく。その時点で「まさかな…」と思っていたのだが、その予感は的中したというのは演奏されたのが「数え歌」だったからである。この曲はコンセプトアルバムでありライブの「虚無病」のアナザーストーリーで登場人物のサラという少女が歌っていた劇中歌であり(そのサラボーカルバージョンも素晴らしいものだった)、のちにシングル「命にふさわしい」のカップリングに秋田ひろむ歌唱バージョンが収録された曲。なんでこんな超名曲がカップリングになるんだ、と当時は思っていたがそう思っていたのは間違いじゃなかったということが今こうして5年ほど経って聞いてもわかる。
この日はそんな超名曲が「漢数字の漢字の成り立ちはこうしたものだったのかもしれない」と思うように文字が次の歌詞の文字へ変化していくという形の演出で演奏されるのであるが、自分が「虚無病」のストーリーやそのライブを今でもまだ鮮明に覚えているということを差し置いても、秋田のファルセットも使ったメロディの起伏も含めてとんでもなく美しい曲だからこそ、こうして感情が溢れ出てくる。この曲をTHE FIRST TAKEなどでまた披露して欲しいなと思うくらいに、隠れさせておくにはあまりに勿体なすぎる名曲である。
そんな名曲を今になって聴けるとは、という余韻に浸る間に新作から「アオモリオルタナティブ」が演奏される。秋田が地元の青森でバンドを始めた時の景色や心境を綴った歌詞と、それをそのまま可視化したかのような街の映像が完璧にマッチしている。でもそれがただ過去を懐かしんでいるだけのものではなく、
「いつかこの歌の答え合わせしようぜ 僕らはずっと途中」
という歌詞で締められるのはずっと地続きで現在進行形であるということだ。それは懐かしい街というよりもどこか「青森なんだろうか?」と思ってしまうくらいに整備された街並みの映像が映るからこそ感じられるものでもある。
すると秋田は「部屋に閉じこもって」的な朗読を読む。その瞬間にステージ背面には一瞬だけ爆弾のオブジェがあったように見えたのだがそれは自分の錯覚や幻覚だったのだろうか。そう思うのは「爆弾の作り方」が演奏され始めた時にはそのオブジェはすっかりなくなっており、普段のライブと同様の映像が映し出されていたからだ。
「行き場のないイノセンス」
「ひび割れたイノセンス」
という方向を間違えた衝動のようなものは確かに「七号線ロストボーイズ」に繋がるものでもあるけれど。
そんな空気を一閃するかのように、虚実を切り裂くように青空が広がり、秋田の伸びやかかつ高らかなボーカルが響き渡るのはもちろん「空に唄えば」であり、タイトルフレーズのコーラスを務める豊川の透明感のある澄んだ歌声を最も感じられる曲でもあるが、やはりこの曲が演奏されることによって自暴自棄や諦念といった絶望の類いだけを歌うのではなくて、amazarashiがその先にある希望や光を歌っているのだと実感できる。
この曲がタイアップに起用されたアニメ「僕のヒーローアカデミア」には今は秋山黄色とSUPER BEAVERという自分が好きなアーティストが主題歌を務めている。なので現クールの話は全て視聴しているのだが、この曲や米津玄師、さユりといったあたりの自分が好きなアーティストの曲が起用されていた頃は全然ちゃんと見ていなかった。きっとリアルタイムでアニメを見ていたらもっとこの曲への思い入れは強くなっていたはずだ。そう思うと今になってもやはり後悔してしまうことばかりだ。amazarashiがそう歌っている曲たちのように。
そうしてライブは、物語はクライマックスへ向かっていく。「0.6」というamazarashiが世に出現した作品のタイトルとマスコットキャラクター、さらには今までに発表してきた名曲の数々の歌詞の一部がスクリーンには所狭しと映し出される。その歌詞がどの曲のものかということに思いを馳せながら、そうした過去の歌詞を塗り潰すように新たな歌詞が被さっていくのは「0.6」の先を歌った最新作収録の「1.0」。
「あれから色々あったけど こちらは変わらずにいます いつも手紙感謝します
少なくともあなたは1です 僕にとってあなたは1です」
という歌詞で始まり、
「「どうにかなるさ」って言える あなたにとっての1が
見つかりますように 見つかりますように」
という歌詞で終わる。そこに至るまでに尽くされた言葉と文章の数々。それを聴いていると我々にとっての「1」は今こうして目の前に存在してくれているんだなと思う。それを誰もがわかっていたからこそ、もうこのまま鳴り止まないんじゃないかと思うくらいに長くて大きな拍手が演奏後に響いていた。その観客のリアクションが全てを示していた。やはり我々には、自分にはまだまだamazarashiの音楽が必要であると。あまりに集大成的な曲過ぎてもう活動が終わってしまうんじゃないかと思うくらいだからこそ、そんなことを思うのである。
しかし秋田は
「「七号線ロストボーイズ」っていうアルバムは道標みたいなものになって欲しいっていう思いを持って作りました。それを持ってツアーに出たんですが、体調を崩して延期になってしまって、皆さんには本当にご迷惑をおかけしました。
こんなわいから皆さんに言えることは何もないんですが、あなたにとっての1が見つかりますように」
と口にした。それはまだまだamazarashiとして生きていくということだ。そんな言葉の後の「スターライト」の煌めくようなバンドサウンドと光の粒が飛び交うような映像は紛れもなく人間の生命の光そのものだった。秋田の歌唱もやはり復活してさらにパワーアップしているということをこの終盤に来てさらに感じられるくらいに力強い。体調を崩した期間にどんなことを思って、どう生活していたんだろうか。そんなことを想像してしまうくらいの強さだ。そんな秋田の姿や歌唱、バンドの音によるこの「スターライト」がこれから先の日常や生活を生きていくための力や光になる。その思いは今まで1番強くなっている。
そして最後に演奏されたのは「七号線ロストボーイズ」を締める曲である「空白の車窓から」。電車の座席から始まり、車窓から外を眺める景色、あるいは車で高速道路を走る景色。そうした映像が次々に映し出されていく。それは歌詞も含めて旅の風景と言えるものであり、amazarashiがこれからもそうして旅をして生きていくという意思の表れだと感じていた。
「さよならまたねと別れたから 今日も会いに来たよ
ただそれだけ」
と締められるように、こうして会いに来た。演奏後に秋田は
「青森から来た、amazarashiでした!」
と叫んだ。それはさよならの合図だった。ということはまたこうして会うことができるということだ。今年は久しぶりにCOUNTDOWN JAPANでもライブを見ることができるのも、amazarashiが我々に会いに来てくれるから。
ライブではおなじみのこのライブのハイライトと言える曲なり新曲なりが流れる終演後の余韻タイムはこの日はなかったけれど、それはまたすぐにamazarashiの音を生で聴くことができるからだと思っている。
ただひたすらに座って観て、音を聴く。それはライブというよりも鑑賞というような感じもするけれど、やっぱりamazarashiのこれはライブだ。そこに生だから、今目の前で音を鳴らしているからこその感情が確かにあって、それを聴く、見ることによって我々の感情が動く、つまりは生きているということを感じることができるから。中二でもないし絶望したり死にたくなるようなことばかりの人生ではないけれど、それでもまだ自分はamazarashiの音楽を必要としているし、これからもそうだろう。それはこんなにも心が、感情が音楽によって動くということを感じさせてくれるからだ。
1.感情道路七号線
2.火種
3.境界線
4.ロストボーイズ
5.間抜けなニムロド
6.空洞空洞
7.僕が死のうと思ったのは
8.あんたへ
9.夏を待っていました
10.戸山団地のレインボー
11.数え歌
12.アオモリオルタナティブ
13.爆弾の作り方
14.空に歌えば
15.1.0
16.スターライト
17.空白の車窓から
早めにガーデンシアターに到着すると、会場隣の商業施設の中ではこの日のライブに合わせてひたすらamazarashiが流れているというのはなんだかファンの1人として「すいません…」という気持ちになってしまう。それくらいにこれだけ一日中amazarashiが流れているとどこか陰鬱な気持ちになってしまいそうだからだ。
そうしてガーデンシアターの場内に入場すると、amazarashiのライブではいつもの通りの全席指定であり、なおかつ着席指定であることが周知されている。なかなかamazarashiのライブで立ち上がる人はいないだろうけれど、それが変わらぬamazarashiのライブだなということを感じさせる。
開演前にはステージ前に貼られた紗幕に文章が次々に映し出されていたのだが、19時を少し過ぎたあたりで場内が暗転すると、幕の向こうにいるであろう秋田がその開演前に映し出されていた文書を朗読し始める。
「勉強は向いていない」「スポーツは向いていない」
などの幼少期から
「詐欺まがいのレーベルに金銭を要求され」「予定していたはずのリリースはなくなり」
などのミュージシャンになってからのものまで、これがリアルならばあまりにもキツすぎるような記憶の数々。その朗読の主が暮らしているであろう薄暗い部屋が映像として映し出されるのもamazarashiのライブではおなじみである。
朗読が終わって紗幕にはアーティストロゴが映し出されると、
「ロストボーイズツアー東京、青森から来ました、amazarashiです!」
と秋田が力強く挨拶して、バンドの鳴らす音に秋田のポエトリーリーディング的な歌唱が乗るアルバムのオープニングナンバー「感情道路七号線」からスタート。紗幕には歌詞が次々に映し出されていき、薄ぼんやりと紗幕の向こう側に見えるメンバーの演奏にもその歌詞の映像にも視線が向く。豊川真奈美(キーボード)に加えて井手上誠(ギター)らおなじみのサポートメンバーが今もずっと音を鳴らしてくれているというのはどこか安心感を感じる。
そのまま「火種」へと至るというのはアルバムの収録曲順通りであるが、ポエトリー的ではない曲だからこそ秋田のボーカルの声量の大きさとその声の迫力に圧倒されてしまう。ツアーが延期になってしまった体調不良の理由は詳しくはわからないけれど、むしろ歌唱、パフォーマンスはこれまでよりもパワーアップしている感すらある。
その歌唱によって紗幕に映し出される歌詞の数々もさらに強い説得力を感じさせるとともに1語1語、1フレーズ1フレーズがより深く刺さってくる。それは前回のツアーまではアニメーションの映像も流れていた「境界線」が歌詞が映し出されるのみというシンプルなものに変わっているというところからも感じられるのであるが、秋田の歌唱も素晴らしいがバンドの鳴らす轟音のロックサウンドも凄まじい迫力をもってこの会場内に響いている。観客はずっと座ったままであるが、見ていて感情が沸々と湧き上がってくるのが自分でもわかる。それは他の観客もきっと同じだったと思う。
歌詞が映し出されることによって次々と押し寄せる言葉の中で
「少年は闇の中 金属バットやカッター ナイフとかハサミでは
切り裂けない夜がある」
というフレーズにハッとさせられるのはアルバムタイトル曲と言っていい「ロストボーイズ」であるが、今回のアルバムは冒頭の朗読や曲の合間合間に挟まれる朗読も含めて秋田の人生を辿るような内容になっている。それが全てリアルなものだったのかどうかはわからないが、聴いているとリアルとしか思えないような切迫感を感じるのだ。それはステージ前に貼られた紗幕とステージ背面のスクリーンの両方に文字が映し出されることによって、かつて3Dメガネをつけて鑑賞していたライブを行った時のように言葉が立体感を持って迫ってくるから感じることができるものなのかもしれない。
ステージ前に貼られていた紗幕が一旦上方に迫り上がっていき、よりハッキリとメンバーの姿が見えるようになった中で演奏されたのは「間抜けなニムロド」と、ここまでは全てアルバムの曲順通りに演奏されているのだが、歌詞とともに神秘的な空間内にいることを思わせるような図形が次々に背面のスクリーンに映し出されると、ステージ前に貼られている薄い紗幕(まさかの2層構成)にもそうした図形が映し出され、前後で重なることによってより立体的に感じられる。秋田の歌唱も張り上げるというよりも低いトーンを活かした、語りかけるようなものになっているのが秋田がニムロドなる人物に向けて歌っている、話しているかのような感覚になる。
秋田による、鉄道模型が部屋の中を走るような映像とともに口にされる自身の過去の記憶を辿るような朗読から不穏な同期のリズムが流れて演奏されたのは過去作からの「空洞空洞」であるのだが、その朗読しかりここまでの曲しかり、秋田のamazarashiに至るまでの人生の叙述が空洞であるように感じられるからこそ、この曲がこうしてここで演奏されることが必然であるかのように響く。一つの大きな物語を作ってその物語を構成する曲を演奏するというような過去ほどの強いコンセプトはないライブではあるが、それでもやはりこうして過去曲が然るべき場所に置かれて演奏されることによって確かな一本の芯を感じられる。タイトルに合わせて「空」という文字が次々に映し出された時には「空っぽの空に潰される」が演奏されるのかなとも思ったけれど。
そんな中で背面のスクリーンにも赤い幕がかかる。つまりは映像の使用を抑えた中で、その幕の前には蝋燭のような灯りが灯される。それはかつてのライブで言うなら「カルマ」を演奏する時のような演出であるのだが、今回その演出で披露されたのはかつて中島美嘉に提供した曲のセルフカバーである「僕が死のうと思ったのは」。映像も演出もないからこそハッキリと見える(さすがに薄暗いだけに秋田と豊川の顔は見えないけれど)メンバーの演奏する姿。歌詞から想像できる情景。タイトルだけ見ると絶望の曲であるし、最初はそうした歌詞が続くのであるが最後には
「僕が死のうと思ったのは まだあなたに出会ってなかったから
あなたのような人が生まれた 世界を少し好きになったよ
あなたのような人が生きてる 世界に少し期待するよ」
という最後の歌詞によって希望へと反転する。その「あなた」が秋田にとっては一緒に音を鳴らすメンバーだったり、目の前にいる我々であってくれたら幸せだと思うし、我々にとってはこうした歌を作ってくれる秋田こそがそうした存在なのだ。そう思えるような感受性がある人たちがamazarashiのライブには集まっているからこそ、曲が終わった後にはすすり泣くような音が聞こえてきていた。その音によって、世間的に見たらダメな人間の集まりかもしれないけれど、でもamazarashiとその音楽を愛する人たちは慈愛に満ちた人間だと思える。
そんな死のうと思った僕が成長して社会人になって、上手くいかない日々を生きているようなアニメーションが映し出されるのは「あんたへ」。希望を持っていた幼少期の記憶を思い返しながら、そうした日々を生きながらも前に進んでいくというストーリーが描かれるのであるが、時折映し出される秋田の歌唱する姿(やっぱり顔はハッキリとは見えない)はその主人公に、つまりは我々一人一人の「あんた」へと語りかけるように歌っている。
「はやく 涙拭けよ 笑い飛ばそう 僕らの過去
そうだろう 今辛いのは 戦ってるから 逃げないから
そんな あんたを 責めることができる奴なんてどこにも いないんだぜ」
という歌詞はかつて秋田がライブのMCで「「amazarashiの音楽は負け組の音楽」って言われたこともあったけど、負け組なんて言わせないから」と言ってくれたことを思い出す。思えばamazarashiはずっとそうした秋田自身のような存在である我々に向けて歌い続けてきたのかもしれないとも思う。つまりアニメーションの主人公は秋田自身でもあり我々自身でもあるということだ。
そんな空気が一変するのは今や初期の曲と言ってもいい「夏を待っていました」であり、スクリーンにはかつてのamazarashiのマスコットキャラクター的な存在のMVが映し出されるのであるが、今こうして最新曲たちとの並びでこの曲を聴くと歌詞などが今よりもはるかに剥き出しだと思える。それはきっと今ではもう書くことができないものでもあると思うのだが、そうした時期の曲だからこそ、冒頭に感じた秋田の歌唱のパワーアップっぷりを感じられる曲でもある。もう夏はとっくに過ぎ去ったからこそ、この曲で描かれている幼少期を思い出すようにまた次の夏を待つような。この時期に聴くこの曲はそんなことを感じさせてくれる。
これまでのアルバムにもそうした曲は多々あったけれど、「七号線ロストボーイズ」はこれまで以上に秋田の見てきたであろう景色や過去の記憶を歌詞にしている曲が多いというイメージであり、それは「戸山団地のレインボー」という、おそらくは秋田がかつて住んでいたであろう団地名をそのままタイトルにしたような曲からも顕著だ。もちろんスクリーンには団地やその近隣を思わせるようなデジタルな映像が映し出されるのであるが、最初は無色や単色だった映像が曲が進むにつれてタイトル通りに色彩を纏って七色に変化していく。曲が始まる前には秋田による
「あれはまだ引っ越したばかりだった…」
という朗読もあったのだが、この団地に引っ越してきた当時は
「戸山団地のレインボー あれはまだ引っ越したばっかで
夢見てた成功 希望を足せば僕だけの色彩」
という締めの歌詞の通りにまだこの場所に住んでいた頃は希望に満ち溢れていたりしたのだろうか。
するとステージ前の紗幕には漢数字が次々に映し出されていく。その時点で「まさかな…」と思っていたのだが、その予感は的中したというのは演奏されたのが「数え歌」だったからである。この曲はコンセプトアルバムでありライブの「虚無病」のアナザーストーリーで登場人物のサラという少女が歌っていた劇中歌であり(そのサラボーカルバージョンも素晴らしいものだった)、のちにシングル「命にふさわしい」のカップリングに秋田ひろむ歌唱バージョンが収録された曲。なんでこんな超名曲がカップリングになるんだ、と当時は思っていたがそう思っていたのは間違いじゃなかったということが今こうして5年ほど経って聞いてもわかる。
この日はそんな超名曲が「漢数字の漢字の成り立ちはこうしたものだったのかもしれない」と思うように文字が次の歌詞の文字へ変化していくという形の演出で演奏されるのであるが、自分が「虚無病」のストーリーやそのライブを今でもまだ鮮明に覚えているということを差し置いても、秋田のファルセットも使ったメロディの起伏も含めてとんでもなく美しい曲だからこそ、こうして感情が溢れ出てくる。この曲をTHE FIRST TAKEなどでまた披露して欲しいなと思うくらいに、隠れさせておくにはあまりに勿体なすぎる名曲である。
そんな名曲を今になって聴けるとは、という余韻に浸る間に新作から「アオモリオルタナティブ」が演奏される。秋田が地元の青森でバンドを始めた時の景色や心境を綴った歌詞と、それをそのまま可視化したかのような街の映像が完璧にマッチしている。でもそれがただ過去を懐かしんでいるだけのものではなく、
「いつかこの歌の答え合わせしようぜ 僕らはずっと途中」
という歌詞で締められるのはずっと地続きで現在進行形であるということだ。それは懐かしい街というよりもどこか「青森なんだろうか?」と思ってしまうくらいに整備された街並みの映像が映るからこそ感じられるものでもある。
すると秋田は「部屋に閉じこもって」的な朗読を読む。その瞬間にステージ背面には一瞬だけ爆弾のオブジェがあったように見えたのだがそれは自分の錯覚や幻覚だったのだろうか。そう思うのは「爆弾の作り方」が演奏され始めた時にはそのオブジェはすっかりなくなっており、普段のライブと同様の映像が映し出されていたからだ。
「行き場のないイノセンス」
「ひび割れたイノセンス」
という方向を間違えた衝動のようなものは確かに「七号線ロストボーイズ」に繋がるものでもあるけれど。
そんな空気を一閃するかのように、虚実を切り裂くように青空が広がり、秋田の伸びやかかつ高らかなボーカルが響き渡るのはもちろん「空に唄えば」であり、タイトルフレーズのコーラスを務める豊川の透明感のある澄んだ歌声を最も感じられる曲でもあるが、やはりこの曲が演奏されることによって自暴自棄や諦念といった絶望の類いだけを歌うのではなくて、amazarashiがその先にある希望や光を歌っているのだと実感できる。
この曲がタイアップに起用されたアニメ「僕のヒーローアカデミア」には今は秋山黄色とSUPER BEAVERという自分が好きなアーティストが主題歌を務めている。なので現クールの話は全て視聴しているのだが、この曲や米津玄師、さユりといったあたりの自分が好きなアーティストの曲が起用されていた頃は全然ちゃんと見ていなかった。きっとリアルタイムでアニメを見ていたらもっとこの曲への思い入れは強くなっていたはずだ。そう思うと今になってもやはり後悔してしまうことばかりだ。amazarashiがそう歌っている曲たちのように。
そうしてライブは、物語はクライマックスへ向かっていく。「0.6」というamazarashiが世に出現した作品のタイトルとマスコットキャラクター、さらには今までに発表してきた名曲の数々の歌詞の一部がスクリーンには所狭しと映し出される。その歌詞がどの曲のものかということに思いを馳せながら、そうした過去の歌詞を塗り潰すように新たな歌詞が被さっていくのは「0.6」の先を歌った最新作収録の「1.0」。
「あれから色々あったけど こちらは変わらずにいます いつも手紙感謝します
少なくともあなたは1です 僕にとってあなたは1です」
という歌詞で始まり、
「「どうにかなるさ」って言える あなたにとっての1が
見つかりますように 見つかりますように」
という歌詞で終わる。そこに至るまでに尽くされた言葉と文章の数々。それを聴いていると我々にとっての「1」は今こうして目の前に存在してくれているんだなと思う。それを誰もがわかっていたからこそ、もうこのまま鳴り止まないんじゃないかと思うくらいに長くて大きな拍手が演奏後に響いていた。その観客のリアクションが全てを示していた。やはり我々には、自分にはまだまだamazarashiの音楽が必要であると。あまりに集大成的な曲過ぎてもう活動が終わってしまうんじゃないかと思うくらいだからこそ、そんなことを思うのである。
しかし秋田は
「「七号線ロストボーイズ」っていうアルバムは道標みたいなものになって欲しいっていう思いを持って作りました。それを持ってツアーに出たんですが、体調を崩して延期になってしまって、皆さんには本当にご迷惑をおかけしました。
こんなわいから皆さんに言えることは何もないんですが、あなたにとっての1が見つかりますように」
と口にした。それはまだまだamazarashiとして生きていくということだ。そんな言葉の後の「スターライト」の煌めくようなバンドサウンドと光の粒が飛び交うような映像は紛れもなく人間の生命の光そのものだった。秋田の歌唱もやはり復活してさらにパワーアップしているということをこの終盤に来てさらに感じられるくらいに力強い。体調を崩した期間にどんなことを思って、どう生活していたんだろうか。そんなことを想像してしまうくらいの強さだ。そんな秋田の姿や歌唱、バンドの音によるこの「スターライト」がこれから先の日常や生活を生きていくための力や光になる。その思いは今まで1番強くなっている。
そして最後に演奏されたのは「七号線ロストボーイズ」を締める曲である「空白の車窓から」。電車の座席から始まり、車窓から外を眺める景色、あるいは車で高速道路を走る景色。そうした映像が次々に映し出されていく。それは歌詞も含めて旅の風景と言えるものであり、amazarashiがこれからもそうして旅をして生きていくという意思の表れだと感じていた。
「さよならまたねと別れたから 今日も会いに来たよ
ただそれだけ」
と締められるように、こうして会いに来た。演奏後に秋田は
「青森から来た、amazarashiでした!」
と叫んだ。それはさよならの合図だった。ということはまたこうして会うことができるということだ。今年は久しぶりにCOUNTDOWN JAPANでもライブを見ることができるのも、amazarashiが我々に会いに来てくれるから。
ライブではおなじみのこのライブのハイライトと言える曲なり新曲なりが流れる終演後の余韻タイムはこの日はなかったけれど、それはまたすぐにamazarashiの音を生で聴くことができるからだと思っている。
ただひたすらに座って観て、音を聴く。それはライブというよりも鑑賞というような感じもするけれど、やっぱりamazarashiのこれはライブだ。そこに生だから、今目の前で音を鳴らしているからこその感情が確かにあって、それを聴く、見ることによって我々の感情が動く、つまりは生きているということを感じることができるから。中二でもないし絶望したり死にたくなるようなことばかりの人生ではないけれど、それでもまだ自分はamazarashiの音楽を必要としているし、これからもそうだろう。それはこんなにも心が、感情が音楽によって動くということを感じさせてくれるからだ。
1.感情道路七号線
2.火種
3.境界線
4.ロストボーイズ
5.間抜けなニムロド
6.空洞空洞
7.僕が死のうと思ったのは
8.あんたへ
9.夏を待っていました
10.戸山団地のレインボー
11.数え歌
12.アオモリオルタナティブ
13.爆弾の作り方
14.空に歌えば
15.1.0
16.スターライト
17.空白の車窓から
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