リーガルリリー 「Light Trap Trip」 @Zepp DiverCity 7/5
- 2022/07/06
- 18:53
今年になっていきなりの傑作アルバム「Cとし生きるもの」をリリースし、そのツアーではホールワンマンも敢行して新しい一歩を踏み出した、リーガルリリー。
その2月のホールワンマンであった中野サンプラザのステージで告知されたのが、新しいツアーの開催。それは「Light Trap Trip」という名のコンセプトが強いツアーであることも語られていたのであるが、かつてもプラネタリウムで美しい音と光景を描いたライブをやっているバンドであるだけに、その演出がどんな形でバンドの爆発力を引き出すのか。
Zepp DiverCityはロビーの中すらも薄暗くなっており、客席の中に入ると緑色の照明が客席側を照らしながらも、ステージはハッキリとは見えないようになっており、ずっと川の水が流れるような音が流れている。この段階からしてすでに普段のライブと違うことがよくわかるのであるが、何よりもZepp DiverCityの床には椅子もなければ立ち位置指定の目印もない。こうやって自分の好きな場所で、好きな角度からライブを見れるということがどれだけ嬉しいことかということを噛み締めすぎて、ライブが始まる前から感動してしまっていた。
19時を少し過ぎたあたりでまだ川のせせらぎの音が聞こえてくる中で緑色の照明がゆっくり暗くなると、そのままスッと3人がステージに登場。下手にゆきやま(ドラム)、中央に海(ベース)、上手にたかはしほのか(ボーカル&ギター)という三角形を描くような立ち位置・配置なのは変わらないが、海は髪色が光の当たり具合によって白くというか銀にも見えるし、青や緑にも見える。とにかく鮮やかな髪色をしているということである。
そのままたかはしがギターを鳴らし、そのギターの一音目だけでも爆音、轟音っぷりに驚くのは「Cとし生けるもの」のオープニング曲である「たたかわないらいおん」なのだが、そこにリズムの2人の音が重なっていくことによってその轟音はさらに大きく、美しくなっていく。それは自分の好きな場所に立って見ることができるからこそ、スピーカーに近い位置やPAの近くという自分が聴きたいサウンドの位置で見ることができるという要素もあると思う。
たかはしが
「リーガルリリーです」
と挨拶だけすると、ステージ背面と上方からの照明がメンバーを仄かに照らす中、サビではメロディが突き抜けていくことによってその照明もまた一気に光を増すのは「風にとどけ」であり、たかはしによる
「おかしくて おかしくて 涙が出そうだ 涙が出そう」
のファルセットギリギリを攻める(でもそれはきっとそう歌おうと狙ったわけではなくて、できた曲がそうしたキーのものだったというくらいの感じなのだろう)ボーカルが切なさを加速させると、そのたかはしは曲間に少しMCとは異なるような口調で言葉を口にしてから次の「東京」のタイトルを口にする。その言葉自体はハッキリと聞き取れるものではなかったのであるが、その普段とは異なる、言葉による曲と曲の繋ぎ方がこのライブがコンセプチュアルなものであるということを演出とは違った形で示してくれる。
その「東京」は「東京」というタイトルであるにもかかわらず
「ナイジェリアの風が ライターの火に話しかける」
という、たかはしのぶっ飛んだ思考を示しつつ、リーガルリリーの「東京」はイメージとしての「東京」という曲とは全く違うことを示すのであるが、どこか「風にとどけ」の風が異国の地から東京まで届いたかのようであるし、間奏から一気に轟音っぷりを増すのがどこかバンドのスイッチが入ったかのようにも感じられる。つくづくどうやったら「東京」というタイトルでこんな歌詞や構成の曲が生まれるんだろうかとすら思ってしまうし、そんな曲を生み出すたかはしはもう初めて観た時から6年も経っているけれど、今も変わることなく小学生に間違われても仕方ないくらいにその出で立ちは幼いままだ。どこか生きている時間軸が我々とは異なっているからこそ、こうした曲を生み出すことができているかのように。
朗読的な言葉を挟んだと思いきや、今度は一転して全く曲間を挟むことなく海の重いベースのイントロによって始まる「1997」へと至るのであるが、曲後半のたかはしのポエトリーリーディング的な部分(これもまたやっぱり凄まじい構成である)ではステージが暗くなり、一筋の照明がたかはし目掛けて明滅し、そのポエトリーリーディング的な部分が終わると再びステージ全体を照らすというようにリアルタイムでスイッチされるのが演奏だけではない演出としてのライブらしさ、スリリングさを感じさせてくれる。それはリーガルリリーチーム全体でライブを行っているということでもある。
コンセプチュアルなツアーということはそのコンセプトに即した曲が演奏されるということでもあるのだが、イントロからのたかはしの刻むギターの音が向井秀徳(NUMBER GIRL, ZAZEN BOYS)いわく「ハガネの振動」であるということを実感させるような鋭さを感じさせてくれる「きれいなおと」も含めて「Cとし生けるもの」の曲が多く並んだのはこのアルバムの曲がそのコンセプトに即したものであり、こうして鳴らしたい自信に満ちたものであることがわかるのだが、サビでの解放感あふれるメロディと、メンバーを照らす神聖な光が相まって、まさにきれいなおとは今我々の目の前で鳴っている音なんだなと思わせてくれる。だからこそ演奏するメンバーの姿がより神々しいものに見えてくる。
やはりたかはしの朗読的な言葉はハッキリとは聴きとることはできないのであるが、それはその後に演奏された、たかはしのギターとゆきやまのバスドラの4つ打ちが疾走感を感じさせる「ほしのなみだ」の爽快なサウンドとメロディがその言葉の記憶を塗り替えてしまったのかもしれない、とすら思っていると、海とゆきやまがイントロでコーラスを重ね、サビではその2人が跳ねるようなリズムを刻み、実際に海は飛び跳ねるようにベースを弾く「ぶらんこ」という初期の曲の選曲は嬉しかった人も多いと思われるが、ほとんど真っ暗な暗闇状態の中で聴くこの曲はどこか夜の公園で2人でブランコに乗りながら夜空を眺めているような、そんな情景を脳内に浮かばせる。もちろんそれはたかはしの歌唱、メンバーの演奏がそうした表現力を持っているからこそ感じられることだ。
中野サンプラザでこのタイトルが発表された時に、それに似合うだろうなと思っていた曲が「蛍狩り」なのだが、ライブではクライマックスを担うものとしておなじみの曲が早くもこの前半で演奏されるというのは少し驚きである。
しかしそのコンセプトに合わせるように、ステージ上には「こんなにたくさんステージ上照明があったのか」と思ってしまうくらいに数々の照明のみがまるで蛍の光のように輝く。その光はもう今やなかなか見ることが出来なくなってしまったものでもあるのだが、この曲とこの演出がはるか昔、幼少期に確かに観たことがあるその美しさを思い出させてくれる。曲後半のたかはしによるポエトリーリーディングはその蛍の命の短さによる儚さをも思い出させてくれるかのようだ。
そうして早くもクライマックス的な光景を描き出した後には再び初期曲の「ジョニー」へ。この曲が持つ軽快さは今のゆきやまと海のリズムによって重さを感じるようにもなっているのだが、それがそのまま
「ばかばっかのせんじょうに…」
というサビのフレーズをより重いものとして捉えさせる。それはもちろんそのフレーズがリアリティを増してしまった世の中になってしまったからということもあるだろうし、それを6年も前にリリースされた曲から感じてしまうというのは、やはりたかはしは預言者のように我々とは違う時間軸、世界線を生きているんじゃないかと思ってしまう。
そんな中で先ほどは蛍の光を思わせるように輝いていたステージ上の照明が、今度はメンバーの姿を背後から照らすことによって、人間そのものの美しさを感じさせてくれるのは、どこか穏やかに鳴らされていくような感覚もあるけれど、確かな情念の強さがその音に宿っている「うつくしいひと」。特に
「アイネクライネ
アベマリア」
というサビのフレーズを歌うたかはしのボーカルはどこかライブだからこそ力を込めるかのような独特の揺らぎがあるからこそ、そこに込められた感情を感じ取ることができるのだ。
「9mmの銃弾の下には美しい花がありました」
という、ハッキリと聞き取れる朗読の後に演奏されたのはもちろんそのままタイトルへと連なる「9mmの花」。やはり穏やかな曲かと思いきや、後半で急にスイッチが入ったかのようにギターもリズムも轟音と化す。それがそのまま客席の熱量として伝わっていくのだが、その轟音と美しいメロディが混ざり合うというシューゲイザーバンドのような音像へと変化するからこそ、
「奪われた過去も未来もあなたが時とともに取り込んだ
これで最後の話になるけれど
私、あなたを愛してる。」
という締めのフレーズの切なさをより加速させる。轟音が止まると、もうその2人が会話を交わすことはできないんだなと現実に戻されるかのようでいて、まだ物語の中にいるかのような。
その花はバラの花なんじゃないかと思わせるように、その種類の名を冠した神聖なサウンド、メロディ、ボーカルの「アルケミラ」へと繋がると、ステージを照らす照明は開演前と同じ緑色になる。それはアルケミラそのものの色合いなんじゃないかとも思うけれど、曲終わりでステージ背面に巨大なスクリーンが登場し、そこに山の中を流れる川のせせらぎの映像が映し出されるというのは明確にここから開演前の回収に入るということであろう。
とはいえもはやライブハウスのスケールすら超越した、アリーナクラスでこの曲が演奏されるのを聴きたいとすら思う「GOLD TRAIN」はそのロックバンドとしての生々しい音に焦点を絞るかのように映像的な演出は使われなかったのであるが、続く「惑星トラッシュ」では一転して都心のビル群の映像が映し出され、曲が進むにつれてその情景は昼から夜へと変化していく。その自然と都会という相反する要素も含めて、それはリーガルリリーがこれまでに歌にしてきたテーマでもあるのだが、普段は都会の夜景とかを見ても特にキレイだとも思わないような自分がそうした映像を観て「美しいな」と思ったのは、目の前で鳴らされている音が何よりも美しくて、その音にその情景が重なっていたからだ。そしてその夜景は夜空に輝く星の光へと切り替わっていく。その瞬間にこのライブの最大のテーマが「光」であることがハッキリとわかる。それもまたリーガルリリーがずっと歌にし続けてきたものだ。
するとスクリーンには一転して炎がゆらめくような演出が映るのは久々に聴く感じのする「教室のしかく」で、さらにはそのスクリーンに演奏しているメンバーの影が映るのはたかはしが
「16歳の時からずっと曲を作っていて、未完成なものや形にならなかったものもたくさんあるんですけど、次の曲はそうやって完成しないままだった曲に今になって2番以降をつけた」
という曲が生まれたエピソードを語った「教室のドアの向こう」。スクリーンに映るそのメンバーの影が光の当たり具合によってメンバーの姿をより巨大化させており、立ち位置もたかはしが真ん中、左側に海、右側にゆきやまという形で映るのであるが、そもそもがライブで化け物のような音を鳴らしてきたリーガルリリーの3人が本当に巨人になったかのように見えるし、どこにでもいるような女子のように見えるこの3人の中にはこうした巨大な衝動が渦巻いているかのようだ。
そうした「教室」をテーマにした、しかし教室にいた頃とそこへ足を踏み入れることがなくなった年齢という視点の違う2曲を続けた後には後半にさらに突っ走るようにして「中央線」が鳴らされ、まさに電車が走るかのような疾走感あふれるサウンドで鳴らされる。この前に演奏された「教室のドアの向こう」にも
「中央線は今日も人が死んでしまったね。」
というフレーズがあるだけに、よくサブカルの聖地のメタファーとしても歌詞に使われる「中央線」はたかはしの中では全く違うものとして捉えられているようだ。それは自身が日々中央線を使っているからこそ得た感覚なのかもしれないけれど。
そうした「Cとし生けるもの」を中心としたコンセプチュアルなライブの根幹を担うのは、たかはしが改めて「光」がこのライブのテーマであり、そこには様々な色の闇が存在しているということも語るのであるが、やはりその際の言葉もたかはしならではの、常人の語り口とは違うものになっているだけに実に文章化しづらいのであるが、不思議とその場にいるとたかはしが何を伝えたいのかがちゃんとわかる。
そうしたこのライブのテーマ、コンセプトを口にした後に演奏されたのは「Cとし生けるもの」の中でタイトルからも最も強い光を感じさせる「セイントアンガー」。
「その日暮らしの僕ら ひぐらしを聴いて
明日の暮らしビールで流す そんな暮らしでも」
という歌い出しのフレーズがどこか夏の到来を感じさせる中で
「ホームレスのおじさんはレーシックできるお金持ってない
野球選手は割れないようにやさしく」
というたかはしならではというか、たかはしでしかない歌詞とともにゆきやまのビートも加速していくと、
「みんな光りかた探していた」
というサビのフレーズではまさに光が照明としてだけではなくて、音としても降り注ぐかのようにたかはしのボーカルに海のコーラスが重なっていく。リーガルリリーの3人にとっての光り方はやはりこうやってバンドで音を鳴らし、その音の光で目の前にいてくれる人を照らすということであることを示すかのように。
そして轟音のビートが追加されたイントロから雪崩れ込んでいくというライブならではのアレンジが施されてからおなじみの軽快なイントロのリズムにつながっていくのは「リッケンバッカー」であるが、コンセプチュアルなライブであるだけに、ライブで毎回演奏されてきたこの曲ももしかしたら今回はセトリに入らないかもしれないとも少し思っていた。それでも成立するようなライブをここまでの3人はしっかりと作り上げてきたから。
でもこの曲を鳴らす姿を見ていて、何よりも
「おんがくよ 人を生かせ 生かせ 生かせ」
というフレーズに込めたものは確かに音楽がそれを必要とする人にとっての光であるということだった。それはこのライブのコンセプトを曲がそのまま体現しているようであり、やはりリーガルリリーにとっての最大のキラーチューンであるこの曲はライブには欠かせないことはもちろん、この曲の時点ですでにリーガルリリーは光を歌っていたんだということがよくわかる。
これは前にもこの曲のレポで書いたかもしれないが、よく「バンドは生き物だ」ということを耳にする。簡単に死んでしまうし、変わってしまうし、止まってしまうバンドは確かにそれがそのまま生き物である。
でも何よりも生き物だと思うのは、我々が日々の生活の中で毎日違う感情を抱いたり、バイオリズムが変わるように、この曲を演奏している時のリーガルリリーが毎回全く違うからだ。何度聴いたかわからないくらいにライブで聴いてきたし、その度に「なんなんだこの凄まじさは」と思うくらいに、特に間奏でゆきやまのビートが一気に加速するあたりからは何度も体と心が震えるような体現をしてきた。でもそれは前に観た時や今までに観た時のものとは全く違う。だからこそこのツアーの中でもこの曲は毎回違うものだったんだろうなと思うし、「バンドは生き物だ」ということを最もリアルに感じさせてくれる瞬間はこのバンドがこの曲を演奏している時だったりするのだ。
そんなライブの最後には「Cとし生けるもの」の最後を担う曲でもある穏やかなサウンドの「Candy」が演奏され、メンバーの影や様々な映像など、この日使われた演出を総動員するようなものになっていたのがライブのエンディングテーマ的でもあった。それはリーガルリリーが「自然と都市」、「朝と夜」、「光と闇」という相反する様々なものを自分たちの音楽によって表現してきたことの集大成でもあるかのようであり、最後に映像に映し出された猫の姿には思わずライブならではの集中力を伴った(リーガルリリーのライブでは特に)緊張感が解されていくような感覚があった。
アンコールでは海とゆきやまが先にステージに登場。照明の色が変わらずにしっかりと見ることによって、海の髪色が水色というか、まさに海のような色であることが改めてわかるのだが、今回のツアーのタイトルを考えたのはその海であり、光にまつわる単語をつけようとタイトルを考えていたところ、「Light Trap」というお祭りの光に虫が集まってくるという現象が、こうして我々がリーガルリリーのライブに集まってくるというところに通じると感じたことでそのタイトルをつけたという。
ゆきやまはこの7月5日がその海が加入した記念日「海の日」であることを告げ、その日を迎えるのが今年でもう4年目であるという。自分が初めてリーガルリリーのライブを観た時はまだこの3人になってはいなかったのだが、もうこの3人になってからそんなに時間が経ったのかと思う。
そこにたかはしも加わると、ツアーファイナルならではの嬉しいお知らせとして、まずは海から秋に東名阪で2マンツアーを行うことが発表されるのだが、その対バンの相手が凄まじい相手になっているという気になり過ぎる口ぶり。確かに東京がZepp Hanedaという大きな会場であることから、これはかなりの集客規模のバンドだと思われるし、仮にリーガルリリーがこれまでにカバーしてきた楽曲のバンドだったりしたら本当にとんでもないことである。
リーガルリリーは新人時代は出演したこともあったけれど、なかなか今は大きなフェスに出たりすることがなくなった。毎回出てるのはBAYCAMPくらいである。それだけに、そうした今までライブを観たことがない人の前でライブができる機会が欲しいと思っていた。そうすれば初めて観る人が絶対に「すげぇライブをやるバンドだ…」と思ってくれると信じているから。発表された対バンツアーがそんな機会になってくれたらと心から思う。
そしてたかはしは新作配信EPのリリースを告知すると、その後に演奏されたのはその新作に収録される新曲「ノーワー」。タイトルの意味はまだ詳細にはわからないが、EPのタイトルが「恋と戦争」というものであるだけに真っ先に頭の中で「No War」へと変換された。
「君は全てを体に入れてトイレで吐いた。吐いた。食べ残すこと許せなかった。
物足りない、今日はまだ終わりじゃないと夜は進んだ」
という歌い出しのフレーズは戦争を仕掛ける側と仕掛けられた側とのメタファーのようにも取れるし、
「ノーワーノーワーのごり押しで対立が始まって」
というサビのフレーズはまさにと言っていいだろう。わかりやすい、明確なメッセージを歌詞にするようなバンドじゃない。それでもたかはしの歌詞には、リーガルリリーの曲には確かなメッセージが宿っている。それは生きていて感じてしまう感情がたくさんあるくらいに敏感だからだ。それを自分の言葉で音楽にし、それが今この瞬間だけに響くものではない普遍性を持った曲になっていることが一聴しただけでわかる。つまりはリーガルリリーの新たな名曲の誕生ということである。
そんなライブの最後に演奏されたのは、3人それぞれが鳴らす、バラバラなように感じるような轟音が不思議なくらいに一つの塊となって迫ってくるような「せかいのおわり」。それはこの曲を持って「Light Trap Trip」という世界は終わるけれども、終わることによって新しく始まることがあるという、進み続けるバンドの意志を示すかのようであった。
リーガルリリーのライブを観るといつも姿勢を正されるというか、売れるようにとかそうした要素を度外視するように、メンバーたちが無垢なる狂気と言えるくらいに純粋に自分たちが鳴らしたい音を鳴らしているのがわかるからこそ、自分もこれからも純粋にライブに、音楽に向き合いたいと思う。
このアーティストについてSNSで書けばバズるとか、たくさんの人に共感してもらえるとか、そういう要素一切なしに、例え聴いている人の人数がそこまで多くはなくても、ただただ鳴っている音楽が美しいものであるから、それを感じるためにライブに行く。自分もそんな純粋さを貫いていきたいとリーガルリリーのライブを見るたびに思うのだ。
ツアーのテーマに掲げている通りに、リーガルリリーは光を歌う曲を多く生み出してきた。そんな曲を持って今まで以上にいろんな場所でのツアーを回るということは、その光をいろんな場所に当てに行くということ。そしてツアーが終わればまたすぐに次のツアーが発表される、こうしてリーガルリリーの音楽を浴びる機会がすぐに来るという活動サイクルもまた、ここにいる人たちの光になっているはずだ。リーガルリリーがそんな光のように輝くバンドであることを感じさせてくれるようなツアーだった。
1.たたかわないらいおん
2.風にとどけ
3.東京
4.1997
5.きれいなおと
6.ほしのなみだ
7.ぶらんこ
8.蛍狩り
9.ジョニー
10.うつくしいひと
11.9mmの花
12.アルケミラ
13.GOLD TRAIN
14.惑星トラッシュ
15.教室のしかく
16.教室のドアの向こう
17.中央線
18.セイントアンガー
19.リッケンバッカー
20.Candy
encore
21.新曲
22.せかいのおわり
その2月のホールワンマンであった中野サンプラザのステージで告知されたのが、新しいツアーの開催。それは「Light Trap Trip」という名のコンセプトが強いツアーであることも語られていたのであるが、かつてもプラネタリウムで美しい音と光景を描いたライブをやっているバンドであるだけに、その演出がどんな形でバンドの爆発力を引き出すのか。
Zepp DiverCityはロビーの中すらも薄暗くなっており、客席の中に入ると緑色の照明が客席側を照らしながらも、ステージはハッキリとは見えないようになっており、ずっと川の水が流れるような音が流れている。この段階からしてすでに普段のライブと違うことがよくわかるのであるが、何よりもZepp DiverCityの床には椅子もなければ立ち位置指定の目印もない。こうやって自分の好きな場所で、好きな角度からライブを見れるということがどれだけ嬉しいことかということを噛み締めすぎて、ライブが始まる前から感動してしまっていた。
19時を少し過ぎたあたりでまだ川のせせらぎの音が聞こえてくる中で緑色の照明がゆっくり暗くなると、そのままスッと3人がステージに登場。下手にゆきやま(ドラム)、中央に海(ベース)、上手にたかはしほのか(ボーカル&ギター)という三角形を描くような立ち位置・配置なのは変わらないが、海は髪色が光の当たり具合によって白くというか銀にも見えるし、青や緑にも見える。とにかく鮮やかな髪色をしているということである。
そのままたかはしがギターを鳴らし、そのギターの一音目だけでも爆音、轟音っぷりに驚くのは「Cとし生けるもの」のオープニング曲である「たたかわないらいおん」なのだが、そこにリズムの2人の音が重なっていくことによってその轟音はさらに大きく、美しくなっていく。それは自分の好きな場所に立って見ることができるからこそ、スピーカーに近い位置やPAの近くという自分が聴きたいサウンドの位置で見ることができるという要素もあると思う。
たかはしが
「リーガルリリーです」
と挨拶だけすると、ステージ背面と上方からの照明がメンバーを仄かに照らす中、サビではメロディが突き抜けていくことによってその照明もまた一気に光を増すのは「風にとどけ」であり、たかはしによる
「おかしくて おかしくて 涙が出そうだ 涙が出そう」
のファルセットギリギリを攻める(でもそれはきっとそう歌おうと狙ったわけではなくて、できた曲がそうしたキーのものだったというくらいの感じなのだろう)ボーカルが切なさを加速させると、そのたかはしは曲間に少しMCとは異なるような口調で言葉を口にしてから次の「東京」のタイトルを口にする。その言葉自体はハッキリと聞き取れるものではなかったのであるが、その普段とは異なる、言葉による曲と曲の繋ぎ方がこのライブがコンセプチュアルなものであるということを演出とは違った形で示してくれる。
その「東京」は「東京」というタイトルであるにもかかわらず
「ナイジェリアの風が ライターの火に話しかける」
という、たかはしのぶっ飛んだ思考を示しつつ、リーガルリリーの「東京」はイメージとしての「東京」という曲とは全く違うことを示すのであるが、どこか「風にとどけ」の風が異国の地から東京まで届いたかのようであるし、間奏から一気に轟音っぷりを増すのがどこかバンドのスイッチが入ったかのようにも感じられる。つくづくどうやったら「東京」というタイトルでこんな歌詞や構成の曲が生まれるんだろうかとすら思ってしまうし、そんな曲を生み出すたかはしはもう初めて観た時から6年も経っているけれど、今も変わることなく小学生に間違われても仕方ないくらいにその出で立ちは幼いままだ。どこか生きている時間軸が我々とは異なっているからこそ、こうした曲を生み出すことができているかのように。
朗読的な言葉を挟んだと思いきや、今度は一転して全く曲間を挟むことなく海の重いベースのイントロによって始まる「1997」へと至るのであるが、曲後半のたかはしのポエトリーリーディング的な部分(これもまたやっぱり凄まじい構成である)ではステージが暗くなり、一筋の照明がたかはし目掛けて明滅し、そのポエトリーリーディング的な部分が終わると再びステージ全体を照らすというようにリアルタイムでスイッチされるのが演奏だけではない演出としてのライブらしさ、スリリングさを感じさせてくれる。それはリーガルリリーチーム全体でライブを行っているということでもある。
コンセプチュアルなツアーということはそのコンセプトに即した曲が演奏されるということでもあるのだが、イントロからのたかはしの刻むギターの音が向井秀徳(NUMBER GIRL, ZAZEN BOYS)いわく「ハガネの振動」であるということを実感させるような鋭さを感じさせてくれる「きれいなおと」も含めて「Cとし生けるもの」の曲が多く並んだのはこのアルバムの曲がそのコンセプトに即したものであり、こうして鳴らしたい自信に満ちたものであることがわかるのだが、サビでの解放感あふれるメロディと、メンバーを照らす神聖な光が相まって、まさにきれいなおとは今我々の目の前で鳴っている音なんだなと思わせてくれる。だからこそ演奏するメンバーの姿がより神々しいものに見えてくる。
やはりたかはしの朗読的な言葉はハッキリとは聴きとることはできないのであるが、それはその後に演奏された、たかはしのギターとゆきやまのバスドラの4つ打ちが疾走感を感じさせる「ほしのなみだ」の爽快なサウンドとメロディがその言葉の記憶を塗り替えてしまったのかもしれない、とすら思っていると、海とゆきやまがイントロでコーラスを重ね、サビではその2人が跳ねるようなリズムを刻み、実際に海は飛び跳ねるようにベースを弾く「ぶらんこ」という初期の曲の選曲は嬉しかった人も多いと思われるが、ほとんど真っ暗な暗闇状態の中で聴くこの曲はどこか夜の公園で2人でブランコに乗りながら夜空を眺めているような、そんな情景を脳内に浮かばせる。もちろんそれはたかはしの歌唱、メンバーの演奏がそうした表現力を持っているからこそ感じられることだ。
中野サンプラザでこのタイトルが発表された時に、それに似合うだろうなと思っていた曲が「蛍狩り」なのだが、ライブではクライマックスを担うものとしておなじみの曲が早くもこの前半で演奏されるというのは少し驚きである。
しかしそのコンセプトに合わせるように、ステージ上には「こんなにたくさんステージ上照明があったのか」と思ってしまうくらいに数々の照明のみがまるで蛍の光のように輝く。その光はもう今やなかなか見ることが出来なくなってしまったものでもあるのだが、この曲とこの演出がはるか昔、幼少期に確かに観たことがあるその美しさを思い出させてくれる。曲後半のたかはしによるポエトリーリーディングはその蛍の命の短さによる儚さをも思い出させてくれるかのようだ。
そうして早くもクライマックス的な光景を描き出した後には再び初期曲の「ジョニー」へ。この曲が持つ軽快さは今のゆきやまと海のリズムによって重さを感じるようにもなっているのだが、それがそのまま
「ばかばっかのせんじょうに…」
というサビのフレーズをより重いものとして捉えさせる。それはもちろんそのフレーズがリアリティを増してしまった世の中になってしまったからということもあるだろうし、それを6年も前にリリースされた曲から感じてしまうというのは、やはりたかはしは預言者のように我々とは違う時間軸、世界線を生きているんじゃないかと思ってしまう。
そんな中で先ほどは蛍の光を思わせるように輝いていたステージ上の照明が、今度はメンバーの姿を背後から照らすことによって、人間そのものの美しさを感じさせてくれるのは、どこか穏やかに鳴らされていくような感覚もあるけれど、確かな情念の強さがその音に宿っている「うつくしいひと」。特に
「アイネクライネ
アベマリア」
というサビのフレーズを歌うたかはしのボーカルはどこかライブだからこそ力を込めるかのような独特の揺らぎがあるからこそ、そこに込められた感情を感じ取ることができるのだ。
「9mmの銃弾の下には美しい花がありました」
という、ハッキリと聞き取れる朗読の後に演奏されたのはもちろんそのままタイトルへと連なる「9mmの花」。やはり穏やかな曲かと思いきや、後半で急にスイッチが入ったかのようにギターもリズムも轟音と化す。それがそのまま客席の熱量として伝わっていくのだが、その轟音と美しいメロディが混ざり合うというシューゲイザーバンドのような音像へと変化するからこそ、
「奪われた過去も未来もあなたが時とともに取り込んだ
これで最後の話になるけれど
私、あなたを愛してる。」
という締めのフレーズの切なさをより加速させる。轟音が止まると、もうその2人が会話を交わすことはできないんだなと現実に戻されるかのようでいて、まだ物語の中にいるかのような。
その花はバラの花なんじゃないかと思わせるように、その種類の名を冠した神聖なサウンド、メロディ、ボーカルの「アルケミラ」へと繋がると、ステージを照らす照明は開演前と同じ緑色になる。それはアルケミラそのものの色合いなんじゃないかとも思うけれど、曲終わりでステージ背面に巨大なスクリーンが登場し、そこに山の中を流れる川のせせらぎの映像が映し出されるというのは明確にここから開演前の回収に入るということであろう。
とはいえもはやライブハウスのスケールすら超越した、アリーナクラスでこの曲が演奏されるのを聴きたいとすら思う「GOLD TRAIN」はそのロックバンドとしての生々しい音に焦点を絞るかのように映像的な演出は使われなかったのであるが、続く「惑星トラッシュ」では一転して都心のビル群の映像が映し出され、曲が進むにつれてその情景は昼から夜へと変化していく。その自然と都会という相反する要素も含めて、それはリーガルリリーがこれまでに歌にしてきたテーマでもあるのだが、普段は都会の夜景とかを見ても特にキレイだとも思わないような自分がそうした映像を観て「美しいな」と思ったのは、目の前で鳴らされている音が何よりも美しくて、その音にその情景が重なっていたからだ。そしてその夜景は夜空に輝く星の光へと切り替わっていく。その瞬間にこのライブの最大のテーマが「光」であることがハッキリとわかる。それもまたリーガルリリーがずっと歌にし続けてきたものだ。
するとスクリーンには一転して炎がゆらめくような演出が映るのは久々に聴く感じのする「教室のしかく」で、さらにはそのスクリーンに演奏しているメンバーの影が映るのはたかはしが
「16歳の時からずっと曲を作っていて、未完成なものや形にならなかったものもたくさんあるんですけど、次の曲はそうやって完成しないままだった曲に今になって2番以降をつけた」
という曲が生まれたエピソードを語った「教室のドアの向こう」。スクリーンに映るそのメンバーの影が光の当たり具合によってメンバーの姿をより巨大化させており、立ち位置もたかはしが真ん中、左側に海、右側にゆきやまという形で映るのであるが、そもそもがライブで化け物のような音を鳴らしてきたリーガルリリーの3人が本当に巨人になったかのように見えるし、どこにでもいるような女子のように見えるこの3人の中にはこうした巨大な衝動が渦巻いているかのようだ。
そうした「教室」をテーマにした、しかし教室にいた頃とそこへ足を踏み入れることがなくなった年齢という視点の違う2曲を続けた後には後半にさらに突っ走るようにして「中央線」が鳴らされ、まさに電車が走るかのような疾走感あふれるサウンドで鳴らされる。この前に演奏された「教室のドアの向こう」にも
「中央線は今日も人が死んでしまったね。」
というフレーズがあるだけに、よくサブカルの聖地のメタファーとしても歌詞に使われる「中央線」はたかはしの中では全く違うものとして捉えられているようだ。それは自身が日々中央線を使っているからこそ得た感覚なのかもしれないけれど。
そうした「Cとし生けるもの」を中心としたコンセプチュアルなライブの根幹を担うのは、たかはしが改めて「光」がこのライブのテーマであり、そこには様々な色の闇が存在しているということも語るのであるが、やはりその際の言葉もたかはしならではの、常人の語り口とは違うものになっているだけに実に文章化しづらいのであるが、不思議とその場にいるとたかはしが何を伝えたいのかがちゃんとわかる。
そうしたこのライブのテーマ、コンセプトを口にした後に演奏されたのは「Cとし生けるもの」の中でタイトルからも最も強い光を感じさせる「セイントアンガー」。
「その日暮らしの僕ら ひぐらしを聴いて
明日の暮らしビールで流す そんな暮らしでも」
という歌い出しのフレーズがどこか夏の到来を感じさせる中で
「ホームレスのおじさんはレーシックできるお金持ってない
野球選手は割れないようにやさしく」
というたかはしならではというか、たかはしでしかない歌詞とともにゆきやまのビートも加速していくと、
「みんな光りかた探していた」
というサビのフレーズではまさに光が照明としてだけではなくて、音としても降り注ぐかのようにたかはしのボーカルに海のコーラスが重なっていく。リーガルリリーの3人にとっての光り方はやはりこうやってバンドで音を鳴らし、その音の光で目の前にいてくれる人を照らすということであることを示すかのように。
そして轟音のビートが追加されたイントロから雪崩れ込んでいくというライブならではのアレンジが施されてからおなじみの軽快なイントロのリズムにつながっていくのは「リッケンバッカー」であるが、コンセプチュアルなライブであるだけに、ライブで毎回演奏されてきたこの曲ももしかしたら今回はセトリに入らないかもしれないとも少し思っていた。それでも成立するようなライブをここまでの3人はしっかりと作り上げてきたから。
でもこの曲を鳴らす姿を見ていて、何よりも
「おんがくよ 人を生かせ 生かせ 生かせ」
というフレーズに込めたものは確かに音楽がそれを必要とする人にとっての光であるということだった。それはこのライブのコンセプトを曲がそのまま体現しているようであり、やはりリーガルリリーにとっての最大のキラーチューンであるこの曲はライブには欠かせないことはもちろん、この曲の時点ですでにリーガルリリーは光を歌っていたんだということがよくわかる。
これは前にもこの曲のレポで書いたかもしれないが、よく「バンドは生き物だ」ということを耳にする。簡単に死んでしまうし、変わってしまうし、止まってしまうバンドは確かにそれがそのまま生き物である。
でも何よりも生き物だと思うのは、我々が日々の生活の中で毎日違う感情を抱いたり、バイオリズムが変わるように、この曲を演奏している時のリーガルリリーが毎回全く違うからだ。何度聴いたかわからないくらいにライブで聴いてきたし、その度に「なんなんだこの凄まじさは」と思うくらいに、特に間奏でゆきやまのビートが一気に加速するあたりからは何度も体と心が震えるような体現をしてきた。でもそれは前に観た時や今までに観た時のものとは全く違う。だからこそこのツアーの中でもこの曲は毎回違うものだったんだろうなと思うし、「バンドは生き物だ」ということを最もリアルに感じさせてくれる瞬間はこのバンドがこの曲を演奏している時だったりするのだ。
そんなライブの最後には「Cとし生けるもの」の最後を担う曲でもある穏やかなサウンドの「Candy」が演奏され、メンバーの影や様々な映像など、この日使われた演出を総動員するようなものになっていたのがライブのエンディングテーマ的でもあった。それはリーガルリリーが「自然と都市」、「朝と夜」、「光と闇」という相反する様々なものを自分たちの音楽によって表現してきたことの集大成でもあるかのようであり、最後に映像に映し出された猫の姿には思わずライブならではの集中力を伴った(リーガルリリーのライブでは特に)緊張感が解されていくような感覚があった。
アンコールでは海とゆきやまが先にステージに登場。照明の色が変わらずにしっかりと見ることによって、海の髪色が水色というか、まさに海のような色であることが改めてわかるのだが、今回のツアーのタイトルを考えたのはその海であり、光にまつわる単語をつけようとタイトルを考えていたところ、「Light Trap」というお祭りの光に虫が集まってくるという現象が、こうして我々がリーガルリリーのライブに集まってくるというところに通じると感じたことでそのタイトルをつけたという。
ゆきやまはこの7月5日がその海が加入した記念日「海の日」であることを告げ、その日を迎えるのが今年でもう4年目であるという。自分が初めてリーガルリリーのライブを観た時はまだこの3人になってはいなかったのだが、もうこの3人になってからそんなに時間が経ったのかと思う。
そこにたかはしも加わると、ツアーファイナルならではの嬉しいお知らせとして、まずは海から秋に東名阪で2マンツアーを行うことが発表されるのだが、その対バンの相手が凄まじい相手になっているという気になり過ぎる口ぶり。確かに東京がZepp Hanedaという大きな会場であることから、これはかなりの集客規模のバンドだと思われるし、仮にリーガルリリーがこれまでにカバーしてきた楽曲のバンドだったりしたら本当にとんでもないことである。
リーガルリリーは新人時代は出演したこともあったけれど、なかなか今は大きなフェスに出たりすることがなくなった。毎回出てるのはBAYCAMPくらいである。それだけに、そうした今までライブを観たことがない人の前でライブができる機会が欲しいと思っていた。そうすれば初めて観る人が絶対に「すげぇライブをやるバンドだ…」と思ってくれると信じているから。発表された対バンツアーがそんな機会になってくれたらと心から思う。
そしてたかはしは新作配信EPのリリースを告知すると、その後に演奏されたのはその新作に収録される新曲「ノーワー」。タイトルの意味はまだ詳細にはわからないが、EPのタイトルが「恋と戦争」というものであるだけに真っ先に頭の中で「No War」へと変換された。
「君は全てを体に入れてトイレで吐いた。吐いた。食べ残すこと許せなかった。
物足りない、今日はまだ終わりじゃないと夜は進んだ」
という歌い出しのフレーズは戦争を仕掛ける側と仕掛けられた側とのメタファーのようにも取れるし、
「ノーワーノーワーのごり押しで対立が始まって」
というサビのフレーズはまさにと言っていいだろう。わかりやすい、明確なメッセージを歌詞にするようなバンドじゃない。それでもたかはしの歌詞には、リーガルリリーの曲には確かなメッセージが宿っている。それは生きていて感じてしまう感情がたくさんあるくらいに敏感だからだ。それを自分の言葉で音楽にし、それが今この瞬間だけに響くものではない普遍性を持った曲になっていることが一聴しただけでわかる。つまりはリーガルリリーの新たな名曲の誕生ということである。
そんなライブの最後に演奏されたのは、3人それぞれが鳴らす、バラバラなように感じるような轟音が不思議なくらいに一つの塊となって迫ってくるような「せかいのおわり」。それはこの曲を持って「Light Trap Trip」という世界は終わるけれども、終わることによって新しく始まることがあるという、進み続けるバンドの意志を示すかのようであった。
リーガルリリーのライブを観るといつも姿勢を正されるというか、売れるようにとかそうした要素を度外視するように、メンバーたちが無垢なる狂気と言えるくらいに純粋に自分たちが鳴らしたい音を鳴らしているのがわかるからこそ、自分もこれからも純粋にライブに、音楽に向き合いたいと思う。
このアーティストについてSNSで書けばバズるとか、たくさんの人に共感してもらえるとか、そういう要素一切なしに、例え聴いている人の人数がそこまで多くはなくても、ただただ鳴っている音楽が美しいものであるから、それを感じるためにライブに行く。自分もそんな純粋さを貫いていきたいとリーガルリリーのライブを見るたびに思うのだ。
ツアーのテーマに掲げている通りに、リーガルリリーは光を歌う曲を多く生み出してきた。そんな曲を持って今まで以上にいろんな場所でのツアーを回るということは、その光をいろんな場所に当てに行くということ。そしてツアーが終わればまたすぐに次のツアーが発表される、こうしてリーガルリリーの音楽を浴びる機会がすぐに来るという活動サイクルもまた、ここにいる人たちの光になっているはずだ。リーガルリリーがそんな光のように輝くバンドであることを感じさせてくれるようなツアーだった。
1.たたかわないらいおん
2.風にとどけ
3.東京
4.1997
5.きれいなおと
6.ほしのなみだ
7.ぶらんこ
8.蛍狩り
9.ジョニー
10.うつくしいひと
11.9mmの花
12.アルケミラ
13.GOLD TRAIN
14.惑星トラッシュ
15.教室のしかく
16.教室のドアの向こう
17.中央線
18.セイントアンガー
19.リッケンバッカー
20.Candy
encore
21.新曲
22.せかいのおわり
キュウソネコカミ 「DMCC REAL ONEMAN TOUR 2022 -DoshiteMo Chihoude Concertshitainja 2-」 @Zepp DiverCity 7/6 ホーム
佐々木亮介 FIREWORKS RECORDS オープン記念 弾き語り ミニライブ 2部 @渋谷マルイ 8階イベントスペース 7/3