ASIAN KUNG-FU GENERATION Tour 2022 「プラネットフォークス」 @日比谷野外大音楽堂 7/23
- 2022/07/24
- 22:30
5月から始まったアジカンの「プラネットフォークス」のツアーもいよいよ前半戦のファイナルに。アジカンクラスのバンドがここまで?というくらいに細かく各地のホールを回ってきた一旦の終着点となるのが、この日の日比谷野音。
野外でアジカンのワンマンを見るのは2013年の9月に行われた横浜スタジアムでの2days以来であるが、野音ワンマンは実に17年ぶりだという。その頃にはすでに幕張メッセくらいじゃないと普通にチケットが取れないというくらいの存在になっていただけに、こうして野音でアジカンのワンマンが見れるのは信じられない気持ちもある。
先週の市川市文化会館の時は雨のビートが強く聞こえてくるくらいの雨模様だったのが、この日は残像が見えそうなくらいの夏の日っぷり。つまりは快晴によってめちゃくちゃ暑い。それもまた、あの横浜スタジアムの時もめちゃくちゃ暑かったな…と思い出させてくれる。
まだかなり明るいというか、昼間のような青空が広がってすらいる18時に最初にサポートメンバーの1人であるGeorge(Mop Of Head)がステージに登場すると、SEが場内に響いてもう1人のサポートメンバーであるachicoとともにメンバー4人がステージに現れるのだが、ホールの時と異なるのはステージの形状故か、このツアーならではの演出である、メンバーそれぞれを囲むような枠がステージ背面の壁前に重なっており、つまりメンバーは枠の中に止まらない状態に最初からなっている。なのでホールではサポートメンバーも階段を登った2階的な高所にいたのだが、この日はメンバーとほぼ同じ高さ(ちょっとだけ高い)という並びに。それでも全体がよく見えるのはステージに向かってすり鉢状に低くなっていくという野音の客席の形状ならではである。
そんなステージの違いはあるとはいえ、同じツアーなので流れ自体は変わらないので、そこはすでに参加した2公演のレポも参照していただきたい。
5/28 三郷市文化会館
(http://rocknrollisnotdead.jp/blog-entry-1048.html?sp)
7/15 市川市文化会館
(http://rocknrollisnotdead.jp/blog-entry-1070.html?sp)
そんなステージの違いは、メンバーを取り囲んでいた枠がそのまま照明も兼ねていただけに演出の違いとなって現れるのであるが、そもそも前半はまだ空が明るいだけに照明などの光がほとんど効果を発揮せず(だからそうした演出ありきのライブをやるサカナクションなどは野音ではワンマンをやらない)、バンドの演奏の肉体的な強さ自体が問われるのであるが、そこは市川のライブでも感じた通りにアジカンほどのキャリアを持つバンドであってもツアーを経てさらに進化したグルーヴとアンサンブルだけで充分ライブの良さを堪能できるというか、そもそもアジカンはそうした楽曲の良さとライブの良さを最大限に持ち合わせているバンドだからこそ、今なおこうして野音が即完するくらいの巨大な存在であり続けることができているというのがよくわかる。
市川の時は歌詞というかボーカルがほんの少し飛んでいたというか、イヤモニの調子を少し気にしていたように見えた立ち上がりの「De Arriba」もこの日はそんなこともなく、ゴッチ(ボーカル&ギター)のファルセットボーカルが反響のない、あるとすれば蝉の鳴き声が聞こえるので「夏蝉」を久しぶりに聴きたくなるような野音に広がっていくと、「センスレス」ではachicoとGeorgeのサポート2人がリズムに合わせて手拍子をするのがツアーを重ねるたびに楽しそうな表情になっている。それはメンバー4人だけではなくてサポートの2人もツアーを経てよりアジカンのメンバーになってきているということであり、その2人に合わせて客席にも手拍子が広がっていく。我らのギターヒーロー・喜多建介も満面の笑みを浮かべてギターを弾いているし、枠がないことによって序盤からガンガンステージ前に出て行く姿が見れるというのは野音ならではと言えるかもしれない。
懐かしの「トラべログ」はこのツアーで毎回演奏されているようであるが、自分が見た2回では「プラネットフォークス」というアルバムタイトルに合わせてセトリに入れているのかと思っていた「惑星」を演奏していた4曲目が「ローリングストーン」に。国際フォーラムなどでもこちらを演奏していたようであるが、こちらはタイトルというよりもむしろ
「愛はないぜ 未来もない
気分はどう?
ローリングストーン」
という歌詞が今のこの状況に合わせたかのような選曲に思える。決して代表曲というわけでもないし、こうしてライブで演奏される機会もほとんどない曲だけれど、客席ではほぼ全員と言えるくらいにたくさんの人が腕を上げているというのはこの日の観客がアジカンの曲をどんなにマニアックなものでも聴き込んでいるというくらいに熱心なファンたちであるということを物語る光景である。
ゴッチがこのツアー最大の演出である枠がないことについて自身の口から語ると、いつものように
「誰の真似もせずに自由に楽しんで」
と観客に呼びかけてからの「You To You」では音源でROTH BART BARONの三船雅也が重ねていたハイトーンボーカルをachicoが担い、「エンパシー」「UCLA」ではGeorgeがキーボーディストとして椅子に座ってかつてシモリョーが担っていた鍵盤のフレーズを弾くという、このサポートメンバーたちがいることによってこのツアーが成り立っているということを感じさせてくれるような曲が続く。もちろん「UCLA」もしかりで音源に参加していたゲストが来てくれるのも嬉しいけれど、この編成での演奏もこのツアーでしか見ることができないものである。
喜多が間奏でステージ前に出てきてギターを弾き、さらには高く腕を掲げるというロックスターっぷりを遺憾なく発揮して観客から拍手を受けるのは伊地知潔(ドラム)による雄大なリズムの、アジカンほどのキャリアと技術があるからこそ説得力がある「ダイアローグ」であり、この曲では喜多とともに山田貴洋(ベース)もコーラスとしてゴッチのボーカルに自身の声を重ねていく。achicoという天使の歌声を持つサポートメンバーがいてもなおこうしてメンバーたちのコーラスが重要な役割を担っているというのは2人が演奏だけではなくそうした歌唱部分をも向上させてきたからである。
まだまだ空は明るいだけに光を放つようなステージからの光もホールほどの効果は発揮されていなかった「スローダウン」は、だからこそ曲の力、演奏の力のみで響かせるものになっており、今回のツアーで毎回演奏されてきたことによって、その力がはるかに進化を果たしているということがよくわかる。同時期に発表された「ローリングストーン」(ともに横浜スタジアムのワンマン2daysでダウンロードカードが配布されたのが初出)がロックアンセムと言っていいような曲であるだけに、どうしてもどちらかというと地味なイメージもあったのがこのツアーで完全に変わっているし、そうしてライブで進化を果たしたからこそ、やはりたくさんの人が腕を上げているという光景が広がっている。まさかこの曲がこんなにライブで映えまくるようになるなんて思ったこともなかった。それはこうしてライブで毎回演奏されるということがなかった曲だからであり、そうした名曲をアジカンは自身の手で今のライブを担う曲へと進化させたのである。
サポートも含めたメンバー紹介をすると、この野音でのワンマンが17年振りであることを口にし、その時は「Re:Re:」ツアーという急激に売れたことによってゴッチが1番病んでいた時期であるということも今では笑い話にすることができているのだが、その後に観客の1人がかなり大きな声で叫んだことに対してゴッチが
「今のはSNSとかだと荒れるやつだと思うから、みんなその思いを心の中で叫んでくれたら。いろんな考えの人がいるだろうけれど、このライブの時間だけは赦し合える、認め合えることができたらなと思います」
と、怒ったりしてもおかしくないところを実に優しく言葉にする。そう、ゴッチは優しいのである。ゴッチを批判したりするような奴もいるけれど、そういう奴なんかよりもゴッチの方が圧倒的に優しいと思っている。そういう奴に批判されるのも、我々の生活や生きている社会を少しでも良いもの、誰もが生きやすいものにしたいという思いがあった上で口にしたり行動したりしていることだからだ。なんならそうしたことを全く口にしたりしないことだってできるし、そうすれば何の批判も来ないだろうけれど、批判してくるやつがいたとしても責任と覚悟を持って口にしたり、行動したりする。それは優しさがなければ絶対にできないことだと思っている。
そんなMCの後には山田作曲による浮遊感がありながらもリズムが実に力強い「雨音」が演奏されるのであるが、この日が雨音が聞こえるような天候じゃなくて本当によかったと思うのはそうした天候に阻害されることなく演奏に集中力を向けられるからであるが、天候は良いとはいえ、空の色がこの辺りから少しずつ変化を見せ始め、少しオレンジ色を孕んだ青になり始めてくる。
そんないわゆる夕暮れ時からさらに夜に移行しようという時間帯の空色だったからこそ、ゴッチとachicoのデュエットという形での「触れたい 確かめたい」のサビの
「月まで伸びた光を追いかけて
闇を踏み抜いた 帰り道」
というフレーズが、月こそまだ見えないけれどこの上なくリアルな情景として至上の体験を与えてくれる。JAPAN JAMのトリとして夜に演奏されたこともあるけれど、こうして明るい時間から徐々に暗くなっていくというワンマンだからこその空色のグラデーションを見てきたことがより感動的に感じられるのである。
そうして暗くなってきたということは、明るい時間よりも照明が映えるようになったということで、ステージ上にいる6人それぞれにテーマカラーのような色の照明が当てられることで照明の鮮やかさを感じながら体を揺らすことができる「ラストダンスは悲しみをのせて」、一転して真っ暗な中で演奏が始まり、サビでスポットライトのようにメンバーに光が当てられるのが絶望から希望への浮上を視覚的に感じさせる「Gimme Hope」、さらにはゴッチがイントロのギターを鳴らしただけで思わず歓声が漏れて響いてしまうくらいにこの野音のシチュエーションで聴けるのをここにいた誰もが待ち焦がれていたであろう「ソラニン」も暗い中で微かにメンバーを照らす照明があるからこそ、曲に宿る切なさをより強く感じることができる。その照明によってシルエット的に視界に映るメンバーの演奏する姿が本当にカッコいいロックバンドのものだよなと思えるのだ。
しかしこの辺りの曲の流れはここまでのツアーとは全く変わることはない。それでもこの野音の空の色が変わってくる時間帯をメンバーやスタッフが熟知していて、その時間に合わせてこの曲たちが中盤以降に並ぶセトリを組んでいたかのようにこの日の空の変化に合わせたんじゃないかとすら思えてくる流れになっている。
それくらいに野音というたくさんの伝説やかつての悲劇など様々な歴史を持つこの場所が、アジカンがこうしてこのステージに戻ってきたのを祝福してくれているかのようですらあった。それこそ曲順が少し変わった「新世紀のラブソング」での枠が鮮やかに発光するような演出も、サビでの光が降り注ぐような照明と演奏も間違いなくもう完全に夜と言っていい暗さの空になったからこそ本領を発揮することができているものだ。そういう意味でもやっぱりアジカンは何か持っているというか、選ばれたバンドなんだなと思える。
それは「無限グライダー」「マーチングバンド」という後半に配された、深く潜り込んでからサビで一気に浮上して行くという曲からも感じられたものだったのだが、これらの曲のその深く潜り込んでいくという感覚も暗くなってきたからこそ得ることができるものであり、まだ明るかった前半に演奏していたらこうしたメロからサビでのメリハリを感じることはなかったであろう。そうした意味でもやはりこのセトリはこの日のためのものであったかのようであるし、市川では「サイレン」を演奏したのを「マーチングバンド」に戻したのも野音ならではの正解だと思える。
そしてゴッチがイントロでギターを爪弾くようにしてから歌い始める「荒野を歩け」が市川の時と同じようにさらにバンドのギアを1段階上げる曲として本当に大事な、アジカンのライブの核を担う曲になった。枠がなくなったことで喜多はギターソロではゴッチの方に寄らずにステージ前に出て弾くというシンプルな形にはなっていたが、それでもこの曲を演奏している時は伊地知と山田も顔を見合わせながら笑顔を浮かべていたり、Georgeも踊るように体を揺らしていたり、観客もachicoに合わせて手拍子をしなりと、メンバーと観客全員がこの曲、このライブを本当に楽しんでいるのがわかるし、この曲もまたMVが夜の街中でのものであるだけに、こうして暗くなった野音で聴くとライブ後に日比谷公園の中でスケボーを蹴りたくなるような。そんないつも通りに楽しいけれど、いつもとは違う「荒野を歩け」であった。
そんな楽しいアジカンのライブも、決してそうではない時もあった。それはゴッチも口にしていた「Re:Re:」ツアーの時もそうだったのだろうし、自分が1番「キツそうだな」と感じたのは「マジックディスク」のツアーで、柏、渋谷、Zepp Tokyoとそのツアーを見ていた時に、後にゴッチも口にしていたけれど、どこか「こなしている」というか長いツアーをなんとか消化しようとしているような感じがあった。
でも同じようにこうして長いツアー、各地を細かく回るツアーを行っていても、今のアジカンには全くそういう「こなしている」という感じはない。むしろどんなにすでに近い会場でライブをやっていても、1本1本のライブを大切にしてそこに全てを懸けるかのようなライブをしている。
それは震災でツアーが中止になってから、ライブをやれる喜びを7人編成の多幸感溢れるサウンドで示した「ランドマーク」ツアーから、最前線に立つバンドとして演出を進化させた「Wonder Future」ツアー、サウンドの刷新を果たした「ホームタウン」ツアー、そしてコロナ禍と周年ライブを経てのこのツアー。
今のアジカンには「やらされている」ことなど一つもない。全て自分たちが「こういうことをアジカンでやりたい」と思っていることをやっている。だからそれをやれている喜び、何よりもライブをできている喜びがステージから音や表情、パフォーマンスとして放たれている。そんな紆余曲折あって今の楽しさを感じさせてくれるアジカンの姿を見ていると、こちらまで楽しくなるし、幸せな気持ちになれる。セトリがそこまで変わらないのがわかっていても、ツアーに毎回何公演も行くのは今のアジカンのライブがそうしたものになっているからだ。それがそのまま「生きていて良かったな」という実感となり、またこうしてライブを見れるまで頑張ろうという活力に繋がっていく。ライブや音楽は自分にとっては他のどんなものよりもそうした力を与えてくれるものだし、きっとここにいたたくさんの人にとってもアジカンの音楽とライブがそうしたものになっているんだろうと思う。
そんなライブの喜びが衝動として音から溢れ出るのは、喜多がイントロで気合いを込めるように「セイッ!」と口にして演奏される「Standard」。夜の野外で照明に照らされながら聴くこの曲は、かつてリリース直後に対バンしたアナログフィッシュの佐々木健太郎が
「この曲がアジカンの中で1番好き。この曲は俺に向かって歌ってるから。それはみんな1人1人に向けて歌ってるってことだよ」
と言っていたように、今でも自分たち1人1人に向けて歌ってくれているように感じられる。
「誰にも見向きもされないまま
後ろ指さえ差されなくても」
という歌詞が、ゴッチが我々に「見つけてくれてありがとう」と言っているかのようだから。
そのゴッチは観客への感謝を言葉にするのだが、そのMCがかなり短いというか、本当に言うべきことだけを言うような感じにしているのはやはり市川の時にあまりにも喋りすぎたという反省からだろうか。あのMCもよりゴッチのボーカルを覚醒させるものとして無駄に長いだけではない役割を果たしていたとも思うのであるが、そんな中で最後に演奏された「解放区」はホールでのメンバーを囲む枠が上空に浮上していくというギミックこそないものの、
「高層ビル越しの斜陽」
で始まるゴッチのポエトリーリーディングで、まさにステージの後ろには高層ビルが並んでいる。その風景と、屋根も壁もない野音という会場がまさに最大の解放感を与えてくれる。だからこそ喜多がステージに膝をついてギターを弾くという熱演を見せる中、ホールの時以上にこの曲をみんなで一緒に歌いたいなと思った。それはこの日、この瞬間、この場所こそがアジカンを愛してきた我々にとっての解放区だったからだ。
アンコールではメンバー4人だけでステージに現れると、ゴッチは市川の時と同様に南相馬の酒造で酒麹に聞かせるために作った、自身が参加したアンビエントCDの告知をするのであるが、
「毎回ツアーで告知してきたから、このCDを作った借金が3桁から2桁になりました(笑)ソニーとかに切り捨てられなくて済むかな(笑)
こんな借金背負ったの、奨学金の時以来だよ(笑)全部返したけど」
という自虐的なMCに客席から拍手が起こっていたのは奨学金を返済したことに向けての拍手だったのだろうか。しかしそんなゴッチよりも金銭感覚がヤバい男がやはり喜多であり、
「建ちゃんは就職して給料貰えるようになったらすぐ後輩集めて酒飲ませて奢ったりしてて。だから月末に結局金ないみたいな(笑)金銭感覚ガバガバ過ぎて、母親が管理してたもんな(笑)そんな子でも野音のステージに立てます!」
と、観客に希望を与えるのかなんなのかよくわからない喜多のエピソードを明かすと、その頃に横浜の街スタジオで作ったという「君という花」を演奏。きっとこの曲は17年前もこの会場で演奏されていた曲だろうけれど、やっぱりそんなアジカンのアンセムであり続けてきた曲を野音という特別感のある場所で聴くことができるのは嬉しい。でもやっぱり「らっせーらっせー」を叫ぶことができないというのは心残りであるだけに、いつかまた声を出せるようなライブができるようになった時にはまた野音でワンマンをやって、この曲を演奏して欲しい。
そしてゴッチはこのライブが終わった後にシングルがリリースされる発表があるという、発表の発表をするのだが、その際に口にした
「4曲入りマキシシングル」
という単語はもはやアジカンよりさらに若い世代のバンドのライブでは絶対に通用しないものであろう。ゴッチは
「マキシって沖縄の人の苗字みたいだよね(笑)」
と自分でさらにボケを重ねていたが、そのマキシシングルに収録されるのは「サーフ ブンガク カマクラ」の完全版の核になるであろう「出町柳パラレルユニバース」を披露。
4人だけでの演奏ということからも「サーフ〜」のパワーポップサウンド路線が引き継がれているということはわかるのだが、最後に
「歌えよ ララルラ」
というフレーズのリフレインが続くというのは、同じタイアップの続編と言ってもいい「荒野を歩け」のセルフオマージュと言っていいだろう。何にせよシングル、そして来るべき「サーフ ブンガク カマクラ」の完全版が「プラネットフォークス」とは全く違うアジカンの音楽、作品になるというのがわかるだけにより一層楽しみになる。
「また俺のことを「メガネー!」って野次れるようになる時がきっと来るよ。俺は「ちげーよ!」って言うけど(笑)
その時は身も心もおじいちゃんになってるかもしれない(笑)」
と、微かな希望とともに現実をシビアに見据えた言葉をゴッチは口にしながら、そんなアンコールは三郷の時も市川の時も「プラネットフォークス」から「C'mon」が演奏されていたのだが、この日はそれが「再見」に変化する。それは一応のツアー前半戦ファイナルという場だからこそ、
「分かち合った その先の街に広がった景色を見よう
君とやっと会えたって
重ね合った手と手」
というこの曲の歌詞が特別な響きを持つものになるということをわかっているからであろう。
「未来すら踏みつけて
永遠を手に入れよう
でも 命の鼓動
僕らを満たす音が
もう聞こえているんだろう?」
という歌詞もまたゴッチの詩人としての凄さを感じさせてくれる表現であるし、その僕らを満たす音が目の前で鳴らされているということに胸が熱くなる。タイトルからしてもゴッチが
「まだまだツアーは続いていくから、またどこか近くの街に来た時に観に行けるような状況だったらその時に会いましょう」
と言ったように、この曲はバンドと我々の再会を願うものだ。ライブが終わるたびにそういう思いを持って生きてきた我々アジカンファンの思いをゴッチが曲にしてくれたかのような。
そんなライブの最後はachicoがタイトルフレーズをリフレインさせ、ゴッチがハンドマイクでステージを歩き回りながら歌う「Be Alright」。市川からの1週間でまたいろんなライブの中止や延期が相次いでいるくらいに世の中の状況はまたかなり悪くなりつつある。これからの夏フェスが無事に開催されるかどうか不安になっている人もたくさんいるだろうと思う。それでもゴッチがこうして「Be Alright」と歌ってくれているだけで、未来に光を感じられるというか、我々はきっと何とかなるんじゃないかと思えるような。この曲もまた声が出せるようになったらみんなで「Be Alright」と歌いたい。ちゃんとその通りになったぞっていうことを示すために。
演奏を終えるとサポートメンバーも含めた6人でステージ前に出てきて肩を組み、観客に向かって頭を下げた。その際の伊地知のはっちゃけっぷりと山田の珍しい感情を表に出すような仕草はこの日のライブがメンバーたちにとってどんな手答えを感じるものだったのかということを何よりも雄弁に物語っているかのようだった。
ホールでステージに組まれていた枠のオブジェは後列に3つあって、サポート2人が入ってもその中央は空いていた。そこが埋まる=アルバムに参加していたゲストボーカルが出演するのはこの日かと思っていたが、それはまた次の機会にということになったし、収入的にはそうしないといけないだろうなと思うけれど、今の感染状況で売店でアルコールを販売するのはやっぱりよろしくないことにつながることにもなるんだなということを、開放感がありすぎるから仕方ないところもあるとはいえ、ホールでは今のライブのルールやマナーについて一切心配すらなかったアジカンのワンマンで考えてしまうことになるとは思わなかった。それはアジカンが「今の感染状況の中でも家族でライブに来るような人がどうしたら何の心配もなくライブを観に来れるか」ということを考えてツアーを行ってきたバンドだということをわかっているから。
それでも9年ぶりに野外で見るアジカンのワンマンがどんなに最高なものであるかということを久しぶりに実感できた日だった。次にまたこういう機会があったら「夏蝉」も「夕暮れの紅」も「海岸通り」も聴けたらいいな。
1.De Arriba
2.センスレス
3.トラべログ
4.ローリングストーン
5.You To You
6.エンパシー
7.UCLA
8.ダイアローグ
9.スローダウン
10.雨音
11.触れたい 確かめたい
12.ラストダンスは悲しみをのせて
13.Gimme Hope
14.ソラニン
15.新世紀のラブソング
16.無限グライダー
17.マーチングバンド
18.荒野を歩け
19.Standard
20.解放区
encore
21.君という花
22.出町柳パラレルユニバース
23.再見
24.Be Alright
野外でアジカンのワンマンを見るのは2013年の9月に行われた横浜スタジアムでの2days以来であるが、野音ワンマンは実に17年ぶりだという。その頃にはすでに幕張メッセくらいじゃないと普通にチケットが取れないというくらいの存在になっていただけに、こうして野音でアジカンのワンマンが見れるのは信じられない気持ちもある。
先週の市川市文化会館の時は雨のビートが強く聞こえてくるくらいの雨模様だったのが、この日は残像が見えそうなくらいの夏の日っぷり。つまりは快晴によってめちゃくちゃ暑い。それもまた、あの横浜スタジアムの時もめちゃくちゃ暑かったな…と思い出させてくれる。
まだかなり明るいというか、昼間のような青空が広がってすらいる18時に最初にサポートメンバーの1人であるGeorge(Mop Of Head)がステージに登場すると、SEが場内に響いてもう1人のサポートメンバーであるachicoとともにメンバー4人がステージに現れるのだが、ホールの時と異なるのはステージの形状故か、このツアーならではの演出である、メンバーそれぞれを囲むような枠がステージ背面の壁前に重なっており、つまりメンバーは枠の中に止まらない状態に最初からなっている。なのでホールではサポートメンバーも階段を登った2階的な高所にいたのだが、この日はメンバーとほぼ同じ高さ(ちょっとだけ高い)という並びに。それでも全体がよく見えるのはステージに向かってすり鉢状に低くなっていくという野音の客席の形状ならではである。
そんなステージの違いはあるとはいえ、同じツアーなので流れ自体は変わらないので、そこはすでに参加した2公演のレポも参照していただきたい。
5/28 三郷市文化会館
(http://rocknrollisnotdead.jp/blog-entry-1048.html?sp)
7/15 市川市文化会館
(http://rocknrollisnotdead.jp/blog-entry-1070.html?sp)
そんなステージの違いは、メンバーを取り囲んでいた枠がそのまま照明も兼ねていただけに演出の違いとなって現れるのであるが、そもそも前半はまだ空が明るいだけに照明などの光がほとんど効果を発揮せず(だからそうした演出ありきのライブをやるサカナクションなどは野音ではワンマンをやらない)、バンドの演奏の肉体的な強さ自体が問われるのであるが、そこは市川のライブでも感じた通りにアジカンほどのキャリアを持つバンドであってもツアーを経てさらに進化したグルーヴとアンサンブルだけで充分ライブの良さを堪能できるというか、そもそもアジカンはそうした楽曲の良さとライブの良さを最大限に持ち合わせているバンドだからこそ、今なおこうして野音が即完するくらいの巨大な存在であり続けることができているというのがよくわかる。
市川の時は歌詞というかボーカルがほんの少し飛んでいたというか、イヤモニの調子を少し気にしていたように見えた立ち上がりの「De Arriba」もこの日はそんなこともなく、ゴッチ(ボーカル&ギター)のファルセットボーカルが反響のない、あるとすれば蝉の鳴き声が聞こえるので「夏蝉」を久しぶりに聴きたくなるような野音に広がっていくと、「センスレス」ではachicoとGeorgeのサポート2人がリズムに合わせて手拍子をするのがツアーを重ねるたびに楽しそうな表情になっている。それはメンバー4人だけではなくてサポートの2人もツアーを経てよりアジカンのメンバーになってきているということであり、その2人に合わせて客席にも手拍子が広がっていく。我らのギターヒーロー・喜多建介も満面の笑みを浮かべてギターを弾いているし、枠がないことによって序盤からガンガンステージ前に出て行く姿が見れるというのは野音ならではと言えるかもしれない。
懐かしの「トラべログ」はこのツアーで毎回演奏されているようであるが、自分が見た2回では「プラネットフォークス」というアルバムタイトルに合わせてセトリに入れているのかと思っていた「惑星」を演奏していた4曲目が「ローリングストーン」に。国際フォーラムなどでもこちらを演奏していたようであるが、こちらはタイトルというよりもむしろ
「愛はないぜ 未来もない
気分はどう?
ローリングストーン」
という歌詞が今のこの状況に合わせたかのような選曲に思える。決して代表曲というわけでもないし、こうしてライブで演奏される機会もほとんどない曲だけれど、客席ではほぼ全員と言えるくらいにたくさんの人が腕を上げているというのはこの日の観客がアジカンの曲をどんなにマニアックなものでも聴き込んでいるというくらいに熱心なファンたちであるということを物語る光景である。
ゴッチがこのツアー最大の演出である枠がないことについて自身の口から語ると、いつものように
「誰の真似もせずに自由に楽しんで」
と観客に呼びかけてからの「You To You」では音源でROTH BART BARONの三船雅也が重ねていたハイトーンボーカルをachicoが担い、「エンパシー」「UCLA」ではGeorgeがキーボーディストとして椅子に座ってかつてシモリョーが担っていた鍵盤のフレーズを弾くという、このサポートメンバーたちがいることによってこのツアーが成り立っているということを感じさせてくれるような曲が続く。もちろん「UCLA」もしかりで音源に参加していたゲストが来てくれるのも嬉しいけれど、この編成での演奏もこのツアーでしか見ることができないものである。
喜多が間奏でステージ前に出てきてギターを弾き、さらには高く腕を掲げるというロックスターっぷりを遺憾なく発揮して観客から拍手を受けるのは伊地知潔(ドラム)による雄大なリズムの、アジカンほどのキャリアと技術があるからこそ説得力がある「ダイアローグ」であり、この曲では喜多とともに山田貴洋(ベース)もコーラスとしてゴッチのボーカルに自身の声を重ねていく。achicoという天使の歌声を持つサポートメンバーがいてもなおこうしてメンバーたちのコーラスが重要な役割を担っているというのは2人が演奏だけではなくそうした歌唱部分をも向上させてきたからである。
まだまだ空は明るいだけに光を放つようなステージからの光もホールほどの効果は発揮されていなかった「スローダウン」は、だからこそ曲の力、演奏の力のみで響かせるものになっており、今回のツアーで毎回演奏されてきたことによって、その力がはるかに進化を果たしているということがよくわかる。同時期に発表された「ローリングストーン」(ともに横浜スタジアムのワンマン2daysでダウンロードカードが配布されたのが初出)がロックアンセムと言っていいような曲であるだけに、どうしてもどちらかというと地味なイメージもあったのがこのツアーで完全に変わっているし、そうしてライブで進化を果たしたからこそ、やはりたくさんの人が腕を上げているという光景が広がっている。まさかこの曲がこんなにライブで映えまくるようになるなんて思ったこともなかった。それはこうしてライブで毎回演奏されるということがなかった曲だからであり、そうした名曲をアジカンは自身の手で今のライブを担う曲へと進化させたのである。
サポートも含めたメンバー紹介をすると、この野音でのワンマンが17年振りであることを口にし、その時は「Re:Re:」ツアーという急激に売れたことによってゴッチが1番病んでいた時期であるということも今では笑い話にすることができているのだが、その後に観客の1人がかなり大きな声で叫んだことに対してゴッチが
「今のはSNSとかだと荒れるやつだと思うから、みんなその思いを心の中で叫んでくれたら。いろんな考えの人がいるだろうけれど、このライブの時間だけは赦し合える、認め合えることができたらなと思います」
と、怒ったりしてもおかしくないところを実に優しく言葉にする。そう、ゴッチは優しいのである。ゴッチを批判したりするような奴もいるけれど、そういう奴なんかよりもゴッチの方が圧倒的に優しいと思っている。そういう奴に批判されるのも、我々の生活や生きている社会を少しでも良いもの、誰もが生きやすいものにしたいという思いがあった上で口にしたり行動したりしていることだからだ。なんならそうしたことを全く口にしたりしないことだってできるし、そうすれば何の批判も来ないだろうけれど、批判してくるやつがいたとしても責任と覚悟を持って口にしたり、行動したりする。それは優しさがなければ絶対にできないことだと思っている。
そんなMCの後には山田作曲による浮遊感がありながらもリズムが実に力強い「雨音」が演奏されるのであるが、この日が雨音が聞こえるような天候じゃなくて本当によかったと思うのはそうした天候に阻害されることなく演奏に集中力を向けられるからであるが、天候は良いとはいえ、空の色がこの辺りから少しずつ変化を見せ始め、少しオレンジ色を孕んだ青になり始めてくる。
そんないわゆる夕暮れ時からさらに夜に移行しようという時間帯の空色だったからこそ、ゴッチとachicoのデュエットという形での「触れたい 確かめたい」のサビの
「月まで伸びた光を追いかけて
闇を踏み抜いた 帰り道」
というフレーズが、月こそまだ見えないけれどこの上なくリアルな情景として至上の体験を与えてくれる。JAPAN JAMのトリとして夜に演奏されたこともあるけれど、こうして明るい時間から徐々に暗くなっていくというワンマンだからこその空色のグラデーションを見てきたことがより感動的に感じられるのである。
そうして暗くなってきたということは、明るい時間よりも照明が映えるようになったということで、ステージ上にいる6人それぞれにテーマカラーのような色の照明が当てられることで照明の鮮やかさを感じながら体を揺らすことができる「ラストダンスは悲しみをのせて」、一転して真っ暗な中で演奏が始まり、サビでスポットライトのようにメンバーに光が当てられるのが絶望から希望への浮上を視覚的に感じさせる「Gimme Hope」、さらにはゴッチがイントロのギターを鳴らしただけで思わず歓声が漏れて響いてしまうくらいにこの野音のシチュエーションで聴けるのをここにいた誰もが待ち焦がれていたであろう「ソラニン」も暗い中で微かにメンバーを照らす照明があるからこそ、曲に宿る切なさをより強く感じることができる。その照明によってシルエット的に視界に映るメンバーの演奏する姿が本当にカッコいいロックバンドのものだよなと思えるのだ。
しかしこの辺りの曲の流れはここまでのツアーとは全く変わることはない。それでもこの野音の空の色が変わってくる時間帯をメンバーやスタッフが熟知していて、その時間に合わせてこの曲たちが中盤以降に並ぶセトリを組んでいたかのようにこの日の空の変化に合わせたんじゃないかとすら思えてくる流れになっている。
それくらいに野音というたくさんの伝説やかつての悲劇など様々な歴史を持つこの場所が、アジカンがこうしてこのステージに戻ってきたのを祝福してくれているかのようですらあった。それこそ曲順が少し変わった「新世紀のラブソング」での枠が鮮やかに発光するような演出も、サビでの光が降り注ぐような照明と演奏も間違いなくもう完全に夜と言っていい暗さの空になったからこそ本領を発揮することができているものだ。そういう意味でもやっぱりアジカンは何か持っているというか、選ばれたバンドなんだなと思える。
それは「無限グライダー」「マーチングバンド」という後半に配された、深く潜り込んでからサビで一気に浮上して行くという曲からも感じられたものだったのだが、これらの曲のその深く潜り込んでいくという感覚も暗くなってきたからこそ得ることができるものであり、まだ明るかった前半に演奏していたらこうしたメロからサビでのメリハリを感じることはなかったであろう。そうした意味でもやはりこのセトリはこの日のためのものであったかのようであるし、市川では「サイレン」を演奏したのを「マーチングバンド」に戻したのも野音ならではの正解だと思える。
そしてゴッチがイントロでギターを爪弾くようにしてから歌い始める「荒野を歩け」が市川の時と同じようにさらにバンドのギアを1段階上げる曲として本当に大事な、アジカンのライブの核を担う曲になった。枠がなくなったことで喜多はギターソロではゴッチの方に寄らずにステージ前に出て弾くというシンプルな形にはなっていたが、それでもこの曲を演奏している時は伊地知と山田も顔を見合わせながら笑顔を浮かべていたり、Georgeも踊るように体を揺らしていたり、観客もachicoに合わせて手拍子をしなりと、メンバーと観客全員がこの曲、このライブを本当に楽しんでいるのがわかるし、この曲もまたMVが夜の街中でのものであるだけに、こうして暗くなった野音で聴くとライブ後に日比谷公園の中でスケボーを蹴りたくなるような。そんないつも通りに楽しいけれど、いつもとは違う「荒野を歩け」であった。
そんな楽しいアジカンのライブも、決してそうではない時もあった。それはゴッチも口にしていた「Re:Re:」ツアーの時もそうだったのだろうし、自分が1番「キツそうだな」と感じたのは「マジックディスク」のツアーで、柏、渋谷、Zepp Tokyoとそのツアーを見ていた時に、後にゴッチも口にしていたけれど、どこか「こなしている」というか長いツアーをなんとか消化しようとしているような感じがあった。
でも同じようにこうして長いツアー、各地を細かく回るツアーを行っていても、今のアジカンには全くそういう「こなしている」という感じはない。むしろどんなにすでに近い会場でライブをやっていても、1本1本のライブを大切にしてそこに全てを懸けるかのようなライブをしている。
それは震災でツアーが中止になってから、ライブをやれる喜びを7人編成の多幸感溢れるサウンドで示した「ランドマーク」ツアーから、最前線に立つバンドとして演出を進化させた「Wonder Future」ツアー、サウンドの刷新を果たした「ホームタウン」ツアー、そしてコロナ禍と周年ライブを経てのこのツアー。
今のアジカンには「やらされている」ことなど一つもない。全て自分たちが「こういうことをアジカンでやりたい」と思っていることをやっている。だからそれをやれている喜び、何よりもライブをできている喜びがステージから音や表情、パフォーマンスとして放たれている。そんな紆余曲折あって今の楽しさを感じさせてくれるアジカンの姿を見ていると、こちらまで楽しくなるし、幸せな気持ちになれる。セトリがそこまで変わらないのがわかっていても、ツアーに毎回何公演も行くのは今のアジカンのライブがそうしたものになっているからだ。それがそのまま「生きていて良かったな」という実感となり、またこうしてライブを見れるまで頑張ろうという活力に繋がっていく。ライブや音楽は自分にとっては他のどんなものよりもそうした力を与えてくれるものだし、きっとここにいたたくさんの人にとってもアジカンの音楽とライブがそうしたものになっているんだろうと思う。
そんなライブの喜びが衝動として音から溢れ出るのは、喜多がイントロで気合いを込めるように「セイッ!」と口にして演奏される「Standard」。夜の野外で照明に照らされながら聴くこの曲は、かつてリリース直後に対バンしたアナログフィッシュの佐々木健太郎が
「この曲がアジカンの中で1番好き。この曲は俺に向かって歌ってるから。それはみんな1人1人に向けて歌ってるってことだよ」
と言っていたように、今でも自分たち1人1人に向けて歌ってくれているように感じられる。
「誰にも見向きもされないまま
後ろ指さえ差されなくても」
という歌詞が、ゴッチが我々に「見つけてくれてありがとう」と言っているかのようだから。
そのゴッチは観客への感謝を言葉にするのだが、そのMCがかなり短いというか、本当に言うべきことだけを言うような感じにしているのはやはり市川の時にあまりにも喋りすぎたという反省からだろうか。あのMCもよりゴッチのボーカルを覚醒させるものとして無駄に長いだけではない役割を果たしていたとも思うのであるが、そんな中で最後に演奏された「解放区」はホールでのメンバーを囲む枠が上空に浮上していくというギミックこそないものの、
「高層ビル越しの斜陽」
で始まるゴッチのポエトリーリーディングで、まさにステージの後ろには高層ビルが並んでいる。その風景と、屋根も壁もない野音という会場がまさに最大の解放感を与えてくれる。だからこそ喜多がステージに膝をついてギターを弾くという熱演を見せる中、ホールの時以上にこの曲をみんなで一緒に歌いたいなと思った。それはこの日、この瞬間、この場所こそがアジカンを愛してきた我々にとっての解放区だったからだ。
アンコールではメンバー4人だけでステージに現れると、ゴッチは市川の時と同様に南相馬の酒造で酒麹に聞かせるために作った、自身が参加したアンビエントCDの告知をするのであるが、
「毎回ツアーで告知してきたから、このCDを作った借金が3桁から2桁になりました(笑)ソニーとかに切り捨てられなくて済むかな(笑)
こんな借金背負ったの、奨学金の時以来だよ(笑)全部返したけど」
という自虐的なMCに客席から拍手が起こっていたのは奨学金を返済したことに向けての拍手だったのだろうか。しかしそんなゴッチよりも金銭感覚がヤバい男がやはり喜多であり、
「建ちゃんは就職して給料貰えるようになったらすぐ後輩集めて酒飲ませて奢ったりしてて。だから月末に結局金ないみたいな(笑)金銭感覚ガバガバ過ぎて、母親が管理してたもんな(笑)そんな子でも野音のステージに立てます!」
と、観客に希望を与えるのかなんなのかよくわからない喜多のエピソードを明かすと、その頃に横浜の街スタジオで作ったという「君という花」を演奏。きっとこの曲は17年前もこの会場で演奏されていた曲だろうけれど、やっぱりそんなアジカンのアンセムであり続けてきた曲を野音という特別感のある場所で聴くことができるのは嬉しい。でもやっぱり「らっせーらっせー」を叫ぶことができないというのは心残りであるだけに、いつかまた声を出せるようなライブができるようになった時にはまた野音でワンマンをやって、この曲を演奏して欲しい。
そしてゴッチはこのライブが終わった後にシングルがリリースされる発表があるという、発表の発表をするのだが、その際に口にした
「4曲入りマキシシングル」
という単語はもはやアジカンよりさらに若い世代のバンドのライブでは絶対に通用しないものであろう。ゴッチは
「マキシって沖縄の人の苗字みたいだよね(笑)」
と自分でさらにボケを重ねていたが、そのマキシシングルに収録されるのは「サーフ ブンガク カマクラ」の完全版の核になるであろう「出町柳パラレルユニバース」を披露。
4人だけでの演奏ということからも「サーフ〜」のパワーポップサウンド路線が引き継がれているということはわかるのだが、最後に
「歌えよ ララルラ」
というフレーズのリフレインが続くというのは、同じタイアップの続編と言ってもいい「荒野を歩け」のセルフオマージュと言っていいだろう。何にせよシングル、そして来るべき「サーフ ブンガク カマクラ」の完全版が「プラネットフォークス」とは全く違うアジカンの音楽、作品になるというのがわかるだけにより一層楽しみになる。
「また俺のことを「メガネー!」って野次れるようになる時がきっと来るよ。俺は「ちげーよ!」って言うけど(笑)
その時は身も心もおじいちゃんになってるかもしれない(笑)」
と、微かな希望とともに現実をシビアに見据えた言葉をゴッチは口にしながら、そんなアンコールは三郷の時も市川の時も「プラネットフォークス」から「C'mon」が演奏されていたのだが、この日はそれが「再見」に変化する。それは一応のツアー前半戦ファイナルという場だからこそ、
「分かち合った その先の街に広がった景色を見よう
君とやっと会えたって
重ね合った手と手」
というこの曲の歌詞が特別な響きを持つものになるということをわかっているからであろう。
「未来すら踏みつけて
永遠を手に入れよう
でも 命の鼓動
僕らを満たす音が
もう聞こえているんだろう?」
という歌詞もまたゴッチの詩人としての凄さを感じさせてくれる表現であるし、その僕らを満たす音が目の前で鳴らされているということに胸が熱くなる。タイトルからしてもゴッチが
「まだまだツアーは続いていくから、またどこか近くの街に来た時に観に行けるような状況だったらその時に会いましょう」
と言ったように、この曲はバンドと我々の再会を願うものだ。ライブが終わるたびにそういう思いを持って生きてきた我々アジカンファンの思いをゴッチが曲にしてくれたかのような。
そんなライブの最後はachicoがタイトルフレーズをリフレインさせ、ゴッチがハンドマイクでステージを歩き回りながら歌う「Be Alright」。市川からの1週間でまたいろんなライブの中止や延期が相次いでいるくらいに世の中の状況はまたかなり悪くなりつつある。これからの夏フェスが無事に開催されるかどうか不安になっている人もたくさんいるだろうと思う。それでもゴッチがこうして「Be Alright」と歌ってくれているだけで、未来に光を感じられるというか、我々はきっと何とかなるんじゃないかと思えるような。この曲もまた声が出せるようになったらみんなで「Be Alright」と歌いたい。ちゃんとその通りになったぞっていうことを示すために。
演奏を終えるとサポートメンバーも含めた6人でステージ前に出てきて肩を組み、観客に向かって頭を下げた。その際の伊地知のはっちゃけっぷりと山田の珍しい感情を表に出すような仕草はこの日のライブがメンバーたちにとってどんな手答えを感じるものだったのかということを何よりも雄弁に物語っているかのようだった。
ホールでステージに組まれていた枠のオブジェは後列に3つあって、サポート2人が入ってもその中央は空いていた。そこが埋まる=アルバムに参加していたゲストボーカルが出演するのはこの日かと思っていたが、それはまた次の機会にということになったし、収入的にはそうしないといけないだろうなと思うけれど、今の感染状況で売店でアルコールを販売するのはやっぱりよろしくないことにつながることにもなるんだなということを、開放感がありすぎるから仕方ないところもあるとはいえ、ホールでは今のライブのルールやマナーについて一切心配すらなかったアジカンのワンマンで考えてしまうことになるとは思わなかった。それはアジカンが「今の感染状況の中でも家族でライブに来るような人がどうしたら何の心配もなくライブを観に来れるか」ということを考えてツアーを行ってきたバンドだということをわかっているから。
それでも9年ぶりに野外で見るアジカンのワンマンがどんなに最高なものであるかということを久しぶりに実感できた日だった。次にまたこういう機会があったら「夏蝉」も「夕暮れの紅」も「海岸通り」も聴けたらいいな。
1.De Arriba
2.センスレス
3.トラべログ
4.ローリングストーン
5.You To You
6.エンパシー
7.UCLA
8.ダイアローグ
9.スローダウン
10.雨音
11.触れたい 確かめたい
12.ラストダンスは悲しみをのせて
13.Gimme Hope
14.ソラニン
15.新世紀のラブソング
16.無限グライダー
17.マーチングバンド
18.荒野を歩け
19.Standard
20.解放区
encore
21.君という花
22.出町柳パラレルユニバース
23.再見
24.Be Alright