ASIAN KUNG-FU GENERATION Tour 2022 「プラネットフォークス」 @三郷市文化会館 5/28
- 2022/05/29
- 19:08
3月にはパシフィコ横浜で25周年記念ライブを行った、アジカン。それはまた新たな季節の始まりでしかないというのはそのライブでも新曲を演奏していたことからもわかるのだが、実際に3月末にはニューアルバム「プラネットフォークス」をリリースし、この日の三郷市文化会館からツアーがスタートするという、これまでに止まることのなかったアジカンらしさを示すかのような止まらなさっぷりである。
初日の会場となる三郷市文化会館は「ほぼ千葉の松戸」という千葉県民のイメージ通りの近さではあれど、なかなか三郷駅で降りる機会もないだけに初めての機会だったりもするのだが、駅から10分ほど歩いたところにある、犬の散歩をしている人が実に多い公園に隣接した三郷市文化会館は実はいろんなアーティストがライブを行ってきた歴史を持つ会場でもあるらしい。
中に入ると確かに松戸森のホールなどに比べると少し古さを感じるホールでもあるのだが、客席の席数を見ると「こんな規模でアジカンのワンマンが見れるのか」と思うくらいにこじんまりとした規模に感じる。
開演前からあらわになっているステージの造形を見た時からわかっていたところであるが、前列にはメンバー4人の機材が横並びとなり、その後ろに高い台が組まれていて、その上にはキーボードなどの機材が並んでいることから、前列にメンバー、後列にサポートメンバーという立ち位置であることがわかる。
実際に18時になって場内が暗転すると、上手側から山田貴洋(ベース)、伊地知潔(ドラム)、後藤正文(ボーカル&ギター)、喜多建介(ギター)という並びで、後ろにはサポートメンバーとしてゴッチのソロでもおなじみのYeYe(キーボード&コーラス)が黒髪に黒い衣装で上手側に、Mop Of HeadのTakuma Kikuchi(バンドではギターだがキーボードやサンプラーなど)が下手側に、という6人編成で、それぞれの立ち位置を取り囲むような四角いオブジェの中に入り込んでいるかのようにすると、そのオブジェの骨格は照明にもなっているという演出になっていることが、1曲目の「De Arriba」が演奏され始めるとすぐにわかるのだが、ホール自体が大きいものではないだけに、メンバーの表情が本当にしっかりと見える。伊地知の表情までもがこんなにもハッキリとわかるのはこの並びだからこそと言えるだろうが、「プラネットフォークス」はある意味ではパブリックイメージとしてのアジカンらしからぬ曲も多数収録されているけれど、喜多のオリエンタルさを感じさせる泣きのギターが全編に渡って鳴らされているのを目の前で見ていると、やはりアジカンはロックバンドであると一瞬で確信させてくれるし、サビでのゴッチのファルセットボーカルの伸びやかさは今の経験や技術だからこそできる曲を生み出しているということがわかる。オーケストレーション的なサウンドをKikuchiが担い、コーラスをYeYeが担うという、このアルバムのツアーだからこその編成であるということも。
ゴッチと喜多が顔を見合わせるようにしてギターを弾き始めたのは、25周年のライブではオープニングを担っていた「センスレス」であり、徐々に高まっていくかのような演奏をするゴッチも喜多も伊地知もその表情からは笑顔がうかがえる。山田はいつもながら渋さを感じる。
その「センスレス」の2コーラス目で珍しくゴッチが手拍子をし始め、それによって観客も手拍子をするというのは、やはりツアー初日ということで緊張感を持っている我々の心境を解してくれる意図があったんじゃないかと思っているが、今になってこの曲がアジカンのライブにおいて、より重要な役割を担うようになったのは、
「世界中を悲しみが覆って
君に手招きしたって
僕はずっと
想いをそっと此処で歌うから
君は消さないでいてよ」
というフレーズがどうしたって世界中でいろんなことが起きている今の状況にあまりにも刺さり過ぎるものだからだろう。アジカンがそんな状況の中でこの曲を鳴らすことによって、ニュースなどを見ていても負の感情に持っていかれそうになったとしても、
「闇に灯を
心の奥の闇に灯を」
という歌詞の通りに自分の中での希望を灯し続けることができる。それがアジカンを愛してきた我々としてのそうした状況への争い方なのかもしれない。
「華やかな赤と緑のネオンサイン」
というフレーズに合わせてメンバーを取り囲むオブジェの色が変わるという演出も、演奏と音があくまで第一であるというのを阻害することなく最大限の効果を発揮していて、本当に素晴らしい。
すると伊地知が細かく刻むビートに喜多のギターが乗るのは、まさかの「トラべログ」(「ワールド ワールド ワールド」収録)という、まさか今になってこの曲が聴けるとは、と思うとともに、「あれ?今日って新作のツアーだよな?」とも思うのであるが、
「まだ見たこともないような景色があるよ」
というのはこうして久しぶりに各地をくまなく回ることができるツアーの開幕を告げるのに実にふさわしいフレーズだ。
メンバーを取り囲むオブジェなどの照明が一気に色鮮やかになっていき、それに合わせるように演奏が一気に激しさを増すイントロが奏でられたのは、同じく「ワールド ワールド ワールド」収録の「惑星」であるが、この曲は予想できたというか、アルバムタイトルが「プラネットフォークス」だと発表された時に「惑星やんけ」とアジカンファンはみんな思ったであろうだけに、ゴッチやメンバーがそこに素直に応えた結果であると言える。ゴッチが声を張り上げるようなパートはかつての衝動をひたすらに滾らせるというよりは、実に洗練された歌唱の中に衝動を感じられるものになっているというか。この曲がリリースされたのももう14年前であるために、その経過した年月の中で重ねてきた経験がそのまま曲に反映されている。
ここでツアー初日ということで、改めてサポートメンバーのYeYeとKikuchiを紹介するのだが、今回のツアーはその時によってメンバー、編成が変わるらしく、この日は「チームF」と呼ばれていた。どことなくかつてテレビの企画で対談した某アイドルグループプロデューサーを彷彿とさせるネーミングであるが、その「F」はアルファベット順の「F」なのか、あるいはバンド名の頭文字から取ってるのかはこれから違うチームのライブを観ないとわからないことであるが、なぜいきなり「F」なのかが気になって仕方なくなってしまった。
そんな中で
「みんなの精神をこじ開けるように」
と言って演奏された「You To You」はアルバム発売前に公開された、ROTH BART BARONの三船雅也と共作した曲であり、25周年ライブには三船も出演していたが、JAPAN JAMでもすでに4人編成バージョンで演奏されていただけに、三船なしで演奏されることにも違和感はない。喜多のハイトーンボーカルがより一層甲高く聴こえるというのはやはりハイトーンボーカルである三船が不在だからという理由もあるだろうけれど、伊地知と山田の力強いリズムがどこか生命の躍動を感じさせてくれる、新しいアジカンの代表曲であるというのは変わらない。
さらにはアルバム先行シングルの「エンパシー」はこの編成で演奏されることによって、曲中の電子音がよりハッキリと聞こえてくる感じがあったのがこれまでに聴いてきたライブとはまた違うように感じた。それでもやっぱりサウンドの軸はギターであるというのが「遥か彼方」と同じく「NARUTO」シリーズの主題歌としてのアジカンの今の曲というバランス感である。
すると伊地知がハイハットを細かく刻み始めると、ゴッチがそのリズムに合わせて歌い始めたのは今やライブではおなじみとなった「UCLA」。25周年記念ライブではHomecomingsの畳野彩加がゲストボーカルとして花を添えていたが、この編成でその役割を担うのはもちろん、ここまでもコーラスを担ってきているYeYeであり、こうした女性パートも多くなってきた今のアジカンにとってはこのYeYeのポジションは実に大事なものになりそうだし、そこにはゴッチのソロでも示してきた、ゴッチのボーカルとの相性の良さという要素もあるだけに、実に適任なメンバーであると言える。
そのYeYeとともに山田のコーラスもゴッチのボーカルに重なっていく、雄大なビートの「ダイアローグ」もまたライブではもうおなじみの曲であるが、最初にシングルリリース時に聴いた時には若干地味目に感じたこの曲は、こうしてライブで演奏され続けてきたことによって音源のイメージよりもさらに大きなスケールを獲得してきたと、こうしてライブで聴いていると実感する。こうしたテンポの曲をカッコいいロックバンドとして鳴らせる説得力を持つようになったのが今のアジカンであるというか。アウトロでサイケデリックな音像になる中でゴッチがOasis「Rock'n Roll Star」のように
「It's Just Rock'n Roll」
と繰り返すのももうおなじみである。
そんな中で突如として演奏されたのはまさかの「スローダウン」なのだが、イントロから喜多が大きくジャンプしてからギターを弾き始めたのを観て「あれ?違う曲かな?」と思ったりもしたのだが、ゴッチが歌い始めるとやっぱり「スローダウン」で、まさか演奏されるとは思っていなかっただけに、この曲のダウンロードカードが配布された横浜スタジアムでの10周年記念ライブの暑く、熱かった日のことを思い出す。ゴッチも
「今の世の中ではなかなかああいう大規模なライブをやるのは難しい」
と言っていたが、またああやってアジカンを愛してきた、アジカンと共に生きてきた人たちがみんなで集まれるようなライブを体感したいと思う。曲後半ではステージ上方から吊るされた無数の電球が輝くのが、ゆっくりだけども確かに日本があの当時から復興してきたという希望の光のように感じられる。
そうした選曲もある中でゴッチはこうしてまだ完全に戻ったとは言えない中でもツアーが開催できていることに感謝しつつ、
「この中には「プラネットフォークス」を聴いてないっていう人もいるだろうけど、それはそれで良いと思う。新曲ばっかりだなみたいな。俺だって人のライブ観に行って「知らない曲ばっかりだな」って思うことあるし(笑)
前にCOUNTDOWN JAPANで「君繋ファイブエム」の曲を全曲演奏したら「アジカン全部新曲だった」って言われたりしたんだけど、そこも受け止め方次第でポジティブになれるっていうか。「君繋、まだこんなに新鮮に感じてもらえるんだ〜」って(笑)」
と、CDJ 11/12にEARTH STAGEのトップバッターとして出演した時に「君繋ファイブエム」を収録順通りに全曲演奏したことを語る。もう10年以上前なんだな、と思いながら、当時すでに完全にモンスターバンドだったアジカンをよくトップバッターにしたよな、と改めて思うのはアジカンが今でもフェスでメインステージのトリを担い続けているからである。
「だから曲知らなくても体が反応したりすればそれでいいし、なんなら「あのベースの人渋いね」とか「あのベースの人のシャツの色がいいね」とかでもいい(笑)」
と急に山田をいじると、山田も「俺?」という感じで自身の顔を指さすのだが、それは次に演奏された「雨音」が山田の作曲だからである。
「プラネットフォークス」を買ってブックレットのクレジットを見た時に最も驚いたのが、この浮遊感のあるサウンドとダンサブルなリズムという、ギターロックバンドとしてのアジカンのイメージからはみ出すような「雨音」を作ったのが、そうした曲を作ることでバンドの可能性を広げようとしてきたゴッチではなく、むしろ「今までのアジカンらしさ」を最も引き受けてきた山田だったということである。
Cメロでは1人だけスポットライトが当たる中でボーカルを披露した山田自身がアジカンのバンドとしてのさらなる可能性を広げようとしているということでもあるが、この曲のサウンドもまたこの編成だからこそ再現できるものであり、青く煌めくような照明の演出が、こうしてステージで鳴らされているサウンドこそが「雨音」であるということを示しているかのようだ。
その山田がシンセベースを弾く「触れたい 確かめたい」もまた、25周年記念ライブでは羊文学の塩塚モエカがゲストとして登場して歌っていたが、この曲でもYeYeがボーカルを担うことでゴッチとの男女デュエットという形に。歌詞に合わせたかのようにどこか月の光を想起させるような黄色を基調とした照明の演出も含めて本当に美しい曲であることをこの編成でも実感させてくれる。
さらにはギターのサウンドは完全にこちらも実に久々な「ラストダンスは悲しみをのせて」のものなのだが、どこかリズムがよりどっしりしたように感じたのはパーカッションがKikuchiによるサンプラーのものだったからかもしれないが、普段フェスでも演奏するような代表曲が毎日顔を合わせる会社の同僚だとしたら、「プラネットフォークス」の曲はこれから一緒に働く新入社員、こうした久しぶりにライブで聴く曲はかつて一緒に働いていたけど、地方に異動して久しぶりに再開した元同僚で、久しぶりだからちょっと変わったように感じるというか、やっぱり年齢を重ねたのがわかるというか。そのかつてとはまた違う、今のアジカンだからこその演奏になっているというのをこの曲から感じることができた。色とりどりの華やかな照明の光がテンポやサウンドは変わっても悲しみを抱えたままで我々を踊らせてくれるのは変わらない。コーラスをYeYeが担うことによって、解放されたかのように激しく動きながらギターを弾きまくる喜多の姿も今のこの編成のアジカンだからこそだ。
その悲しさをダンサブルではない、むしろ不穏さすら感じるようなサウンドで示すのは新作からの「Gimme Hope」であるが、
「銃を握った 君たちの 指先の掛かった引き金で
誰かを撃つなら僕にして 亡骸は海へ捨ててよ」
というどうしたって北の方の国同士の状況を想起させるフレーズは何度聴いても背筋が伸びるような感覚があるのだが、サウンドが削ぎ落とされ、照明も薄暗い中で演奏されたこの曲がサビになると一気に視界が開けるようなサウンドになり、照明も「スローダウン」のような電球が一斉に灯るというのはどこかタイトル通りに希望を感じさせるものになっている。それはゴッチの、アジカンの祈りと言ってもいいものだ。
するとゴッチがおなじみの、あの切なさを爆発させるようなギターのイントロを鳴らした瞬間に喜多が両手で一本指を突き出す姿がなんだか笑えてきてしまうのは「ソラニン」であり、むしろ近年はフェスではやるけど、ツアーではやらないという立ち位置(「リライト」はそういう曲になりつつある)になってきていると思っていた中でも演奏するのは、やっぱりこの曲を聴きたいと思ってツアーに来ている人だっているかもしれないということをバンド側がわかっているからだろう。フェスで起こるイントロのリズムに合わせた手拍子が発生しないというのは逆にこの曲を数え切れないくらいに聴いてきた人がたくさんいるワンマンらしさを感じさせるが、横浜スタジアムでの人気投票で1位を獲得したこの曲、当時はゴッチの書いていた歌詞と乖離がありすぎて(この曲の歌詞は「ソラニン」原作の浅野いにお)あまり好きではなかったのだが、今では大事な曲になっているのはこの曲をいろんな場所で聴いてきたことによって思い出や思い入れが積み重なってきたからだ。それくらいにアジカンの曲、音楽には自分の人生がそのまま重なっているのだ。
そうして新作の曲、定番曲、久しぶりの曲を交えてくるだけに、この後にどんな曲が演奏されるのかと待ち構えていると、イントロのギターの音が鳴っただけで拍手が起きたのはそれが「無限グライダー」のものだったからであり、サビではその拍手していて腕が一斉に上に伸びていく。喜多のギターも気合いに満ちていたが、やはりこうした初期の曲を聴けるというのは新作のツアーという、そうした曲が聴けるとは思っていなかったであろう場所だからこそより嬉しく感じられるはずだ。
どこかその「無限グライダー」の深く潜ってから一気に飛翔していく感覚と通じるものを感じるのはワンマンではお馴染みの「マーチングバンド」で、ゴッチと喜多が顔を見合わせるようにしてイントロのギターを重ね合うのもなんだか微笑ましく感じられるのだが、かつて勉強に勤しむ学生への応援歌的にタイアップで起用されたこの曲が今では全く違った意味合いを持って聞こえてくる。それは
「悲しくなったり
切なくなったり
ため息吐いたり
惨めになったり
いつかは失ういのちを思ったり
それでも僕らは息をしよう」
というフレーズがどうしたってこの上ないくらいにリアリティを感じてしまうものになっているからだ。それでも、こうしてアジカンのライブを観続けていることができるのであれば、どんなに悲しいことがあっても、こうして息をしていようと思う。
すると突如として同期のサウンドが流れ出してくるのはもちろん「新世紀のラブソング」であるが、機材にラップトップが設置されているということによって、この曲のサウンドにおいてもYeYeとKikuchiの存在が大きいと思われるし、それによってかメンバーの鳴らす音がより骨太なものになったように聞こえる。何よりも、
「息を吸って 生命を食べて
排泄するだけの猿じゃないと言えるかい?」
というフレーズはいつだって自分自身に問いかけられているような感覚になる。そうじゃないと言えるような人生が送れているだろうかという。でもそうじゃないと言えるのはやっぱりこうやって音楽が、ライブがあって、アジカンが音を鳴らし続けていてくれるからだ。それによって感情が湧き上がってくるのがちゃんとわかる。それは人間にしかできないものであるから。アジカンの音楽を聴いて、ライブを見ることによって、自分がちゃんと人間であることを確かめさせてくれる。
曲間ではゴッチが少し切ないようなギターの音を鳴らしながらメンバー同士の呼吸を整えるようにして歌い始めた「荒野を歩け」もライブでは完全に定番の曲となっているが、映画のタイアップにこの曲が起用された時にゴッチが
「RADWIMPSの「前前前世」くらい売れて欲しい」
というコメントをしていたのもよくわかるくらいの大名曲だと思っているので、こうして新作をリリースしてもセトリに入り続けているというのは嬉しいことであるのだが、それにしてもバンドの演奏の力強さたるや。特に伊地知のドラムはアジカンのバンドとしてのカッコよさを示したいというような思いが感じられるくらいの表情と音の強さであり、それが伝わりまくってくるので音を聞いているだけでなんだか感動してしまうのだ。
間奏ではおなじみの喜多のギターソロに入るのだが、喜多が思いっきり自身のオブジェの枠内をはみ出してゴッチの方までいこうとしてゴッチが笑いながら避けようとするという一幕もあって、それを見ているこっちも笑えてくる。そこからは今のアジカンのメンバー同士の関係性が本当に良いんだろうなということが伝わってくる。それをここにいるみんながわかっているからこそ、かつてはシモリョーが担っていたリズムに合わせてタンバリンを叩くというのをYeYeが担い、それに合わせて手拍子する観客の表情は本当に笑顔で溢れている。メンバーが楽しそうなのを見れているのがみんな本当に嬉しいのだ。それくらいアジカンが、このメンバーたちがみんな大好きなのだから。
そのバンドサウンドの力強さがギターロックサウンドへと集約されていくのは、ゴッチが高々とギターを掲げながら歌う「Standard」。かつてアナログフィッシュと対バンした際に下岡晃が
「この曲がアジカンの中で1番好き。それは俺に歌ってる曲だから。俺に歌ってるってことはみんな1人1人に歌ってる曲ってことだよ」
と言っていたが、本当にその通りだと思う。だからこそ、今でもこの曲を聴いているとアジカンがこうして音を鳴らし続けていることが最大の希望であると感じることができる。発光するような真っ白な照明の光もそれをさらに強く感じさせてくれるものになっている。
そんなアジカンの鳴らす音や姿から感じられる希望をさらに強いものにしてくれるのは、ゴッチのポエトリーリーディング的な歌唱から一気にタイトルフレーズで山田、喜多、YeYeのコーラスがゴッチのボーカルに重なっていく「解放区」。それはやはりアジカンのライブというこの場こそが最大の解放区であるということを示すものであった。かつて2019年のJAPAN JAMのトリで演奏された時にこの曲から感じた圧倒的な希望の輝きを今も感じることができるのは、
「笑い出せ
走り出せ
踊り出せ
歌い出そう」
というフレーズの全てがこの場所にはあるから。まだ我々が歌い出すことはできないけれど、この音楽が、アジカンがいてくれればきっと大丈夫、またそういう日が来ると思える。それはこれまでもそうやって我々がアジカンと一緒に生きてきたからである。
最後にゴッチが
「ありがとうございました、ASIAN KUNG-FU GENERATIONでした」
と挨拶すると、メンバーを取り囲んでいた四角いオブジェが上空へ浮上していく。「Wonder Future」でのプロジェクションマッピング以降、アジカンは映像や演出との共演というほどではなく、あくまで演奏を聴かせるのが第一ではありながらも、ロックバンドのライブってこんなこともできるんだな、というような演出で自分たちのライブをアップデートさせながらも、我々を驚かせてくれてきた。それはやはり今回のツアーもそう感じさせてくれるものだった。
アンコールでは喜多が黄色のツアーTシャツ、伊地知がアロハシャツに着替えて登場すると、客席ではスマホを取り出して写真撮影する人も多数。今までのアジカンのツアー同様、アンコールでは写真撮影が可能なのである。自分はメンバーの姿を自分の目で見たい、かつメンバーが目の前にいる中でスマホを取り出すのすら億劫というタイプなので全く撮っていないけれど。
「四角いオブジェがあると、1人1人の不可侵領域があるみたいな感じになるのに「荒野を歩け」で建ちゃんがめちゃくちゃこっちに入ってきた(笑)」
とゴッチが笑わせると、山田のシャツが絶妙に伊地知の着ているアロハシャツに似ているけれど物販のものではない私服であるということをイジる。さらには山田が装着しているリストバンドを、
「あれ、めちゃくちゃ重いやつだからね。外すとピッコロみたいにめちゃくちゃベース弾くの速くなる(笑)」
と、令和になってもピッコロがフリーザと戦った時のドラゴンボールネタというのもアジカンの世代ならではである。
そうして重装備で修行中の山田がこの日のアンコール担当。アジカンのツアーは各日でアンコール選曲係が変わり、それによってアンコールの内容がまるっきり変わるので、同じツアーに何本参加しても毎回違うライブが見れるのであるが、ゴッチに
「ラジオDJみたいに次の曲のタイトル言って」
と無茶振りされると、
山田「(普段より良い声で)それでは次の曲は…」
ゴッチ「そんなクリス・ペプラーみたいにしろとは言ってない!(笑)」
と、山田イジりだけではない、2人の漫才のような絶妙なやり取りで笑わせてくれながら、山田がタイトルを告げてサポートなしの4人だけで演奏されたのは「君の街まで」という、こうしてツアーが始まったことによって、我々が住んでいる街の近くまでライブをしに来てくれているということを感じさせてくれるような選曲に。もちろん写真を撮影している人もたくさんいたけれど、総じてこの曲が聴けたことの喜びを感じさせる。カラオケで歌うと実はアジカントップクラスの難度を誇るサビのファルセットが入り混じるゴッチの歌唱も今のキャリアと技術だからこその余裕のようなものを感じさせてくれる。
さらには伊地知が四つ打ちのビートを刻む「君という花」と、かつてのツアーでもそうだったが、山田アンコールはメンバーの中で最もストレートな「ファンが聴きたい最大公約数的なアジカンの曲」という感覚が強い。だからこの曲も山田が1番選んでいるイメージがあるのだが、それは山田が1番ファンに近い目線を持ったメンバーであるということであり、それだけに近年は最もアジカンらしい曲を生み出してきたメンバーでもある。
「らっせーらっせー」
の大合唱はもちろん起こらないし、ゴッチもそれを口にすることはないけれど、観客が揃って腕を伸ばす姿はみんなで心の中で大合唱しているような、そんな感覚を確かに感じさせてくれたのである。それがまた近い将来に必ずみんなで声を出して大合唱できると信じられるような。アウトロではゴッチが「大洋航路」のサビを歌うのもすっかり定着している。
そんなメンバー選曲アンコールから、YeYeとKikuchiを紹介しながらステージに呼び込むと、YeYeは軽く挨拶をし、Kikuchiは楽屋で「RIKACOに似ている」といじられていたという。ゴッチは「おぎやはぎに似ている」と、小木でも矢作でもなく2人のイメージで言われるのは不服らしい。
そんな6人編成に戻って演奏されたのは新作収録の「C'mon」であり、ゴッチが演奏後に
「こういうシンプルなフレーズの曲こそみんなで声を出して歌えたらなって思う」
と言っていたが、社会への皮肉も含めながらも、ひたすらにゴッチと山田、喜多、YeYeが
「カモン カモン カモン カモン イェー」
と繰り返すコーラスは確かに1回聴けば誰でも歌えるくらいのシンプルさ。今になってアジカンからこんなにシンプルな曲が出てくるとは、と思うくらいであるのだが、アウトロでは喜多が足元のエフェクターを操作して自身の声を加工して歌いながら(声の質的になんて歌ってるのかわからないけど)ギターを弾いているのだが、その姿がロックスター的でもあり、どこか面白くも見えてくるというのが喜多のキャラクターならではである。
「新作の曲を全部やると、昔の曲を全然やらないってなるから、やる曲を色々と入れ替えたりしながら。後半戦も発表されたけど、今回のツアーはメンバーも変わったりするから、来れる人はまたどこかで会いましょう」
と、この日のライブ前に横浜アリーナも含めたツアー後半戦のスケジュールも発表されたことで再会を約束するのだが、そのゴッチの言葉は同じツアーに何公演でも来ていい。それくらいたくさん回るからというようにも感じられる。それがわかるから、こうして初日に来てもまたこの後に他の会場にも行きたいって思えるのだ。それはもちろんライブの内容の素晴らしさあってのことだが。
そんなゴッチは最後にギターを置いてハンドマイクになると、ステージを歩き回るようにして、アルバムに内包されている要素の一つであるヒップホップ的な歌唱方法も交えて歌うのは「プラネットフォークス」の最後に収録されている「Be Alright」。
タイトル的にもそうであるが、アジカンが
「だけど ここに集ったろう そうさ
We gon be Alright」
「また散らばっても そうさ
We gon be Alright」
と歌うことによって感じることができる希望。ゴッチにだって去年色々あったし、我々1人1人にも生きていればいろんなことがある。でもアジカンが「Be Alright」と歌ってくれることによって日々を穏やかに過ごすことができるような、こうしてアジカンのライブに来ることができれば何があっても大丈夫だと思えるような。
ゴッチはアウトロになるとギターを手にしてメンバーたちとともに音を締め、演奏を終えるとサポート2人も加わって肩を組んで観客に一礼した。それはこの日のライブの終わりでありながらも、新しい旅の始まりを告げるかのような清々しい光景だった。きっと国際フォーラムや日比谷野音ではゲストボーカルが出演したりするんだろうけれども、また次は、この三郷よりももっと近い、自分の街まで来てくれた時に。
アジカンのライブに来て、過去にリリースされた曲を久しぶりに聴くと、その曲がリリースされた時や、その曲をかつて聴いたライブの時に意識が戻ることができる。その時の景色や自分の置かれていた境遇なんかも思い出しては、人生のあらゆる場面をアジカンの音楽が彩ってきてくれたんだなと思う。楽しかった時のことを思い出させてくれたり、辛かった時を乗り越えてきたり。
きっとこの日に聴いた「プラネットフォークス」の曲たちも何年も経った時にはそう思える曲になっているはず。アジカンの何が凄いかって、もう25周年を迎えたバンドがこうやって止まることなく走り続けていて、そのバンドがアルバムを出してツアーを回ることで、アルバムはどんな曲が入っているのか、その曲をどんな形でライブで演奏するのか、たくさんの人をずっとドキドキしたりワクワクしたりさせてくれるということ。それはこれから先もアジカンが続く限りはずっと変わらない。そんなことを確かめさせてくれた、ツアー初日だった。
1.De Arriba
2.センスレス
3.トラべログ
4.惑星
5.You To You
6.エンパシー
7.UCLA
8.ダイアローグ
9.スローダウン
10.雨音
11.触れたい 確かめたい
12.ラストダンスは悲しみをのせて
13.Gimme Hope
14.ソラニン
15.無限グライダー
16.マーチングバンド
17.新世紀のラブソング
18.荒野を歩け
19.Standard
20.解放区
encore
21.君の街まで
22.君という花
23.C'mon
24.Be Alright
初日の会場となる三郷市文化会館は「ほぼ千葉の松戸」という千葉県民のイメージ通りの近さではあれど、なかなか三郷駅で降りる機会もないだけに初めての機会だったりもするのだが、駅から10分ほど歩いたところにある、犬の散歩をしている人が実に多い公園に隣接した三郷市文化会館は実はいろんなアーティストがライブを行ってきた歴史を持つ会場でもあるらしい。
中に入ると確かに松戸森のホールなどに比べると少し古さを感じるホールでもあるのだが、客席の席数を見ると「こんな規模でアジカンのワンマンが見れるのか」と思うくらいにこじんまりとした規模に感じる。
開演前からあらわになっているステージの造形を見た時からわかっていたところであるが、前列にはメンバー4人の機材が横並びとなり、その後ろに高い台が組まれていて、その上にはキーボードなどの機材が並んでいることから、前列にメンバー、後列にサポートメンバーという立ち位置であることがわかる。
実際に18時になって場内が暗転すると、上手側から山田貴洋(ベース)、伊地知潔(ドラム)、後藤正文(ボーカル&ギター)、喜多建介(ギター)という並びで、後ろにはサポートメンバーとしてゴッチのソロでもおなじみのYeYe(キーボード&コーラス)が黒髪に黒い衣装で上手側に、Mop Of HeadのTakuma Kikuchi(バンドではギターだがキーボードやサンプラーなど)が下手側に、という6人編成で、それぞれの立ち位置を取り囲むような四角いオブジェの中に入り込んでいるかのようにすると、そのオブジェの骨格は照明にもなっているという演出になっていることが、1曲目の「De Arriba」が演奏され始めるとすぐにわかるのだが、ホール自体が大きいものではないだけに、メンバーの表情が本当にしっかりと見える。伊地知の表情までもがこんなにもハッキリとわかるのはこの並びだからこそと言えるだろうが、「プラネットフォークス」はある意味ではパブリックイメージとしてのアジカンらしからぬ曲も多数収録されているけれど、喜多のオリエンタルさを感じさせる泣きのギターが全編に渡って鳴らされているのを目の前で見ていると、やはりアジカンはロックバンドであると一瞬で確信させてくれるし、サビでのゴッチのファルセットボーカルの伸びやかさは今の経験や技術だからこそできる曲を生み出しているということがわかる。オーケストレーション的なサウンドをKikuchiが担い、コーラスをYeYeが担うという、このアルバムのツアーだからこその編成であるということも。
ゴッチと喜多が顔を見合わせるようにしてギターを弾き始めたのは、25周年のライブではオープニングを担っていた「センスレス」であり、徐々に高まっていくかのような演奏をするゴッチも喜多も伊地知もその表情からは笑顔がうかがえる。山田はいつもながら渋さを感じる。
その「センスレス」の2コーラス目で珍しくゴッチが手拍子をし始め、それによって観客も手拍子をするというのは、やはりツアー初日ということで緊張感を持っている我々の心境を解してくれる意図があったんじゃないかと思っているが、今になってこの曲がアジカンのライブにおいて、より重要な役割を担うようになったのは、
「世界中を悲しみが覆って
君に手招きしたって
僕はずっと
想いをそっと此処で歌うから
君は消さないでいてよ」
というフレーズがどうしたって世界中でいろんなことが起きている今の状況にあまりにも刺さり過ぎるものだからだろう。アジカンがそんな状況の中でこの曲を鳴らすことによって、ニュースなどを見ていても負の感情に持っていかれそうになったとしても、
「闇に灯を
心の奥の闇に灯を」
という歌詞の通りに自分の中での希望を灯し続けることができる。それがアジカンを愛してきた我々としてのそうした状況への争い方なのかもしれない。
「華やかな赤と緑のネオンサイン」
というフレーズに合わせてメンバーを取り囲むオブジェの色が変わるという演出も、演奏と音があくまで第一であるというのを阻害することなく最大限の効果を発揮していて、本当に素晴らしい。
すると伊地知が細かく刻むビートに喜多のギターが乗るのは、まさかの「トラべログ」(「ワールド ワールド ワールド」収録)という、まさか今になってこの曲が聴けるとは、と思うとともに、「あれ?今日って新作のツアーだよな?」とも思うのであるが、
「まだ見たこともないような景色があるよ」
というのはこうして久しぶりに各地をくまなく回ることができるツアーの開幕を告げるのに実にふさわしいフレーズだ。
メンバーを取り囲むオブジェなどの照明が一気に色鮮やかになっていき、それに合わせるように演奏が一気に激しさを増すイントロが奏でられたのは、同じく「ワールド ワールド ワールド」収録の「惑星」であるが、この曲は予想できたというか、アルバムタイトルが「プラネットフォークス」だと発表された時に「惑星やんけ」とアジカンファンはみんな思ったであろうだけに、ゴッチやメンバーがそこに素直に応えた結果であると言える。ゴッチが声を張り上げるようなパートはかつての衝動をひたすらに滾らせるというよりは、実に洗練された歌唱の中に衝動を感じられるものになっているというか。この曲がリリースされたのももう14年前であるために、その経過した年月の中で重ねてきた経験がそのまま曲に反映されている。
ここでツアー初日ということで、改めてサポートメンバーのYeYeとKikuchiを紹介するのだが、今回のツアーはその時によってメンバー、編成が変わるらしく、この日は「チームF」と呼ばれていた。どことなくかつてテレビの企画で対談した某アイドルグループプロデューサーを彷彿とさせるネーミングであるが、その「F」はアルファベット順の「F」なのか、あるいはバンド名の頭文字から取ってるのかはこれから違うチームのライブを観ないとわからないことであるが、なぜいきなり「F」なのかが気になって仕方なくなってしまった。
そんな中で
「みんなの精神をこじ開けるように」
と言って演奏された「You To You」はアルバム発売前に公開された、ROTH BART BARONの三船雅也と共作した曲であり、25周年ライブには三船も出演していたが、JAPAN JAMでもすでに4人編成バージョンで演奏されていただけに、三船なしで演奏されることにも違和感はない。喜多のハイトーンボーカルがより一層甲高く聴こえるというのはやはりハイトーンボーカルである三船が不在だからという理由もあるだろうけれど、伊地知と山田の力強いリズムがどこか生命の躍動を感じさせてくれる、新しいアジカンの代表曲であるというのは変わらない。
さらにはアルバム先行シングルの「エンパシー」はこの編成で演奏されることによって、曲中の電子音がよりハッキリと聞こえてくる感じがあったのがこれまでに聴いてきたライブとはまた違うように感じた。それでもやっぱりサウンドの軸はギターであるというのが「遥か彼方」と同じく「NARUTO」シリーズの主題歌としてのアジカンの今の曲というバランス感である。
すると伊地知がハイハットを細かく刻み始めると、ゴッチがそのリズムに合わせて歌い始めたのは今やライブではおなじみとなった「UCLA」。25周年記念ライブではHomecomingsの畳野彩加がゲストボーカルとして花を添えていたが、この編成でその役割を担うのはもちろん、ここまでもコーラスを担ってきているYeYeであり、こうした女性パートも多くなってきた今のアジカンにとってはこのYeYeのポジションは実に大事なものになりそうだし、そこにはゴッチのソロでも示してきた、ゴッチのボーカルとの相性の良さという要素もあるだけに、実に適任なメンバーであると言える。
そのYeYeとともに山田のコーラスもゴッチのボーカルに重なっていく、雄大なビートの「ダイアローグ」もまたライブではもうおなじみの曲であるが、最初にシングルリリース時に聴いた時には若干地味目に感じたこの曲は、こうしてライブで演奏され続けてきたことによって音源のイメージよりもさらに大きなスケールを獲得してきたと、こうしてライブで聴いていると実感する。こうしたテンポの曲をカッコいいロックバンドとして鳴らせる説得力を持つようになったのが今のアジカンであるというか。アウトロでサイケデリックな音像になる中でゴッチがOasis「Rock'n Roll Star」のように
「It's Just Rock'n Roll」
と繰り返すのももうおなじみである。
そんな中で突如として演奏されたのはまさかの「スローダウン」なのだが、イントロから喜多が大きくジャンプしてからギターを弾き始めたのを観て「あれ?違う曲かな?」と思ったりもしたのだが、ゴッチが歌い始めるとやっぱり「スローダウン」で、まさか演奏されるとは思っていなかっただけに、この曲のダウンロードカードが配布された横浜スタジアムでの10周年記念ライブの暑く、熱かった日のことを思い出す。ゴッチも
「今の世の中ではなかなかああいう大規模なライブをやるのは難しい」
と言っていたが、またああやってアジカンを愛してきた、アジカンと共に生きてきた人たちがみんなで集まれるようなライブを体感したいと思う。曲後半ではステージ上方から吊るされた無数の電球が輝くのが、ゆっくりだけども確かに日本があの当時から復興してきたという希望の光のように感じられる。
そうした選曲もある中でゴッチはこうしてまだ完全に戻ったとは言えない中でもツアーが開催できていることに感謝しつつ、
「この中には「プラネットフォークス」を聴いてないっていう人もいるだろうけど、それはそれで良いと思う。新曲ばっかりだなみたいな。俺だって人のライブ観に行って「知らない曲ばっかりだな」って思うことあるし(笑)
前にCOUNTDOWN JAPANで「君繋ファイブエム」の曲を全曲演奏したら「アジカン全部新曲だった」って言われたりしたんだけど、そこも受け止め方次第でポジティブになれるっていうか。「君繋、まだこんなに新鮮に感じてもらえるんだ〜」って(笑)」
と、CDJ 11/12にEARTH STAGEのトップバッターとして出演した時に「君繋ファイブエム」を収録順通りに全曲演奏したことを語る。もう10年以上前なんだな、と思いながら、当時すでに完全にモンスターバンドだったアジカンをよくトップバッターにしたよな、と改めて思うのはアジカンが今でもフェスでメインステージのトリを担い続けているからである。
「だから曲知らなくても体が反応したりすればそれでいいし、なんなら「あのベースの人渋いね」とか「あのベースの人のシャツの色がいいね」とかでもいい(笑)」
と急に山田をいじると、山田も「俺?」という感じで自身の顔を指さすのだが、それは次に演奏された「雨音」が山田の作曲だからである。
「プラネットフォークス」を買ってブックレットのクレジットを見た時に最も驚いたのが、この浮遊感のあるサウンドとダンサブルなリズムという、ギターロックバンドとしてのアジカンのイメージからはみ出すような「雨音」を作ったのが、そうした曲を作ることでバンドの可能性を広げようとしてきたゴッチではなく、むしろ「今までのアジカンらしさ」を最も引き受けてきた山田だったということである。
Cメロでは1人だけスポットライトが当たる中でボーカルを披露した山田自身がアジカンのバンドとしてのさらなる可能性を広げようとしているということでもあるが、この曲のサウンドもまたこの編成だからこそ再現できるものであり、青く煌めくような照明の演出が、こうしてステージで鳴らされているサウンドこそが「雨音」であるということを示しているかのようだ。
その山田がシンセベースを弾く「触れたい 確かめたい」もまた、25周年記念ライブでは羊文学の塩塚モエカがゲストとして登場して歌っていたが、この曲でもYeYeがボーカルを担うことでゴッチとの男女デュエットという形に。歌詞に合わせたかのようにどこか月の光を想起させるような黄色を基調とした照明の演出も含めて本当に美しい曲であることをこの編成でも実感させてくれる。
さらにはギターのサウンドは完全にこちらも実に久々な「ラストダンスは悲しみをのせて」のものなのだが、どこかリズムがよりどっしりしたように感じたのはパーカッションがKikuchiによるサンプラーのものだったからかもしれないが、普段フェスでも演奏するような代表曲が毎日顔を合わせる会社の同僚だとしたら、「プラネットフォークス」の曲はこれから一緒に働く新入社員、こうした久しぶりにライブで聴く曲はかつて一緒に働いていたけど、地方に異動して久しぶりに再開した元同僚で、久しぶりだからちょっと変わったように感じるというか、やっぱり年齢を重ねたのがわかるというか。そのかつてとはまた違う、今のアジカンだからこその演奏になっているというのをこの曲から感じることができた。色とりどりの華やかな照明の光がテンポやサウンドは変わっても悲しみを抱えたままで我々を踊らせてくれるのは変わらない。コーラスをYeYeが担うことによって、解放されたかのように激しく動きながらギターを弾きまくる喜多の姿も今のこの編成のアジカンだからこそだ。
その悲しさをダンサブルではない、むしろ不穏さすら感じるようなサウンドで示すのは新作からの「Gimme Hope」であるが、
「銃を握った 君たちの 指先の掛かった引き金で
誰かを撃つなら僕にして 亡骸は海へ捨ててよ」
というどうしたって北の方の国同士の状況を想起させるフレーズは何度聴いても背筋が伸びるような感覚があるのだが、サウンドが削ぎ落とされ、照明も薄暗い中で演奏されたこの曲がサビになると一気に視界が開けるようなサウンドになり、照明も「スローダウン」のような電球が一斉に灯るというのはどこかタイトル通りに希望を感じさせるものになっている。それはゴッチの、アジカンの祈りと言ってもいいものだ。
するとゴッチがおなじみの、あの切なさを爆発させるようなギターのイントロを鳴らした瞬間に喜多が両手で一本指を突き出す姿がなんだか笑えてきてしまうのは「ソラニン」であり、むしろ近年はフェスではやるけど、ツアーではやらないという立ち位置(「リライト」はそういう曲になりつつある)になってきていると思っていた中でも演奏するのは、やっぱりこの曲を聴きたいと思ってツアーに来ている人だっているかもしれないということをバンド側がわかっているからだろう。フェスで起こるイントロのリズムに合わせた手拍子が発生しないというのは逆にこの曲を数え切れないくらいに聴いてきた人がたくさんいるワンマンらしさを感じさせるが、横浜スタジアムでの人気投票で1位を獲得したこの曲、当時はゴッチの書いていた歌詞と乖離がありすぎて(この曲の歌詞は「ソラニン」原作の浅野いにお)あまり好きではなかったのだが、今では大事な曲になっているのはこの曲をいろんな場所で聴いてきたことによって思い出や思い入れが積み重なってきたからだ。それくらいにアジカンの曲、音楽には自分の人生がそのまま重なっているのだ。
そうして新作の曲、定番曲、久しぶりの曲を交えてくるだけに、この後にどんな曲が演奏されるのかと待ち構えていると、イントロのギターの音が鳴っただけで拍手が起きたのはそれが「無限グライダー」のものだったからであり、サビではその拍手していて腕が一斉に上に伸びていく。喜多のギターも気合いに満ちていたが、やはりこうした初期の曲を聴けるというのは新作のツアーという、そうした曲が聴けるとは思っていなかったであろう場所だからこそより嬉しく感じられるはずだ。
どこかその「無限グライダー」の深く潜ってから一気に飛翔していく感覚と通じるものを感じるのはワンマンではお馴染みの「マーチングバンド」で、ゴッチと喜多が顔を見合わせるようにしてイントロのギターを重ね合うのもなんだか微笑ましく感じられるのだが、かつて勉強に勤しむ学生への応援歌的にタイアップで起用されたこの曲が今では全く違った意味合いを持って聞こえてくる。それは
「悲しくなったり
切なくなったり
ため息吐いたり
惨めになったり
いつかは失ういのちを思ったり
それでも僕らは息をしよう」
というフレーズがどうしたってこの上ないくらいにリアリティを感じてしまうものになっているからだ。それでも、こうしてアジカンのライブを観続けていることができるのであれば、どんなに悲しいことがあっても、こうして息をしていようと思う。
すると突如として同期のサウンドが流れ出してくるのはもちろん「新世紀のラブソング」であるが、機材にラップトップが設置されているということによって、この曲のサウンドにおいてもYeYeとKikuchiの存在が大きいと思われるし、それによってかメンバーの鳴らす音がより骨太なものになったように聞こえる。何よりも、
「息を吸って 生命を食べて
排泄するだけの猿じゃないと言えるかい?」
というフレーズはいつだって自分自身に問いかけられているような感覚になる。そうじゃないと言えるような人生が送れているだろうかという。でもそうじゃないと言えるのはやっぱりこうやって音楽が、ライブがあって、アジカンが音を鳴らし続けていてくれるからだ。それによって感情が湧き上がってくるのがちゃんとわかる。それは人間にしかできないものであるから。アジカンの音楽を聴いて、ライブを見ることによって、自分がちゃんと人間であることを確かめさせてくれる。
曲間ではゴッチが少し切ないようなギターの音を鳴らしながらメンバー同士の呼吸を整えるようにして歌い始めた「荒野を歩け」もライブでは完全に定番の曲となっているが、映画のタイアップにこの曲が起用された時にゴッチが
「RADWIMPSの「前前前世」くらい売れて欲しい」
というコメントをしていたのもよくわかるくらいの大名曲だと思っているので、こうして新作をリリースしてもセトリに入り続けているというのは嬉しいことであるのだが、それにしてもバンドの演奏の力強さたるや。特に伊地知のドラムはアジカンのバンドとしてのカッコよさを示したいというような思いが感じられるくらいの表情と音の強さであり、それが伝わりまくってくるので音を聞いているだけでなんだか感動してしまうのだ。
間奏ではおなじみの喜多のギターソロに入るのだが、喜多が思いっきり自身のオブジェの枠内をはみ出してゴッチの方までいこうとしてゴッチが笑いながら避けようとするという一幕もあって、それを見ているこっちも笑えてくる。そこからは今のアジカンのメンバー同士の関係性が本当に良いんだろうなということが伝わってくる。それをここにいるみんながわかっているからこそ、かつてはシモリョーが担っていたリズムに合わせてタンバリンを叩くというのをYeYeが担い、それに合わせて手拍子する観客の表情は本当に笑顔で溢れている。メンバーが楽しそうなのを見れているのがみんな本当に嬉しいのだ。それくらいアジカンが、このメンバーたちがみんな大好きなのだから。
そのバンドサウンドの力強さがギターロックサウンドへと集約されていくのは、ゴッチが高々とギターを掲げながら歌う「Standard」。かつてアナログフィッシュと対バンした際に下岡晃が
「この曲がアジカンの中で1番好き。それは俺に歌ってる曲だから。俺に歌ってるってことはみんな1人1人に歌ってる曲ってことだよ」
と言っていたが、本当にその通りだと思う。だからこそ、今でもこの曲を聴いているとアジカンがこうして音を鳴らし続けていることが最大の希望であると感じることができる。発光するような真っ白な照明の光もそれをさらに強く感じさせてくれるものになっている。
そんなアジカンの鳴らす音や姿から感じられる希望をさらに強いものにしてくれるのは、ゴッチのポエトリーリーディング的な歌唱から一気にタイトルフレーズで山田、喜多、YeYeのコーラスがゴッチのボーカルに重なっていく「解放区」。それはやはりアジカンのライブというこの場こそが最大の解放区であるということを示すものであった。かつて2019年のJAPAN JAMのトリで演奏された時にこの曲から感じた圧倒的な希望の輝きを今も感じることができるのは、
「笑い出せ
走り出せ
踊り出せ
歌い出そう」
というフレーズの全てがこの場所にはあるから。まだ我々が歌い出すことはできないけれど、この音楽が、アジカンがいてくれればきっと大丈夫、またそういう日が来ると思える。それはこれまでもそうやって我々がアジカンと一緒に生きてきたからである。
最後にゴッチが
「ありがとうございました、ASIAN KUNG-FU GENERATIONでした」
と挨拶すると、メンバーを取り囲んでいた四角いオブジェが上空へ浮上していく。「Wonder Future」でのプロジェクションマッピング以降、アジカンは映像や演出との共演というほどではなく、あくまで演奏を聴かせるのが第一ではありながらも、ロックバンドのライブってこんなこともできるんだな、というような演出で自分たちのライブをアップデートさせながらも、我々を驚かせてくれてきた。それはやはり今回のツアーもそう感じさせてくれるものだった。
アンコールでは喜多が黄色のツアーTシャツ、伊地知がアロハシャツに着替えて登場すると、客席ではスマホを取り出して写真撮影する人も多数。今までのアジカンのツアー同様、アンコールでは写真撮影が可能なのである。自分はメンバーの姿を自分の目で見たい、かつメンバーが目の前にいる中でスマホを取り出すのすら億劫というタイプなので全く撮っていないけれど。
「四角いオブジェがあると、1人1人の不可侵領域があるみたいな感じになるのに「荒野を歩け」で建ちゃんがめちゃくちゃこっちに入ってきた(笑)」
とゴッチが笑わせると、山田のシャツが絶妙に伊地知の着ているアロハシャツに似ているけれど物販のものではない私服であるということをイジる。さらには山田が装着しているリストバンドを、
「あれ、めちゃくちゃ重いやつだからね。外すとピッコロみたいにめちゃくちゃベース弾くの速くなる(笑)」
と、令和になってもピッコロがフリーザと戦った時のドラゴンボールネタというのもアジカンの世代ならではである。
そうして重装備で修行中の山田がこの日のアンコール担当。アジカンのツアーは各日でアンコール選曲係が変わり、それによってアンコールの内容がまるっきり変わるので、同じツアーに何本参加しても毎回違うライブが見れるのであるが、ゴッチに
「ラジオDJみたいに次の曲のタイトル言って」
と無茶振りされると、
山田「(普段より良い声で)それでは次の曲は…」
ゴッチ「そんなクリス・ペプラーみたいにしろとは言ってない!(笑)」
と、山田イジりだけではない、2人の漫才のような絶妙なやり取りで笑わせてくれながら、山田がタイトルを告げてサポートなしの4人だけで演奏されたのは「君の街まで」という、こうしてツアーが始まったことによって、我々が住んでいる街の近くまでライブをしに来てくれているということを感じさせてくれるような選曲に。もちろん写真を撮影している人もたくさんいたけれど、総じてこの曲が聴けたことの喜びを感じさせる。カラオケで歌うと実はアジカントップクラスの難度を誇るサビのファルセットが入り混じるゴッチの歌唱も今のキャリアと技術だからこその余裕のようなものを感じさせてくれる。
さらには伊地知が四つ打ちのビートを刻む「君という花」と、かつてのツアーでもそうだったが、山田アンコールはメンバーの中で最もストレートな「ファンが聴きたい最大公約数的なアジカンの曲」という感覚が強い。だからこの曲も山田が1番選んでいるイメージがあるのだが、それは山田が1番ファンに近い目線を持ったメンバーであるということであり、それだけに近年は最もアジカンらしい曲を生み出してきたメンバーでもある。
「らっせーらっせー」
の大合唱はもちろん起こらないし、ゴッチもそれを口にすることはないけれど、観客が揃って腕を伸ばす姿はみんなで心の中で大合唱しているような、そんな感覚を確かに感じさせてくれたのである。それがまた近い将来に必ずみんなで声を出して大合唱できると信じられるような。アウトロではゴッチが「大洋航路」のサビを歌うのもすっかり定着している。
そんなメンバー選曲アンコールから、YeYeとKikuchiを紹介しながらステージに呼び込むと、YeYeは軽く挨拶をし、Kikuchiは楽屋で「RIKACOに似ている」といじられていたという。ゴッチは「おぎやはぎに似ている」と、小木でも矢作でもなく2人のイメージで言われるのは不服らしい。
そんな6人編成に戻って演奏されたのは新作収録の「C'mon」であり、ゴッチが演奏後に
「こういうシンプルなフレーズの曲こそみんなで声を出して歌えたらなって思う」
と言っていたが、社会への皮肉も含めながらも、ひたすらにゴッチと山田、喜多、YeYeが
「カモン カモン カモン カモン イェー」
と繰り返すコーラスは確かに1回聴けば誰でも歌えるくらいのシンプルさ。今になってアジカンからこんなにシンプルな曲が出てくるとは、と思うくらいであるのだが、アウトロでは喜多が足元のエフェクターを操作して自身の声を加工して歌いながら(声の質的になんて歌ってるのかわからないけど)ギターを弾いているのだが、その姿がロックスター的でもあり、どこか面白くも見えてくるというのが喜多のキャラクターならではである。
「新作の曲を全部やると、昔の曲を全然やらないってなるから、やる曲を色々と入れ替えたりしながら。後半戦も発表されたけど、今回のツアーはメンバーも変わったりするから、来れる人はまたどこかで会いましょう」
と、この日のライブ前に横浜アリーナも含めたツアー後半戦のスケジュールも発表されたことで再会を約束するのだが、そのゴッチの言葉は同じツアーに何公演でも来ていい。それくらいたくさん回るからというようにも感じられる。それがわかるから、こうして初日に来てもまたこの後に他の会場にも行きたいって思えるのだ。それはもちろんライブの内容の素晴らしさあってのことだが。
そんなゴッチは最後にギターを置いてハンドマイクになると、ステージを歩き回るようにして、アルバムに内包されている要素の一つであるヒップホップ的な歌唱方法も交えて歌うのは「プラネットフォークス」の最後に収録されている「Be Alright」。
タイトル的にもそうであるが、アジカンが
「だけど ここに集ったろう そうさ
We gon be Alright」
「また散らばっても そうさ
We gon be Alright」
と歌うことによって感じることができる希望。ゴッチにだって去年色々あったし、我々1人1人にも生きていればいろんなことがある。でもアジカンが「Be Alright」と歌ってくれることによって日々を穏やかに過ごすことができるような、こうしてアジカンのライブに来ることができれば何があっても大丈夫だと思えるような。
ゴッチはアウトロになるとギターを手にしてメンバーたちとともに音を締め、演奏を終えるとサポート2人も加わって肩を組んで観客に一礼した。それはこの日のライブの終わりでありながらも、新しい旅の始まりを告げるかのような清々しい光景だった。きっと国際フォーラムや日比谷野音ではゲストボーカルが出演したりするんだろうけれども、また次は、この三郷よりももっと近い、自分の街まで来てくれた時に。
アジカンのライブに来て、過去にリリースされた曲を久しぶりに聴くと、その曲がリリースされた時や、その曲をかつて聴いたライブの時に意識が戻ることができる。その時の景色や自分の置かれていた境遇なんかも思い出しては、人生のあらゆる場面をアジカンの音楽が彩ってきてくれたんだなと思う。楽しかった時のことを思い出させてくれたり、辛かった時を乗り越えてきたり。
きっとこの日に聴いた「プラネットフォークス」の曲たちも何年も経った時にはそう思える曲になっているはず。アジカンの何が凄いかって、もう25周年を迎えたバンドがこうやって止まることなく走り続けていて、そのバンドがアルバムを出してツアーを回ることで、アルバムはどんな曲が入っているのか、その曲をどんな形でライブで演奏するのか、たくさんの人をずっとドキドキしたりワクワクしたりさせてくれるということ。それはこれから先もアジカンが続く限りはずっと変わらない。そんなことを確かめさせてくれた、ツアー初日だった。
1.De Arriba
2.センスレス
3.トラべログ
4.惑星
5.You To You
6.エンパシー
7.UCLA
8.ダイアローグ
9.スローダウン
10.雨音
11.触れたい 確かめたい
12.ラストダンスは悲しみをのせて
13.Gimme Hope
14.ソラニン
15.無限グライダー
16.マーチングバンド
17.新世紀のラブソング
18.荒野を歩け
19.Standard
20.解放区
encore
21.君の街まで
22.君という花
23.C'mon
24.Be Alright