ASIAN KUNG-FU GENERATION Tour 2022 「プラネットフォークス」 @市川市文化会館 7/15
- 2022/07/16
- 21:04
3月にリリースされ、5月から始まったアジカンのアルバム「プラネットフォークス」のツアーはアジカンの規模とは思えないくらいに細かい地方のホールを回る。なので埼玉の三郷で2daysやってもそんなに離れていない千葉の市川市文化会館にも来るし、先日は東京国際フォーラムでもやってるし、来週には日比谷野音でもやる。観たいと思っている人が全員どこかしらで観れるようにというバンドサイドの配慮を感じる。
久しぶりに訪れる市川市文化会館はこんなに椅子とかトイレとか新しい感じだっけ?とも思うけれど、自分の普段の生活圏と言えるような場所でアジカンのワンマンが観れるというのは実に嬉しいことである。前日がストレイテナーで今日がアジカンというのは両者がそれぞれトリを務めた(アジカン主催のフェスなのにストレイテナーが初日のトリを任され、そのライブにアジカンメンバーも乱入した)、NANO-MUGEN FES. 2009の時を思い出して懐かしくなる。
とはいえライブの流れ自体は三郷の時と変わらないので、ツアー初日の三郷のライブレポも参考にしていただきたい。
(http://rocknrollisnotdead.jp/blog-entry-1048.html?sp)
平日の18時30分という早い開演時間を少し過ぎたところで場内が暗転すると、すでにステージ上に組まれた大きな四角いオブジェのうち、後列の下手側にSEが鳴った時点で立っていたのは、初日のTakuma Kikuchiが所属するMop Of Headの首魁にして、近年はsumikaのゲストメンバーとしてもおなじみのGeorge。その逆側にはこちらも初日のYeYeに変わってRopesのachico。何というか実に距離感の近いサポートメンバーたちである。
1曲目が雄大なサウンドとゴッチのファルセットを交えたボーカルによる「De Arriba」であるというのは同じなのだが、ゴッチはいきなり歌詞が飛んだのか、ボーカルが飛ぶ箇所があったのが少し「大丈夫か?」と思わせる。すぐにイヤモニを外したり、曲終わりでローディーの方がギターを交換しに来てもまだギターを鳴らしていて、ローディーの方に背中を叩かれたことでようやくギターを交換していたが、どこかイヤモニなどのサウンドの不調があったのだろうか。我らのギターヒーロー喜多建介はギターを高く掲げるというヒーローらしい姿を見せてくれるのはそうしたゴッチを見ての不安を吹き飛ばしてくれるかのようだ。
続く「センスレス」ではachicoに合わせるようでもあり、その姿を見なくても身に染み付いているようでもあるように観客がリズムに合わせて手拍子をするのであるが、そのリズムを刻む山田貴洋(ベース)は表情が変わらないようでいて笑顔であるのがよくわかるし、伊地知潔(ドラム)はマイクがなくても歌詞を口ずさむような口の動きをしながら叩いている。こうしてアジカンのメンバーとしてステージに立っていることを心から喜んでいるのがよくわかるのだが、
「世界中を悲しみが覆って
君に手招きしたって
僕はずっと
想いをそっと此処で歌うから
君は消さないでいてよ」
という今だからこそより強く響いてしまう閉塞的な世界・社会になっていることを感じさせる歌詞であっても、やはりこのメロディーはそんな状況を突き破るようにここにいる、アジカンの音を感じることができる強い解放感を感じさせてくれる。
メンバーそれぞれが照明をかねた四角い枠の中に入っているというセットは変わることはないし、「トラべログ」「惑星」というあたりは「今自分は何のツアーに来ているんだ?」と思わせてくれる選曲であるというのも初日に思ったことであり、まだ2ヶ月も経っていないだけにその驚きと久しぶりに曲を聴けた喜びの余韻がずっと続いているかのような。
そんな中で音源ではROTH BART BARONの三船雅也とコラボした「You To You」ではその三船ボーカルパートをachicoが担うのだが、かつて戸高賢史(ART-SCHOOL,MONOEYES)とRopesを組んだ時に「天使のような歌声」と評された声はそれから10年以上経っても全く変わることはない。その声によってこの曲の持つ神聖さがより増しているように感じるし、相乗的に喜多ボーカルパートの神聖さすらもより増しているように感じられる。achicoはどちらかというとそうしたボーカル、コーラスという声で存在感を示している。
一方のGeorgeによる電子音も決して最前面には出てこないけれど確かな存在感を放つ「エンパシー」ではたくさんの観客がサビで一斉に腕を上げる。「プラネットフォークス」収録曲という近年の曲と言っていい時期の曲がこうしてまた新たなアジカンの代表曲になってきているということをひしひしと感じることができる。それこそがアジカンがデビューから20年を超えてもなおモンスターバンドであり続けることができている最大の所以である。
伊地知の細かく刻むハイハットのリズムから始まる「UCLA」も音源ではHomecomingsの畳野彩加がボーカルとして参加しているのだが、この日はachicoがその代役というにはあまりに贅沢すぎるボーカルを響かせる。声質も畳野と似ているということもあってか、こうした音源とは違う人が歌う時に感じる違和感を全く感じることがないあたりはさすがachicoの歌声とアジカンの人選である。
そうして細かくハイハットを刻んでいたかと思えば、大らかさと雄大さを感じさせるビートで曲のスケールを感じさせる伊地知のドラムが変幻自在に叩き出す「ダイアローグ」では間奏のギターソロで早くも喜多が枠の中を飛び出してステージ前まで出てきて弾きまくる。戻る際にローディーの方にシールドを直してもらうのはもはやご愛嬌であるが、アウトロでのOasis「Rock 'n' Roll Star」的な演奏はよりダイナミックかつサイケデリックに(さらに長尺に?)なっているというのはこのツアーで練り上げられてきたのがこうしたセッション的な部分にも及んでいるということがよくわかる。アジカンほどのキャリアを持つバンドでもツアーを回ることによって曲や演奏が進化しているというのはロックバンドの生き方はどんな時代になっても変わることはないということを示しているかのようである。
メンバーたちを取り囲む枠が白く発光する中、ステージ背面には無数の額縁のようなものが飾られており、その下にランプのようなものが吊るされていて、照明のような効果を醸し出しているということがよくわかる「スローダウン」を終えると、
「どうもこんばんは、ASIAN KUNG-FU GENERATIONです」
とゴッチが挨拶し、
「ツアーももう前半戦は今日と来週の日比谷野音だけっていうことで、なかなかツアーもライブも満足に出来なかった期間があっただけに、本当にこうやってライブができる、みんなの前で音を鳴らせる喜びを噛み締めてます。ありがとうございます。
気が早いかもしれないけど、来年も俺たちツアーやろうとしてます。ライブハウスにするかホールにするかはまだ話し合わないといけないけど、みんながなるべく伸び伸びできる場所がいいなとは思ってる。だってさ、息子の修学旅行が中止になったりしてる中で
「お父さんは金曜日にアジカンのライブに行ってくるから」
なんて言われたら、
「え、お父さん?僕の修学旅行中止になったのに?」
って思うじゃん(笑)」
と、まさかのゴッチの一人二役コント的なMCはゴッチをはじめとしたメンバーたちが自分たちのライブにはどんな年齢層の人が多く来ているのかをわかっているからと言えるだろう。もちろん若い人も客席にはたくさんいるけれど、家族で一緒に来ているような人たちもたくさんいるというのがわかるのはこうしたホールという席がある会場ならではである。
そんなゴッチは
「山ちゃんの曲の評判が良いと嫉妬するけど、俺も山ちゃんの曲の中ではこの曲が1番好き。最新の曲だからかもしれないけど」
と山田の作曲能力を珍しく褒めちぎると、その褒められた山田と喜多がゴッチの方を指さすという、今のアジカンのメンバー同士の関係性の良さを示す中で演奏されたのはその最新の山田作曲の「雨音」。
この曲をゴッチが気に入っているのは、今までの山田曲はどちらかというとアジカンの王道的な、ある意味では予想の範疇にある曲が多かったけれど、この曲は全くそうではない、むしろそうしたアジカンの王道を近年はゴッチ以上に担ってきた山田だからこそ、こんなに浮遊感のあるサウンドの曲を作ってきたという驚きによるところもあるだろう。だからこそクレジットを見た時は「これ山田曲なの!?」と驚いたものであるが、こうした曲ではGeorgeのキーボードのサウンドがライブにおいてもより重要になるのだが、そのGeorgeもsumikaのゲストメンバーになって得たものか、体を揺らしたり手拍子をしたりと、音を鳴らしている楽しさをより体で表現するようになってきている。
その山田がシンセベースを弾くのもおなじみになってきている「触れたい 確かめたい」もやはり音源の塩塚モエカ(羊文学)に変わってのachicoとゴッチのツインボーカルとなるのだが、このツアーだけ、しかも全箇所に参加しているわけでもないのにこんなにこの曲を歌いこなしているachicoはやはり只者ではないと思うのだが、色鮮やかな照明が次々にメンバーたちを照らすダンスロックチューン「ラストダンスは悲しみをのせて」を伊地知の力強いドラムとGeorgeの小刻みかつリズミカルなパーカッションによる演奏で鳴らすと、ゴッチがサポートを含めてバンドメンバーを紹介し、
「暗い曲だけど」
という言葉に合わせるように薄暗い照明が曲のイメージを作り上げている「Gimme Hope」へと繋がるのだが、
「銃を握った 君たちの 指先の掛かった引き金で
誰かを撃つなら僕にして 亡骸は海へ捨ててよ」
というフレーズが先週起こった銃撃事件によってよりリアリティを感じさせるものへとわずか2ヵ月の間に変化している。その事件についてもゴッチはまた散々「今さら何をほじくり返してんだ」とゴッチになんやかんや言う奴に言ってやりたくなるくらいに言われていたけれど、それでもこうしてステージに上がって歌って、最後にはタイトルフレーズがオクターブが上がることによって希望を感じさせてくれるようになっているのは本当に強いと思うし、ゴッチになんやかんや言ってるわけのわからない奴らよりも自分はゴッチのことを心から信頼している。それはゴッチが今までやってきた活動などをずっと見てきて、ゴッチの方が我々の生活や社会のためにそうした活動をしてきたということを知っているからだ。そこにどうこう言われたとしても「いや、お前なんかよりゴッチのそういう活動を見てきたし」と一刀両断できるのもゴッチ自身が歌っている姿で我々に力や希望を与えてくれるからである。
そのゴッチがイントロのギターを鳴らしただけで会場の空気が一変する「ソラニン」からはアジカンの誇る名曲たちの連発に次ぐ連発で、伊地知のドラムの力強い連打による「無限グライダー」はアジカンと出会った時からライブでやっていた曲を、それからおよそ20年くらい経って、バンドにも自分にも色々なことも変化もあったけれど、ずっとアジカンのライブを見れてきて、今でもこうしてこの曲をライブで聴くことができているという事実に勝手に感極まってしまいそうになる。ステージ上方が青く染まっていたのは、グライダーが飛ぶ空の色がそうした澄み切った色であったはずだからだ。
と、ここまでに演奏された曲は三郷の初日の時と全く変わらないのだが、その日には「マーチングバンド」が演奏された16曲目はこの日は真っ赤な照明にメンバーが照らされる「サイレン」が演奏された。ツアー中に他の会場でもこの曲は演奏されていたらしく、道理で伊地知のドラムも喜多のギターも力強いはずであるが、カップリングバージョンのいわゆる「裏サイレン」のコーラス部分では喜多とachicoの声が美しく重なっていく。それはきっとこのツアーでしか見ることができない形での「サイレン」であり、こうして同じツアーを何本も観に行くという選択をして本当に良かったと思っている。アジカンのツアーでその選択をして後悔することは絶対ないと思っているけれど。
打ち込みのビートが流れての「新世紀のラブソング」とさらに名曲の連発っぷりは続くが、この曲のそうしたデジタルなサウンドを担うGeorgeの存在とゴッチのボーカルに重なるachicoのコーラスもやはり今回のツアーだからこその形であるのだが、ゴッチは曲終わりでふいにハミングするようにメロディを口ずさむ。三郷の時には確かなかったようなその姿が、完全にゴッチがゾーンに入っていることを感じさせてくれるのだが、その状態で演奏された「荒野を歩け」はachicoと観客が手拍子を打ち鳴らす中で、間奏では喜多が枠の中を飛び出してゴッチに近付いてギターソロを弾きまくる。その喜多に「あっち行け」とばかりに笑顔で振り払う素振りを見せるゴッチ。その様子を見てサポートメンバーたちも笑い合っている。そんな幸せな空気感に包まれていると、喜多は最後のサビ前で宙に向かってパンチを高速で連発するような仕草を見せる。ゴッチだけではなくて喜多も完全に入り込んでいる。リリースしてから基本的にはずっと演奏され続けてきた曲であるし、見れるアジカンのライブは極力見てきたから数え切れないくらいにこの曲をライブで聴いてきた。そんな曲でこんなにも今までにないくらいに「なんてカッコいいんだ」と思うことができる。これだからアジカンのライブに行くのはやめられない。こうやって何回も聴いてきた曲が凄まじい進化を果たすのを見れるから。この曲から確かにそれまでとは違うスイッチが入ったような感覚があった。
それはそのままゴッチのボーカルが高く強く伸びていく「Standard」へと繋がっていく。紛れもなく最高にカッコいいロックバンドがここにいる我々一人一人に向かって願いを込めるようにして歌っている。「荒野を歩け」からずっと魂が震えっぱなしだった。そしてやっぱり初日の三郷とは全然違うライブだと思った。それをこのツアーでバンドは繰り返してきて、だからこそ何公演も追いかけている方々が全く飽きることなく毎公演見ることができているのだろう。
そんな熱演から一息つくようにゴッチは
「考えていることも信じていることも何もかもが違う我々が、今こうやって千葉県市川市に集まっている。それは決して偶然ではないと俺は思っている」
と言った。そんな、ここにいる全然違う人たちに唯一共通しているのは、みんな「アジカンが好きで仕方ない」ということ。だからこんな平日の18時30分スタート、しかもめちゃくちゃ雨が降っている中でもこうやって集まることができているし、それこそが何よりも幸せで何よりも強い共通項だと思っている。思想が同じ人でも夜通し話すことなんてきっとできないけど、アジカンが好きな人同士ならアジカンへの思いを語り合うだけで余裕で一晩明かせる。なんならアジカン縛りカラオケだけでも朝までいける。それくらいにアジカンとその音楽の存在が我々を強く結びつけてくれている。
そんなMCの後に最後に演奏されたのは、そんなここにいる全員の精神を解放してくれるかのような「解放区」。ゴッチのポエトリー的なボーカルも身振り手振りが強く加わることによって、いつも以上に思いを込めているのが伝わる中で、最後のタイトルフレーズの歌唱ではメンバーの声が何層にも重なっていく。いつかまた近い未来にその層を我々の声で少しでも分厚くすることができたら、と思いながら、
「笑い出せ
走り出せ
踊り出せ
歌い出そう」
と肉体と精神両面での解放を強く促すと、メンバーを取り囲んでいた枠がスッと上空に引き上げられて行った。それはメンバーが真っ先に解放されたのを示すかのように。
アンコールではメンバー4人だけでステージに登場すると、ゴッチが
「珍しく告知をします(笑)」
と、自身が参加した、南相馬の酒蔵の麹に聴かせるためのアンビエントCDの告知をするのであるが、
「ツアーで毎回告知してきて、3桁あった借金が2桁まできた(笑)生活する金を得るために出したCDが借金になるっていう(笑)」
というアジカン以外の活動の場での自虐っぷりは変わらないが、
「このCDに参加してるような、普段働きながら音楽やってる人たちのレコーディングとかを手伝わせてもらうことがあるんだけど、もう時間もないからやりたいことしかやる時間がないっていうか。スタジオに水曜日の夜中に集まって、終電までの勝負だったりとか。
でもそういう人たちの鳴らしてる音って本当に人生そのものが鳴ってる。だからその音を聴いてるだけで涙が出ちゃうっていうか」
というのは実際にその現場を見ているからでもあり、かつて自身も社会人として就職しながらアジカンをやっていた時期と重なるところもあるのだろう。だからそうした人たちに借金をしてでも力を貸している。ゴッチがどういう人間なのかということが本当によくわかるエピソードである。
そんなゴッチ、アジカンはかねてから制作されているという情報のあった「サーフ ブンガク カマクラ 完全版」がついに形になってきているようで、この日はその中から藤沢の少し先の駅の曲である「柳小路パラレルユニバース」を演奏するのだが、すでにタイアップになることが発表されている「出町柳パラレルユニバース」とこの曲はメロディは同じで歌詞が違うという「ほとんど同じ曲」であることが明かされるのであるが、それは湘南で青春を過ごしたアジカンの「柳小路パラレルユニバース」と、京都で青春を過ごしたタイアップ元の作家の森見登美彦の世界がパラレル的に重なるということを同じ歌詞によって表現した曲であるという。実際のサウンドは確かに「サーフ〜」期のストレートなパワーポップという久しぶりのアジカンのサウンドになっているが、やはりこう聞くとそれぞれの歌詞をじっくり見たくなるのである。
そのまま4人だけでセッション的な演奏が展開されての「Re:Re:」では枠が取り払われたことによって喜多がより自由に動き回り、スピーカーの前という他のメンバーが見えないであろう位置にまで行ってギターを弾くのであるが、それは喜多なりに少しでも観客の近くに行って演奏したいという思いの現れであろうし、その喜多に引っ張られるように山田も珍しくステージ前まで出てきてベースを弾く。表情はあまり変わらないけれど、ゴッチや喜多と同じように山田も燃えているのがわかるし、
「君じゃないとさ」
のフレーズを力一杯に歌い上げるゴッチの姿を見ていて、本当にゴッチじゃないと、アジカンじゃないといけないんだよと今までよりもまた強く思っていた。
するとここで再びGeorgeとachicoを呼び込み、ゴッチはachicoに
「Ropesってどういう意味でつけたの?」
とバンド名の由来を問いかけ、
「なんか意味がなさそうな名前にしたいと思ったんだけど、意味ありげになっちゃったね…(笑)」
と困惑させ、GeorgeにもMop Of Headの由来を問いかけると、まさかそれを言わされることになるとは全く想定していなかったであろうGeorgeは
「なんか、天然パーマ的な名前にしたくて…(笑)」
と言って恥ずかしさのあまりにその場に倒れ込んでしまう。まさかGeorgeのこんな姿が見れるとはsumikaのゲストメンバーの時にも思っていなかったことである。
さらにそのゴッチの魔の手は伊地知のPHONO TONESにまでも及ぶのであるが、伊地知はマイクを持っていないためにゴッチに向かって
「レコードのフォノ端子から取った」
と言い、それをゴッチが観客に伝えるのだが、結論としては
「バンド名の由来は聞かない方が良い」
というどうしようもないものであった。それでもゴッチは
「アジカンはバンド組む前から名前を考えてた(笑)結成する前から名前決まってるって凄いよね(笑)だから山ちゃんが入る前からすでにアジカンだった(笑)
(山田は加入当初は正式名称を知らなかったという衝撃の告白をする)
ミッシェル・ガン・エレファントみたいな単語3つの名前がいいなと思って。あと組む前からすでに海外でライブやりたかったから、Asiaを入れようと思って。アジアから来たんだなって思うじゃん。でカンフー映画にもハマってたから。浪人時代の俺を救ってくれてたのはカンフー映画とロックンロールだったから。ジェネレーションはまぁつけた方が締まりがいいかなって(笑)」
とアジカンの名前の由来を語るのだが、MCが長くなりすぎたことには少し反省気味だった。でもそれは裏を返せばそれくらいにこの日に伝えたいこと、言いたいことが溢れてくる状態だったということだろう。それはゴッチがこの日のライブが楽しかったと感じていたということでもある。
そんなライブの締めは三郷の時と同様に、喜多が自身の声にエフェクトをかけながらワウワウと歌い、しかもしっかりギターまで弾きこなす「C'mon」から、achicoの導入的なタイトルフレーズのコーラスがバンドを引っ張っていく「Be Alright」という「プラネットフォークス」の曲の2連発。そのタイトルフレーズに宿る「Be Alright」という希望を抱く感覚は、初日よりも状況が悪くなってきつつある社会の中であっても、初日よりもはるかに強い手応えを感じた。それはツアーでこの曲を演奏してきたことで練り上げられてきたアジカンのアンサンブル、グルーヴの強さが確かにそう感じさせてくれたのだ。最後にサポートメンバーも含めて6人で肩を組んで観客に一礼する際の全員の表情を見て、こうしてこの会場でアジカンを見ることができて本当に良かったと思っていた。
UNISON SQUARE GARDENやsumika、まだ大ブレイク前のSEKAI NO OWARI(しかも何故かこの会場がツアーファイナルだった)から、NICO Touches the WallsやPlastic Treeという地元と言えるようなバンドまで。様々なバンドのライブをこの会場で見てきた。何ならアジカンも「ホームタウン」ツアーの時にもこの会場で見れているけれど、やっぱりアジカンがこんなところにまで来てライブをしてくれて、地名を口にしてくれるというのが本当に嬉しい。
後はステージ上の7つの枠のうち、後列中央の枠に誰かが入る姿を見れたら最高だなと思っているのだが、きっとそれが実現するであろう翌週の日比谷野音はチケットが取れなかったので幻のままで終わりそうである。
それでも、色々ありすぎる社会状況の中でアジカンを見ると、やっぱり自分にはアジカンが絶対に必要な存在だと思える。それはそれくらいにゴッチが、アジカンが誰よりも社会と密接した活動をしてきたバンドだからだ。これから先、どんな状況の世の中になってもそれは絶対に変わることはない。それがハッキリと再確認することができた「プラネットフォークス」ツアーだった。
1.De Arriba
2.センスレス
3.トラべログ
4.惑星
5.You To You
6.エンパシー
7.UCLA
8.ダイアローグ
9.スローダウン
10.雨音
11.触れたい 確かめたい
12.ラストダンスは悲しみをのせて
13.Gimme Hope
14.ソラニン
15.無限グライダー
16.サイレン
17.新世紀のラブソング
18.荒野を歩け
19.Standard
20.解放区
encore
21.柳小路パラレルユニバース
22.Re:Re:
23.C'mon
24.Be Alright
久しぶりに訪れる市川市文化会館はこんなに椅子とかトイレとか新しい感じだっけ?とも思うけれど、自分の普段の生活圏と言えるような場所でアジカンのワンマンが観れるというのは実に嬉しいことである。前日がストレイテナーで今日がアジカンというのは両者がそれぞれトリを務めた(アジカン主催のフェスなのにストレイテナーが初日のトリを任され、そのライブにアジカンメンバーも乱入した)、NANO-MUGEN FES. 2009の時を思い出して懐かしくなる。
とはいえライブの流れ自体は三郷の時と変わらないので、ツアー初日の三郷のライブレポも参考にしていただきたい。
(http://rocknrollisnotdead.jp/blog-entry-1048.html?sp)
平日の18時30分という早い開演時間を少し過ぎたところで場内が暗転すると、すでにステージ上に組まれた大きな四角いオブジェのうち、後列の下手側にSEが鳴った時点で立っていたのは、初日のTakuma Kikuchiが所属するMop Of Headの首魁にして、近年はsumikaのゲストメンバーとしてもおなじみのGeorge。その逆側にはこちらも初日のYeYeに変わってRopesのachico。何というか実に距離感の近いサポートメンバーたちである。
1曲目が雄大なサウンドとゴッチのファルセットを交えたボーカルによる「De Arriba」であるというのは同じなのだが、ゴッチはいきなり歌詞が飛んだのか、ボーカルが飛ぶ箇所があったのが少し「大丈夫か?」と思わせる。すぐにイヤモニを外したり、曲終わりでローディーの方がギターを交換しに来てもまだギターを鳴らしていて、ローディーの方に背中を叩かれたことでようやくギターを交換していたが、どこかイヤモニなどのサウンドの不調があったのだろうか。我らのギターヒーロー喜多建介はギターを高く掲げるというヒーローらしい姿を見せてくれるのはそうしたゴッチを見ての不安を吹き飛ばしてくれるかのようだ。
続く「センスレス」ではachicoに合わせるようでもあり、その姿を見なくても身に染み付いているようでもあるように観客がリズムに合わせて手拍子をするのであるが、そのリズムを刻む山田貴洋(ベース)は表情が変わらないようでいて笑顔であるのがよくわかるし、伊地知潔(ドラム)はマイクがなくても歌詞を口ずさむような口の動きをしながら叩いている。こうしてアジカンのメンバーとしてステージに立っていることを心から喜んでいるのがよくわかるのだが、
「世界中を悲しみが覆って
君に手招きしたって
僕はずっと
想いをそっと此処で歌うから
君は消さないでいてよ」
という今だからこそより強く響いてしまう閉塞的な世界・社会になっていることを感じさせる歌詞であっても、やはりこのメロディーはそんな状況を突き破るようにここにいる、アジカンの音を感じることができる強い解放感を感じさせてくれる。
メンバーそれぞれが照明をかねた四角い枠の中に入っているというセットは変わることはないし、「トラべログ」「惑星」というあたりは「今自分は何のツアーに来ているんだ?」と思わせてくれる選曲であるというのも初日に思ったことであり、まだ2ヶ月も経っていないだけにその驚きと久しぶりに曲を聴けた喜びの余韻がずっと続いているかのような。
そんな中で音源ではROTH BART BARONの三船雅也とコラボした「You To You」ではその三船ボーカルパートをachicoが担うのだが、かつて戸高賢史(ART-SCHOOL,MONOEYES)とRopesを組んだ時に「天使のような歌声」と評された声はそれから10年以上経っても全く変わることはない。その声によってこの曲の持つ神聖さがより増しているように感じるし、相乗的に喜多ボーカルパートの神聖さすらもより増しているように感じられる。achicoはどちらかというとそうしたボーカル、コーラスという声で存在感を示している。
一方のGeorgeによる電子音も決して最前面には出てこないけれど確かな存在感を放つ「エンパシー」ではたくさんの観客がサビで一斉に腕を上げる。「プラネットフォークス」収録曲という近年の曲と言っていい時期の曲がこうしてまた新たなアジカンの代表曲になってきているということをひしひしと感じることができる。それこそがアジカンがデビューから20年を超えてもなおモンスターバンドであり続けることができている最大の所以である。
伊地知の細かく刻むハイハットのリズムから始まる「UCLA」も音源ではHomecomingsの畳野彩加がボーカルとして参加しているのだが、この日はachicoがその代役というにはあまりに贅沢すぎるボーカルを響かせる。声質も畳野と似ているということもあってか、こうした音源とは違う人が歌う時に感じる違和感を全く感じることがないあたりはさすがachicoの歌声とアジカンの人選である。
そうして細かくハイハットを刻んでいたかと思えば、大らかさと雄大さを感じさせるビートで曲のスケールを感じさせる伊地知のドラムが変幻自在に叩き出す「ダイアローグ」では間奏のギターソロで早くも喜多が枠の中を飛び出してステージ前まで出てきて弾きまくる。戻る際にローディーの方にシールドを直してもらうのはもはやご愛嬌であるが、アウトロでのOasis「Rock 'n' Roll Star」的な演奏はよりダイナミックかつサイケデリックに(さらに長尺に?)なっているというのはこのツアーで練り上げられてきたのがこうしたセッション的な部分にも及んでいるということがよくわかる。アジカンほどのキャリアを持つバンドでもツアーを回ることによって曲や演奏が進化しているというのはロックバンドの生き方はどんな時代になっても変わることはないということを示しているかのようである。
メンバーたちを取り囲む枠が白く発光する中、ステージ背面には無数の額縁のようなものが飾られており、その下にランプのようなものが吊るされていて、照明のような効果を醸し出しているということがよくわかる「スローダウン」を終えると、
「どうもこんばんは、ASIAN KUNG-FU GENERATIONです」
とゴッチが挨拶し、
「ツアーももう前半戦は今日と来週の日比谷野音だけっていうことで、なかなかツアーもライブも満足に出来なかった期間があっただけに、本当にこうやってライブができる、みんなの前で音を鳴らせる喜びを噛み締めてます。ありがとうございます。
気が早いかもしれないけど、来年も俺たちツアーやろうとしてます。ライブハウスにするかホールにするかはまだ話し合わないといけないけど、みんながなるべく伸び伸びできる場所がいいなとは思ってる。だってさ、息子の修学旅行が中止になったりしてる中で
「お父さんは金曜日にアジカンのライブに行ってくるから」
なんて言われたら、
「え、お父さん?僕の修学旅行中止になったのに?」
って思うじゃん(笑)」
と、まさかのゴッチの一人二役コント的なMCはゴッチをはじめとしたメンバーたちが自分たちのライブにはどんな年齢層の人が多く来ているのかをわかっているからと言えるだろう。もちろん若い人も客席にはたくさんいるけれど、家族で一緒に来ているような人たちもたくさんいるというのがわかるのはこうしたホールという席がある会場ならではである。
そんなゴッチは
「山ちゃんの曲の評判が良いと嫉妬するけど、俺も山ちゃんの曲の中ではこの曲が1番好き。最新の曲だからかもしれないけど」
と山田の作曲能力を珍しく褒めちぎると、その褒められた山田と喜多がゴッチの方を指さすという、今のアジカンのメンバー同士の関係性の良さを示す中で演奏されたのはその最新の山田作曲の「雨音」。
この曲をゴッチが気に入っているのは、今までの山田曲はどちらかというとアジカンの王道的な、ある意味では予想の範疇にある曲が多かったけれど、この曲は全くそうではない、むしろそうしたアジカンの王道を近年はゴッチ以上に担ってきた山田だからこそ、こんなに浮遊感のあるサウンドの曲を作ってきたという驚きによるところもあるだろう。だからこそクレジットを見た時は「これ山田曲なの!?」と驚いたものであるが、こうした曲ではGeorgeのキーボードのサウンドがライブにおいてもより重要になるのだが、そのGeorgeもsumikaのゲストメンバーになって得たものか、体を揺らしたり手拍子をしたりと、音を鳴らしている楽しさをより体で表現するようになってきている。
その山田がシンセベースを弾くのもおなじみになってきている「触れたい 確かめたい」もやはり音源の塩塚モエカ(羊文学)に変わってのachicoとゴッチのツインボーカルとなるのだが、このツアーだけ、しかも全箇所に参加しているわけでもないのにこんなにこの曲を歌いこなしているachicoはやはり只者ではないと思うのだが、色鮮やかな照明が次々にメンバーたちを照らすダンスロックチューン「ラストダンスは悲しみをのせて」を伊地知の力強いドラムとGeorgeの小刻みかつリズミカルなパーカッションによる演奏で鳴らすと、ゴッチがサポートを含めてバンドメンバーを紹介し、
「暗い曲だけど」
という言葉に合わせるように薄暗い照明が曲のイメージを作り上げている「Gimme Hope」へと繋がるのだが、
「銃を握った 君たちの 指先の掛かった引き金で
誰かを撃つなら僕にして 亡骸は海へ捨ててよ」
というフレーズが先週起こった銃撃事件によってよりリアリティを感じさせるものへとわずか2ヵ月の間に変化している。その事件についてもゴッチはまた散々「今さら何をほじくり返してんだ」とゴッチになんやかんや言う奴に言ってやりたくなるくらいに言われていたけれど、それでもこうしてステージに上がって歌って、最後にはタイトルフレーズがオクターブが上がることによって希望を感じさせてくれるようになっているのは本当に強いと思うし、ゴッチになんやかんや言ってるわけのわからない奴らよりも自分はゴッチのことを心から信頼している。それはゴッチが今までやってきた活動などをずっと見てきて、ゴッチの方が我々の生活や社会のためにそうした活動をしてきたということを知っているからだ。そこにどうこう言われたとしても「いや、お前なんかよりゴッチのそういう活動を見てきたし」と一刀両断できるのもゴッチ自身が歌っている姿で我々に力や希望を与えてくれるからである。
そのゴッチがイントロのギターを鳴らしただけで会場の空気が一変する「ソラニン」からはアジカンの誇る名曲たちの連発に次ぐ連発で、伊地知のドラムの力強い連打による「無限グライダー」はアジカンと出会った時からライブでやっていた曲を、それからおよそ20年くらい経って、バンドにも自分にも色々なことも変化もあったけれど、ずっとアジカンのライブを見れてきて、今でもこうしてこの曲をライブで聴くことができているという事実に勝手に感極まってしまいそうになる。ステージ上方が青く染まっていたのは、グライダーが飛ぶ空の色がそうした澄み切った色であったはずだからだ。
と、ここまでに演奏された曲は三郷の初日の時と全く変わらないのだが、その日には「マーチングバンド」が演奏された16曲目はこの日は真っ赤な照明にメンバーが照らされる「サイレン」が演奏された。ツアー中に他の会場でもこの曲は演奏されていたらしく、道理で伊地知のドラムも喜多のギターも力強いはずであるが、カップリングバージョンのいわゆる「裏サイレン」のコーラス部分では喜多とachicoの声が美しく重なっていく。それはきっとこのツアーでしか見ることができない形での「サイレン」であり、こうして同じツアーを何本も観に行くという選択をして本当に良かったと思っている。アジカンのツアーでその選択をして後悔することは絶対ないと思っているけれど。
打ち込みのビートが流れての「新世紀のラブソング」とさらに名曲の連発っぷりは続くが、この曲のそうしたデジタルなサウンドを担うGeorgeの存在とゴッチのボーカルに重なるachicoのコーラスもやはり今回のツアーだからこその形であるのだが、ゴッチは曲終わりでふいにハミングするようにメロディを口ずさむ。三郷の時には確かなかったようなその姿が、完全にゴッチがゾーンに入っていることを感じさせてくれるのだが、その状態で演奏された「荒野を歩け」はachicoと観客が手拍子を打ち鳴らす中で、間奏では喜多が枠の中を飛び出してゴッチに近付いてギターソロを弾きまくる。その喜多に「あっち行け」とばかりに笑顔で振り払う素振りを見せるゴッチ。その様子を見てサポートメンバーたちも笑い合っている。そんな幸せな空気感に包まれていると、喜多は最後のサビ前で宙に向かってパンチを高速で連発するような仕草を見せる。ゴッチだけではなくて喜多も完全に入り込んでいる。リリースしてから基本的にはずっと演奏され続けてきた曲であるし、見れるアジカンのライブは極力見てきたから数え切れないくらいにこの曲をライブで聴いてきた。そんな曲でこんなにも今までにないくらいに「なんてカッコいいんだ」と思うことができる。これだからアジカンのライブに行くのはやめられない。こうやって何回も聴いてきた曲が凄まじい進化を果たすのを見れるから。この曲から確かにそれまでとは違うスイッチが入ったような感覚があった。
それはそのままゴッチのボーカルが高く強く伸びていく「Standard」へと繋がっていく。紛れもなく最高にカッコいいロックバンドがここにいる我々一人一人に向かって願いを込めるようにして歌っている。「荒野を歩け」からずっと魂が震えっぱなしだった。そしてやっぱり初日の三郷とは全然違うライブだと思った。それをこのツアーでバンドは繰り返してきて、だからこそ何公演も追いかけている方々が全く飽きることなく毎公演見ることができているのだろう。
そんな熱演から一息つくようにゴッチは
「考えていることも信じていることも何もかもが違う我々が、今こうやって千葉県市川市に集まっている。それは決して偶然ではないと俺は思っている」
と言った。そんな、ここにいる全然違う人たちに唯一共通しているのは、みんな「アジカンが好きで仕方ない」ということ。だからこんな平日の18時30分スタート、しかもめちゃくちゃ雨が降っている中でもこうやって集まることができているし、それこそが何よりも幸せで何よりも強い共通項だと思っている。思想が同じ人でも夜通し話すことなんてきっとできないけど、アジカンが好きな人同士ならアジカンへの思いを語り合うだけで余裕で一晩明かせる。なんならアジカン縛りカラオケだけでも朝までいける。それくらいにアジカンとその音楽の存在が我々を強く結びつけてくれている。
そんなMCの後に最後に演奏されたのは、そんなここにいる全員の精神を解放してくれるかのような「解放区」。ゴッチのポエトリー的なボーカルも身振り手振りが強く加わることによって、いつも以上に思いを込めているのが伝わる中で、最後のタイトルフレーズの歌唱ではメンバーの声が何層にも重なっていく。いつかまた近い未来にその層を我々の声で少しでも分厚くすることができたら、と思いながら、
「笑い出せ
走り出せ
踊り出せ
歌い出そう」
と肉体と精神両面での解放を強く促すと、メンバーを取り囲んでいた枠がスッと上空に引き上げられて行った。それはメンバーが真っ先に解放されたのを示すかのように。
アンコールではメンバー4人だけでステージに登場すると、ゴッチが
「珍しく告知をします(笑)」
と、自身が参加した、南相馬の酒蔵の麹に聴かせるためのアンビエントCDの告知をするのであるが、
「ツアーで毎回告知してきて、3桁あった借金が2桁まできた(笑)生活する金を得るために出したCDが借金になるっていう(笑)」
というアジカン以外の活動の場での自虐っぷりは変わらないが、
「このCDに参加してるような、普段働きながら音楽やってる人たちのレコーディングとかを手伝わせてもらうことがあるんだけど、もう時間もないからやりたいことしかやる時間がないっていうか。スタジオに水曜日の夜中に集まって、終電までの勝負だったりとか。
でもそういう人たちの鳴らしてる音って本当に人生そのものが鳴ってる。だからその音を聴いてるだけで涙が出ちゃうっていうか」
というのは実際にその現場を見ているからでもあり、かつて自身も社会人として就職しながらアジカンをやっていた時期と重なるところもあるのだろう。だからそうした人たちに借金をしてでも力を貸している。ゴッチがどういう人間なのかということが本当によくわかるエピソードである。
そんなゴッチ、アジカンはかねてから制作されているという情報のあった「サーフ ブンガク カマクラ 完全版」がついに形になってきているようで、この日はその中から藤沢の少し先の駅の曲である「柳小路パラレルユニバース」を演奏するのだが、すでにタイアップになることが発表されている「出町柳パラレルユニバース」とこの曲はメロディは同じで歌詞が違うという「ほとんど同じ曲」であることが明かされるのであるが、それは湘南で青春を過ごしたアジカンの「柳小路パラレルユニバース」と、京都で青春を過ごしたタイアップ元の作家の森見登美彦の世界がパラレル的に重なるということを同じ歌詞によって表現した曲であるという。実際のサウンドは確かに「サーフ〜」期のストレートなパワーポップという久しぶりのアジカンのサウンドになっているが、やはりこう聞くとそれぞれの歌詞をじっくり見たくなるのである。
そのまま4人だけでセッション的な演奏が展開されての「Re:Re:」では枠が取り払われたことによって喜多がより自由に動き回り、スピーカーの前という他のメンバーが見えないであろう位置にまで行ってギターを弾くのであるが、それは喜多なりに少しでも観客の近くに行って演奏したいという思いの現れであろうし、その喜多に引っ張られるように山田も珍しくステージ前まで出てきてベースを弾く。表情はあまり変わらないけれど、ゴッチや喜多と同じように山田も燃えているのがわかるし、
「君じゃないとさ」
のフレーズを力一杯に歌い上げるゴッチの姿を見ていて、本当にゴッチじゃないと、アジカンじゃないといけないんだよと今までよりもまた強く思っていた。
するとここで再びGeorgeとachicoを呼び込み、ゴッチはachicoに
「Ropesってどういう意味でつけたの?」
とバンド名の由来を問いかけ、
「なんか意味がなさそうな名前にしたいと思ったんだけど、意味ありげになっちゃったね…(笑)」
と困惑させ、GeorgeにもMop Of Headの由来を問いかけると、まさかそれを言わされることになるとは全く想定していなかったであろうGeorgeは
「なんか、天然パーマ的な名前にしたくて…(笑)」
と言って恥ずかしさのあまりにその場に倒れ込んでしまう。まさかGeorgeのこんな姿が見れるとはsumikaのゲストメンバーの時にも思っていなかったことである。
さらにそのゴッチの魔の手は伊地知のPHONO TONESにまでも及ぶのであるが、伊地知はマイクを持っていないためにゴッチに向かって
「レコードのフォノ端子から取った」
と言い、それをゴッチが観客に伝えるのだが、結論としては
「バンド名の由来は聞かない方が良い」
というどうしようもないものであった。それでもゴッチは
「アジカンはバンド組む前から名前を考えてた(笑)結成する前から名前決まってるって凄いよね(笑)だから山ちゃんが入る前からすでにアジカンだった(笑)
(山田は加入当初は正式名称を知らなかったという衝撃の告白をする)
ミッシェル・ガン・エレファントみたいな単語3つの名前がいいなと思って。あと組む前からすでに海外でライブやりたかったから、Asiaを入れようと思って。アジアから来たんだなって思うじゃん。でカンフー映画にもハマってたから。浪人時代の俺を救ってくれてたのはカンフー映画とロックンロールだったから。ジェネレーションはまぁつけた方が締まりがいいかなって(笑)」
とアジカンの名前の由来を語るのだが、MCが長くなりすぎたことには少し反省気味だった。でもそれは裏を返せばそれくらいにこの日に伝えたいこと、言いたいことが溢れてくる状態だったということだろう。それはゴッチがこの日のライブが楽しかったと感じていたということでもある。
そんなライブの締めは三郷の時と同様に、喜多が自身の声にエフェクトをかけながらワウワウと歌い、しかもしっかりギターまで弾きこなす「C'mon」から、achicoの導入的なタイトルフレーズのコーラスがバンドを引っ張っていく「Be Alright」という「プラネットフォークス」の曲の2連発。そのタイトルフレーズに宿る「Be Alright」という希望を抱く感覚は、初日よりも状況が悪くなってきつつある社会の中であっても、初日よりもはるかに強い手応えを感じた。それはツアーでこの曲を演奏してきたことで練り上げられてきたアジカンのアンサンブル、グルーヴの強さが確かにそう感じさせてくれたのだ。最後にサポートメンバーも含めて6人で肩を組んで観客に一礼する際の全員の表情を見て、こうしてこの会場でアジカンを見ることができて本当に良かったと思っていた。
UNISON SQUARE GARDENやsumika、まだ大ブレイク前のSEKAI NO OWARI(しかも何故かこの会場がツアーファイナルだった)から、NICO Touches the WallsやPlastic Treeという地元と言えるようなバンドまで。様々なバンドのライブをこの会場で見てきた。何ならアジカンも「ホームタウン」ツアーの時にもこの会場で見れているけれど、やっぱりアジカンがこんなところにまで来てライブをしてくれて、地名を口にしてくれるというのが本当に嬉しい。
後はステージ上の7つの枠のうち、後列中央の枠に誰かが入る姿を見れたら最高だなと思っているのだが、きっとそれが実現するであろう翌週の日比谷野音はチケットが取れなかったので幻のままで終わりそうである。
それでも、色々ありすぎる社会状況の中でアジカンを見ると、やっぱり自分にはアジカンが絶対に必要な存在だと思える。それはそれくらいにゴッチが、アジカンが誰よりも社会と密接した活動をしてきたバンドだからだ。これから先、どんな状況の世の中になってもそれは絶対に変わることはない。それがハッキリと再確認することができた「プラネットフォークス」ツアーだった。
1.De Arriba
2.センスレス
3.トラべログ
4.惑星
5.You To You
6.エンパシー
7.UCLA
8.ダイアローグ
9.スローダウン
10.雨音
11.触れたい 確かめたい
12.ラストダンスは悲しみをのせて
13.Gimme Hope
14.ソラニン
15.無限グライダー
16.サイレン
17.新世紀のラブソング
18.荒野を歩け
19.Standard
20.解放区
encore
21.柳小路パラレルユニバース
22.Re:Re:
23.C'mon
24.Be Alright