ずっと真夜中でいいのに。 Z FACTORY 「鷹は飢えても踊り忘れず」 day2 "ob_start" @さいたまスーパーアリーナ 4/17
- 2022/04/18
- 21:01
前日に続いての、ずっと真夜中でいいのに。のさいたまスーパーアリーナワンマン2日目。前日の凄まじさがまだ残りまくっているだけに、ライブタイトルが異なるこの日がどんなライブになるのか楽しみは尽きない。
場内に入ると前日とは全く違う雰囲気に感じるのは、薄暗い中でもステージが前日はなかった蔦や草に覆われているということ。これは前日に操業していた工場が長い年月を経て荒廃してしまったということを表しているのだろうか。
この日はライブが終わってもまだ真夜中にはならない時間である18時になった頃に、場内がゆっくりと暗転していき、観客の持つしゃもじライトも鮮明に輝いているのだが、ステージセットは変わったとはいえ、果たしてライブ自体の内容は2日間でどう変わるのだろうかと思っていると、前日とは打って変わって、というかまずはスクリーンに前日のライブの映像が過去のこの場所での思い出であるかのように映し出されているというのは初日を経た2日目だからこそできることであるのだが、その前日のライブ映像の後には
「day100years "ob_start"」
の文字が。それはまさに初日から100年後の世界がこの日のライブを示しているかのようである。
前日はACAねが巨大な壺の中から登場したが、果たして今回は…と思っていると、前日にも使用されていた電話ボックス(これにも草が生い茂っているというのが本当にスタッフの芸が細かいし、昨日のライブが終わってからこのステージを作ったということに頭が下がる)の中にACAねの姿が。
ステージ最下段の上手には前日にはなかったグランドピアノが設置されており、そのピアノの音とACAねのボーカルによる「ばかじゃないのに」から始まるというセトリも演出も違えば、そのピアノを弾いている人物も村山☆潤ではない人物であるのがわかる。それはスクリーンに映るピアニストの頭部が前日の村山のものとは明らかに違う装飾に覆われているからで、そのピアニストの正体はストリートピアノでずとまよの曲を弾いていた動画が話題にもなった、けいちゃん。まさかセトリや演出だけでなく参加メンバー、編成すらも変わるとは、と驚きながらも、最初は明らかにACAねは歌えていないフレーズもあった。
それは村山のキーボードのイントロから始まり、前日同様にホーン隊、Open Reel Ensembleというずとまよの、さらに今回の2daysならではのメンバーのサウンドが吹き荒れる、前日は演奏していなかったダンスポップチューン「低血ボルト」でもそう感じたのだが、でもそれは声が出ていないというわけでもない。もしかしたら2日目にして最後であるだけに、この景色を見て感極まっていて声にならなかった部分もあったんじゃないだろうかとも思う。それくらいに客席で緑色のしゃもじライトが揺れる光景は美しかったから。
ACAねのハミングによる「勘冴えて悔しいわ」がショートバージョンなのは前日同様で、そこからすぐにOpen Reel Ensembleの和田永がTVドラムを叩いてから始まる「マイノリティ脈絡」に続くという流れは前日と同じであり、1〜2曲目が変わっていたとはいえ、さすがに全曲総とっかえというわけではなく、変えるところは同系統の曲に変えるというものであることがわかるのだが、安達貴史のグルーヴィなベースが牽引しながら、河村吉宏のドラムのキメの連打が音源とは比べ物にならないくらいに曲をライブで進化させ、そこに飛び跳ねるようにして弾く佐々木"コジロー"貴之のギターと、華やかなホーン隊3人のサウンドが重なっていく。そのサウンドは前日のライブを経てより練り上がっているし、何よりも最初は歌いきれていないフレーズもあって少し心配もしたACAねのボーカルがこの頃にはやはり全く心配いらないくらいに堂々とその声を響かせるものになっている。
ここで前日同様に挨拶的なMCが入るのだが、そこには前日は言っていなかった、しゃもじ拍子の諸注意もACAねの口から話される。スクリーンには「叩いていいとこ」「振るとこ」「使わないとこ」というマークが出るのだが、前日には「使わないとこ」マークが出ていてもしゃもじ拍子が起こっていたことに対する対応であると思うのだが、それはあくまで複雑な構成とリズムの曲を演奏するメンバーの感覚が狂ってしまうからということが開演前にも告げられていたために、観客側が「あの曲で拍子するの迷惑〜」みたいに揉めたりしたわけではないというのはこのMCでわざわざACAね本人が口にしたこととしては重要なことだと言えるだろう。
前日は「ハゼ馳せる果てるまで」が演奏していたところでは安達の重くグルーヴするベースから始まり、サビに向かうに連れてポップに解放されていくという展開の「JK BOMBER」が演奏されると、「違う曲にしようよ」では河村の上段に神谷洵平のドラムが登場してツインドラムとなり、その神谷がパーカッション的にドラムを連打すると、この日も上手上段に津軽三味線奏者の小山豊が登場して和のサウンドをずとまよのライブに持ち込むと、Open Reel Ensembleの吉田悠と吉田匡がオープンリールを操作し、和田永がTVドラムを叩く中でACAねはステージ上手最上段に移動してラップ的な歌唱をしながら自身の目の前に並んだ電子レンジをパーカッション的に叩く「機械油」と、ますますステージが賑やかになっていくと同時に、ずとまよのライブでしか見ることができない楽器とサウンドが目と耳に入ってくる。
さらには観客のしゃもじ拍子までもが緑色に輝きながら鳴るのは、ACAねをはじめとしたメンバーもしゃもじを叩く「彷徨い酔い音頭」であり、そこからは前日同様にストリングス隊も登場して、その美しい弦の音がより一層幼少期の夜の夏祭りの光景を脳裏に呼び覚ましていく。どこかこの日、このライブがずっと真夜中でいいのに。という街の夏祭りであり、この曲でその街の住人みんなが盆踊りを踊っているかのような。そこには懐かしさと今まさにこの瞬間という切なさが同時に心と記憶の中に刻み込まれていくかのようだ。
前日はここでACAねの飼い猫である「真生姜ストリングス」の深夜のルーティン映像が公開されたのだが、この日はそれを流すことなく、曲のタイトルを絡めた前フリ的な言葉だけで「袖のキルト」が演奏されただけに、より一層「昨日のあの映像は何だったんだ?」という謎に頭が支配されてしまった。
「袖のキルト」は前日の「夜中のキスミ」と入れ替わる形で演奏されたのだが、このライブ2daysはその2曲が収録されたミニアルバム「伸び仕草懲りて暇乞い」のリリースを兼ねたライブだと思ってもいたので、2日間に分けて曲を演奏するというセトリも意外だったし、COUNTDOWN JAPANに出演した時には演奏していたリード曲の「猫リセット」を演奏しないというのも意外であった。コンセプトに縛られないミニアルバムであるだけに、この「袖のキルト」も含めてひたすらにずとまよの美しいメロディの連打に次ぐ連打、それをさらにストリングスが際立たせるという新しいずとまよポップの王道と言えるような曲であるし、
「袖に触れる 瞬間の声
君が靡く 僕は願う」
という、おそらくはタイアップの映画(観てないから想像だけど)に合わせたであろうサビのフレーズの言葉遣いも実に美しい。
するとステージ上からミラーボールが登場し、やはりACAねをはじめとしたメンバーの顔がしっかり見えるとまではいかないけれど鮮やかに場内を照らし、
「BOW」
という動物の鳴き声的な効果音に合わせて観客が一斉に飛び跳ねるのも楽しい「MILABO」もまたストリングス隊が曲の持つメロディを音によるミラーボールのように美しく輝かせ、サビではACAねがしゃもじを振ると、ミラーボールの光が当たって一層強い輝きを放つしゃもじライトが揺れるのが本当に美しい。光ものを持ち込むのが禁止のライブもたくさんあるけれど、ずとまよのライブはアーティスト名的にも基本的に会場が夜中のような暗さであるが故に、このライトが観客それぞれの生命の輝きを表しているようにすら見えるし、みんながそれを持っているからか、全然視覚的にも邪魔に感じることがない。
そして「脳裏上のクラッカー」と前日同様にこの中盤でキラーチューンが連発されるのだが、この日も吉田悠と吉田匡の持つオープンリールのディスク部分がそれぞれ赤と緑に発光し、シンメトリー的な動きで踊るようにそれを動かすことによって最高の視覚効果をもたらしている。
今でこそこうしてずとまよのライブにOpen Reel Ensembleの3人の存在は欠かせないものになっているけれど、ずとまよがデビューするよりもはるかに前に自分はOpen Reel Ensemble単体でのライブを観たことがある。その時は見たこともない楽器をエンタメ性高く操る(リール部分に風船をくくりつけて客席に飛ばしたりしていた)というライブだったのだが、ガジェット的な面白さが強すぎて、バンドの歴史や使っている楽器を紹介する単行本を買ったりしたのだけれど、どんな音楽を鳴らしていたのかは正直あんまり覚えていなかった。
そんなマニアックなことをやっているようなOpen Reel Ensembleが、こんなにもたくさんの人が耳にするようなポップミュージックの最前線で自分たちの楽器を演奏する姿を見てもらうことができていて、それが今やずっと真夜中でいいのに。というアリーナクラスになったアーティストのライブの象徴と言えるような存在になっている。お互いに最も必要とする存在を見つけることができて、それがこんなにも広く深く刺さる音楽へと昇華されている。あの頃ライブを見た時に物販に立っていたメンバーたちに「何年か後にさいたまスーパーアリーナでライブやってますよ」って言ったらそれを信じるのだろうか。
そんなことをステージで躍動している3人の姿を見ながら思っていると、ACAねは最後のサビ前で絶唱と言ってもいいくらいのレベルで声を思いっきり張り上げた。それはもはや前日のこの曲で聞かせてくれたものを自らの力で更新していくかのようで、やっぱり何度聴いても、何度観ても胸が、心が、体が震えてしまう。思いっきり声を張り上げるということは、思いっきり感情を込めているということだから。
すると前日同様にACAねが電話ボックスの中に入っていき、受話器を取ると、前日では後半に話していた
「直接「頑張れ」っていうような歌は歌えないけれど…」
というMCをここでしてから、これまでの豪華なサウンドとは一変して、村山のキーボードとACAねのボーカル、バンドの演奏はそれを支えるための最小限のものという「Dear Mr「F」」でACAねの持つ切なさという感情がこの広い会場に響き渡っていく。
前日ではその「Dear Mr「F」」の前で観客を一旦座席に座らせていたのだが、この日はそうしなかったのは次に演奏された曲が「正しくなれない」から「暗く黒く」に変わっていたからだろう。TVドラムとオープンリールも加わった演奏で、ACAねもステージ下段の定位置まで降りてきて歌うのだが、さすがに座って聴くには間奏で一気にストリングスの音とリズムがテンポアップすることも含めて演奏とサウンドに熱量がありすぎるというか。人気アニメの実写映画の主題歌である「正しくなれない」をセトリから入れ替えるという決断も凄いけれど。
そして和田永の叩くTVドラムに「強」の文字が浮かび上がった段階で観客から拍手が起きた「お勉強しといてよ」では今回のライブメンバー大集結によるサウンドで、ずとまよファクトリーの大パーティーのように観客も踊りまくる。
ここでもホーンとストリングスのサウンドが今まで以上にライブでのずとまよサウンドを増強しているが、続く新曲「ミラーチューン」ではスクリーンに「イカちぃーっす」などのギャル語的な単語が次々にエフェクトとして浮かび上がるという、ずとまよ流原宿ポップと言える曲であり、この曲を歌っている時はACAねが原宿ギャルのように見えてくるから不思議だ。それはもちろんこの曲に合わせて変化させる歌い方によるものもあるだろうし、だからこそ曲最後に張り上げる声も力強さだけでなくキュートさを感じさせるものになっているのだろう。
そんな一大パーティーもいよいよ最終盤ということで、ACAねは
「今日、めちゃくちゃ踊ったなぁって忘れられない日になるように、シャイでも空騒ぎでも踊りましょう!」
と、巧みに歌詞を取り入れながらすでに踊りまくって熱くなっている観客をさらに煽ると、「あいつら全員同窓会」のサビでしゃもじを振りながらリズムに合わせて観客が一斉にジャンプすると、ACAねも佐々木や安達も一緒になって飛び上がるのが楽しい。ACAねも言葉は少ないし、他のメンバーに関しては喋ることはない、観客もそうしたずとまよの世界の中にいるからか、情勢的にも声をあげたりすることはないのだけど、だからこそこの曲でこうしてシャイな空騒ぎをすることができる。すでにずとまよの新たな代表曲になっている曲であるが、この2日間のライブでこうして聴いたことによってより特別な曲になったのだ。
自分も含めて、ずとまよのファンの人にはいわゆる今で言う「陽キャ」的な人は少ないと思う。でもそんなシャイな人たちが、ずとまよのライブに来て、その音を浴びることによって、ACAねが前日に言っていたように精神を解放して空騒ぎすることができる。それはきっとACAねの普段の生活とライブでのギャップと同じなんだと思う。そうして精神を解放して、普段の生活では絶対やる機会がないくらいに踊りまくることができる。そんなことができる自分が確かにいることに気付く。そうしてずとまよのライブに来れば普段は隠れている自分に出会うことができる。またいつかこうやってこのメンバー全員で同窓会ができたらいいなと思う。
そしてこの日もやはり最後に演奏された「秒針を噛む」ではACAねがギターを刻みながら歌い、間奏ではコロナ禍だからこそのコール&しゃもじ拍子がアリーナならではの客席の位置ごとに行われ、さらには前日は「クレッシェンド」バージョンだったのが「デクレッシェンド」バージョンになっている。それにしっかり対応して徐々に小さくする観客も見事であるが、やはり何よりも見事というか素晴らしいのはACAねの絶唱にも似た声の張り上げっぷりだった。それは前日にも心も体も揺さぶられていたのを間違いなく更新していたし、やはりずとまよのライブで1番凄いのは何よりもACAねのボーカルなんだと改めて思った。そのACAねはこの日は登場時に使っていなかった、ステージ上段の巨大な壺の中に入ってステージから去っていった。それはまるで歌の精霊が自分の世界に帰っていくかのようだった。
アンコールで再びACAねが登場すると、この日はこのタイミングで観客を一度客席に座らせる。その状態で演奏された初期のバラード「またね幻」はそのタイトルと
「ちぐはぐで飛び込んで いけるとこまで
近づけるほど 夢で会えるかな
探さなくていい 探さないでよ
今は 忘れさせてよ」
という歌詞の通りに、ACAねの情念すら感じるようなボーカルとキーボードをメインにした削ぎ落としたサウンドであることによってより一層、ACAねがこのまま幻のように消えていってしまう存在なんじゃないかとすら思えるものだった。
そして前日同様にこのさいたまスーパーアリーナでライブをするということが、来たこともなかった頃からの目標であり夢だったことを語るのだが、前日とは違ったのはここで、まだずっと真夜中でいいのに。になる前の路上ライブ時代のことを口にしたこと。
「路上ライブをやっていても見てくれる人は1人とかしかいなくて。その人に「いつかさいたまスーパーアリーナでライブをやりたいんです」って言っても「ハハッ」ってあしらわれるような感じで。
でも路上ライブで人の前に立って歌うのもなんか違うというか怖さみたいなものもあって。それでボカロも好きだったから、ボカロの曲を歌ってみたら、ぬゆりさんや100回嘔吐さんと知り合うことができて、一緒に音楽を作ることができて、ライブを作ってくれるメンバーとも出会えて、こうやってさいたまスーパーアリーナに立つことができました。
今日が集大成ってわけではないけれど、100年ぶりに弾き語りで歌います」
というこれまでの活動の中で感じてきた心情を素直に来てくれた人に打ち明ける(それは非常に珍しいことである)とともに、やはりこの日は前日の100年後の世界であるということを思わせながら、アコギを弾きながら歌い始めたのは前日はバンドバージョンで演奏されていた「サターン」。
この弾き語りというかアコースティックバージョン自体は「朗らかな皮膚とて不服」のCDにボーナストラック的に収録されているものであり、その音源やこれまでの弾き語り配信からも感じられることなのだが、ACAねの弾き語りはただ既存の曲をアコギで弾きながら歌いました、というものではなく、その歌声とアコギの音がどこかメロディだけではなくリズムを刻んでいるようにも感じる。それは例えば崎山蒼志の弾き語りにも通じるものでもあると思っているのだが、それによって生じる、一人で歌い鳴らすからこそ感じられるエモーションが確かにある。この歌声が路上に響いていた時にその存在に気付くことができなかった自分の未熟さを恥じるばかりと思うくらいに。
そうして「サターン」を弾き語りで歌い切ったかと思ったら、アウトロで急におなじみのバンドバージョンの「サターン」のダンサブルなサウンドが流れ始め、この日のライブメンバー全員がステージに現れる。メンバーによっては演奏しながら、あるいはしゃもじを持って踊りながら。それはかつて1人きりで歌っていたACAねが、ずっと真夜中でいいのに。になったことによって、1人ではなくて一緒に音楽を作る、ライブで音を鳴らす仲間がいるということを証明するかのようだった。踊っている姿もそうであるが、本当に楽しそうに演奏しているメンバーの姿を見ると、ずとまよのライブメンバーはただ演奏が上手いだけではなくて、こうしたコンセプチュアルなライブを一緒に面白がって作り上げてくれる人間性を持った人たちが集まっているんだなと思う。それはACAねの歌が引き寄せたのだとも言える。それもまたただ上手いだけではなくて、確かな感情が宿った歌声を発することができる人だから。
そうして再びこの日のライブメンバーが全員集合すると、この日は村山ではなくてオープニングに登場したピアニストのけいちゃんがACAねの指揮に合わせて調子外れなピアニカの音色を吹く。全員集合と言いながらも、前日よりもさらに人数が増えた編成での「正義」である。
無数のレーザー光線がステージからあらゆる方向の客席を照らす様はまさにさいたまスーパーアリーナが巨大なダンスフロアになった瞬間であったが、間奏ではやはりメンバー紹介も兼ねたソロ回しも行われる。そこには昨日はいなかったけいちゃんのピアノと河村、神谷のツインドラムの掛け合いという、この日にしかないバトル的な演奏までも追加されて、改めてこのメンバーの演奏の凄まじさを感じざるを得ないのだが、そのソロが終わるとベースの安達は定位置からさらにステージ前に出て、観客を「もっと来い」と煽るように、この曲のダンサブルなサウンドの心臓部分であるリズムを刻む。ずとまよのベースと言えばタンクトップ姿がおなじみの二家本亮介がずっと担ってきたが、この安達も完全にずとまよの一員として、感情が昂りまくっていることがわかる演奏を見せてくれている。もちろんその姿と鳴らす音が我々をたまアリの狭い客席をものともせずにさらに踊らせてくれる。
その安達のすぐ横までステージ上を歩き回りながら歌っていたACAねはアウトロでコーラスの声を受けながら、最後に思いっきり声を張り上げた。それはACAねの魂の叫びと言っていいくらいに、これまで聴いてきた中で最も凄まじいものだった。
きっとACAねは無自覚なようでいて、自分の歌声にとくべつな特別な力が宿っていることをわかっている。そしてそこには確かに感情が宿っていて、顔が未だによくわからないACAねが紛れもなく人間であることが伝わってくる。その感情がこもった歌声を聴いて、自分の感情が揺さぶられているのがわかる。人間と人間の、感情の交歓が行われている。自分にちゃんと人としての感情がある。ACAねの歌声は、ずとまよの鳴らす音はここにいる自分が人間であることを確かに証明してくれていたのだ。
演奏が終わるとメンバーが次々にステージを去る中、ACAねはこの日のオープニング時と同じように電話ボックスの中に入り、
「気をつけて帰って。また会いましょう」
と手を振った。その直後に暗転し、この会場は真夜中になった。その後、スクリーンには26公演に及ぶ次なるツアーの詳細が映し出された。集大成と言えないくらいにまたすぐに走り出そうとしているけれど、間違いなく他の誰にも同じことができっこない、今のずとまよの最高峰を刻んだ、さいたまスーパーアリーナ2daysだった。
「音楽は最大の好き嫌いである」と、自分の好きなアーティストがかつて口にしていた。確かにその通りだ。自分にも好きな音楽がある一方で、好きじゃない音楽も確かにある。逆に自分が好きな音楽を好きじゃない人がいることもわかっている。
でもライブの凄さというのは音楽の好き嫌いを飛び越えてわかるものだと思っている。音楽はそこまで好みじゃなくてもライブはめちゃくちゃ凄いな、と思ったことがあるライブも何度か見たことがある。
そんな、好き嫌いすら飛び越えたライブの凄まじさを今1番どんな人にとっても体感させてくれるのがずとまよのライブだと自分は思っている。もちろん自分はずとまよの音楽が大好きだからこそこうしてライブに行き続けているわけだが、ずとまよを知らない人や、知っていてもそこまで深く聴いていない人でも、ライブを観たらぶったまげてしまうような。そんなライブをやっている筆頭だと思っている。
目に見えるものが全てって思いたいのに、そう思うにはやっぱり目に見えないずとまよの音楽が、ACAねの歌声があまりにも凄まじすぎるからこそ、目に見えるものが全てじゃないと思えるようになった。
1.ばかじゃないのに
2.低血ボルト
3.勘冴えて悔しいわ
4.マイノリティ脈絡
5.JK BOMBER
6.違う曲にしようよ
7.機械油
8.彷徨い酔い音頭
9.袖のキルト
10.MILABO
11.脳裏上のクラッカー
12.Dear Mr「F」
13.暗く黒く
14.お勉強しといてよ
15.ミラーチューン
16.あいつら全員同窓会
17.秒針を噛む
encore
18.またね幻
19.サターン
20.正義
場内に入ると前日とは全く違う雰囲気に感じるのは、薄暗い中でもステージが前日はなかった蔦や草に覆われているということ。これは前日に操業していた工場が長い年月を経て荒廃してしまったということを表しているのだろうか。
この日はライブが終わってもまだ真夜中にはならない時間である18時になった頃に、場内がゆっくりと暗転していき、観客の持つしゃもじライトも鮮明に輝いているのだが、ステージセットは変わったとはいえ、果たしてライブ自体の内容は2日間でどう変わるのだろうかと思っていると、前日とは打って変わって、というかまずはスクリーンに前日のライブの映像が過去のこの場所での思い出であるかのように映し出されているというのは初日を経た2日目だからこそできることであるのだが、その前日のライブ映像の後には
「day100years "ob_start"」
の文字が。それはまさに初日から100年後の世界がこの日のライブを示しているかのようである。
前日はACAねが巨大な壺の中から登場したが、果たして今回は…と思っていると、前日にも使用されていた電話ボックス(これにも草が生い茂っているというのが本当にスタッフの芸が細かいし、昨日のライブが終わってからこのステージを作ったということに頭が下がる)の中にACAねの姿が。
ステージ最下段の上手には前日にはなかったグランドピアノが設置されており、そのピアノの音とACAねのボーカルによる「ばかじゃないのに」から始まるというセトリも演出も違えば、そのピアノを弾いている人物も村山☆潤ではない人物であるのがわかる。それはスクリーンに映るピアニストの頭部が前日の村山のものとは明らかに違う装飾に覆われているからで、そのピアニストの正体はストリートピアノでずとまよの曲を弾いていた動画が話題にもなった、けいちゃん。まさかセトリや演出だけでなく参加メンバー、編成すらも変わるとは、と驚きながらも、最初は明らかにACAねは歌えていないフレーズもあった。
それは村山のキーボードのイントロから始まり、前日同様にホーン隊、Open Reel Ensembleというずとまよの、さらに今回の2daysならではのメンバーのサウンドが吹き荒れる、前日は演奏していなかったダンスポップチューン「低血ボルト」でもそう感じたのだが、でもそれは声が出ていないというわけでもない。もしかしたら2日目にして最後であるだけに、この景色を見て感極まっていて声にならなかった部分もあったんじゃないだろうかとも思う。それくらいに客席で緑色のしゃもじライトが揺れる光景は美しかったから。
ACAねのハミングによる「勘冴えて悔しいわ」がショートバージョンなのは前日同様で、そこからすぐにOpen Reel Ensembleの和田永がTVドラムを叩いてから始まる「マイノリティ脈絡」に続くという流れは前日と同じであり、1〜2曲目が変わっていたとはいえ、さすがに全曲総とっかえというわけではなく、変えるところは同系統の曲に変えるというものであることがわかるのだが、安達貴史のグルーヴィなベースが牽引しながら、河村吉宏のドラムのキメの連打が音源とは比べ物にならないくらいに曲をライブで進化させ、そこに飛び跳ねるようにして弾く佐々木"コジロー"貴之のギターと、華やかなホーン隊3人のサウンドが重なっていく。そのサウンドは前日のライブを経てより練り上がっているし、何よりも最初は歌いきれていないフレーズもあって少し心配もしたACAねのボーカルがこの頃にはやはり全く心配いらないくらいに堂々とその声を響かせるものになっている。
ここで前日同様に挨拶的なMCが入るのだが、そこには前日は言っていなかった、しゃもじ拍子の諸注意もACAねの口から話される。スクリーンには「叩いていいとこ」「振るとこ」「使わないとこ」というマークが出るのだが、前日には「使わないとこ」マークが出ていてもしゃもじ拍子が起こっていたことに対する対応であると思うのだが、それはあくまで複雑な構成とリズムの曲を演奏するメンバーの感覚が狂ってしまうからということが開演前にも告げられていたために、観客側が「あの曲で拍子するの迷惑〜」みたいに揉めたりしたわけではないというのはこのMCでわざわざACAね本人が口にしたこととしては重要なことだと言えるだろう。
前日は「ハゼ馳せる果てるまで」が演奏していたところでは安達の重くグルーヴするベースから始まり、サビに向かうに連れてポップに解放されていくという展開の「JK BOMBER」が演奏されると、「違う曲にしようよ」では河村の上段に神谷洵平のドラムが登場してツインドラムとなり、その神谷がパーカッション的にドラムを連打すると、この日も上手上段に津軽三味線奏者の小山豊が登場して和のサウンドをずとまよのライブに持ち込むと、Open Reel Ensembleの吉田悠と吉田匡がオープンリールを操作し、和田永がTVドラムを叩く中でACAねはステージ上手最上段に移動してラップ的な歌唱をしながら自身の目の前に並んだ電子レンジをパーカッション的に叩く「機械油」と、ますますステージが賑やかになっていくと同時に、ずとまよのライブでしか見ることができない楽器とサウンドが目と耳に入ってくる。
さらには観客のしゃもじ拍子までもが緑色に輝きながら鳴るのは、ACAねをはじめとしたメンバーもしゃもじを叩く「彷徨い酔い音頭」であり、そこからは前日同様にストリングス隊も登場して、その美しい弦の音がより一層幼少期の夜の夏祭りの光景を脳裏に呼び覚ましていく。どこかこの日、このライブがずっと真夜中でいいのに。という街の夏祭りであり、この曲でその街の住人みんなが盆踊りを踊っているかのような。そこには懐かしさと今まさにこの瞬間という切なさが同時に心と記憶の中に刻み込まれていくかのようだ。
前日はここでACAねの飼い猫である「真生姜ストリングス」の深夜のルーティン映像が公開されたのだが、この日はそれを流すことなく、曲のタイトルを絡めた前フリ的な言葉だけで「袖のキルト」が演奏されただけに、より一層「昨日のあの映像は何だったんだ?」という謎に頭が支配されてしまった。
「袖のキルト」は前日の「夜中のキスミ」と入れ替わる形で演奏されたのだが、このライブ2daysはその2曲が収録されたミニアルバム「伸び仕草懲りて暇乞い」のリリースを兼ねたライブだと思ってもいたので、2日間に分けて曲を演奏するというセトリも意外だったし、COUNTDOWN JAPANに出演した時には演奏していたリード曲の「猫リセット」を演奏しないというのも意外であった。コンセプトに縛られないミニアルバムであるだけに、この「袖のキルト」も含めてひたすらにずとまよの美しいメロディの連打に次ぐ連打、それをさらにストリングスが際立たせるという新しいずとまよポップの王道と言えるような曲であるし、
「袖に触れる 瞬間の声
君が靡く 僕は願う」
という、おそらくはタイアップの映画(観てないから想像だけど)に合わせたであろうサビのフレーズの言葉遣いも実に美しい。
するとステージ上からミラーボールが登場し、やはりACAねをはじめとしたメンバーの顔がしっかり見えるとまではいかないけれど鮮やかに場内を照らし、
「BOW」
という動物の鳴き声的な効果音に合わせて観客が一斉に飛び跳ねるのも楽しい「MILABO」もまたストリングス隊が曲の持つメロディを音によるミラーボールのように美しく輝かせ、サビではACAねがしゃもじを振ると、ミラーボールの光が当たって一層強い輝きを放つしゃもじライトが揺れるのが本当に美しい。光ものを持ち込むのが禁止のライブもたくさんあるけれど、ずとまよのライブはアーティスト名的にも基本的に会場が夜中のような暗さであるが故に、このライトが観客それぞれの生命の輝きを表しているようにすら見えるし、みんながそれを持っているからか、全然視覚的にも邪魔に感じることがない。
そして「脳裏上のクラッカー」と前日同様にこの中盤でキラーチューンが連発されるのだが、この日も吉田悠と吉田匡の持つオープンリールのディスク部分がそれぞれ赤と緑に発光し、シンメトリー的な動きで踊るようにそれを動かすことによって最高の視覚効果をもたらしている。
今でこそこうしてずとまよのライブにOpen Reel Ensembleの3人の存在は欠かせないものになっているけれど、ずとまよがデビューするよりもはるかに前に自分はOpen Reel Ensemble単体でのライブを観たことがある。その時は見たこともない楽器をエンタメ性高く操る(リール部分に風船をくくりつけて客席に飛ばしたりしていた)というライブだったのだが、ガジェット的な面白さが強すぎて、バンドの歴史や使っている楽器を紹介する単行本を買ったりしたのだけれど、どんな音楽を鳴らしていたのかは正直あんまり覚えていなかった。
そんなマニアックなことをやっているようなOpen Reel Ensembleが、こんなにもたくさんの人が耳にするようなポップミュージックの最前線で自分たちの楽器を演奏する姿を見てもらうことができていて、それが今やずっと真夜中でいいのに。というアリーナクラスになったアーティストのライブの象徴と言えるような存在になっている。お互いに最も必要とする存在を見つけることができて、それがこんなにも広く深く刺さる音楽へと昇華されている。あの頃ライブを見た時に物販に立っていたメンバーたちに「何年か後にさいたまスーパーアリーナでライブやってますよ」って言ったらそれを信じるのだろうか。
そんなことをステージで躍動している3人の姿を見ながら思っていると、ACAねは最後のサビ前で絶唱と言ってもいいくらいのレベルで声を思いっきり張り上げた。それはもはや前日のこの曲で聞かせてくれたものを自らの力で更新していくかのようで、やっぱり何度聴いても、何度観ても胸が、心が、体が震えてしまう。思いっきり声を張り上げるということは、思いっきり感情を込めているということだから。
すると前日同様にACAねが電話ボックスの中に入っていき、受話器を取ると、前日では後半に話していた
「直接「頑張れ」っていうような歌は歌えないけれど…」
というMCをここでしてから、これまでの豪華なサウンドとは一変して、村山のキーボードとACAねのボーカル、バンドの演奏はそれを支えるための最小限のものという「Dear Mr「F」」でACAねの持つ切なさという感情がこの広い会場に響き渡っていく。
前日ではその「Dear Mr「F」」の前で観客を一旦座席に座らせていたのだが、この日はそうしなかったのは次に演奏された曲が「正しくなれない」から「暗く黒く」に変わっていたからだろう。TVドラムとオープンリールも加わった演奏で、ACAねもステージ下段の定位置まで降りてきて歌うのだが、さすがに座って聴くには間奏で一気にストリングスの音とリズムがテンポアップすることも含めて演奏とサウンドに熱量がありすぎるというか。人気アニメの実写映画の主題歌である「正しくなれない」をセトリから入れ替えるという決断も凄いけれど。
そして和田永の叩くTVドラムに「強」の文字が浮かび上がった段階で観客から拍手が起きた「お勉強しといてよ」では今回のライブメンバー大集結によるサウンドで、ずとまよファクトリーの大パーティーのように観客も踊りまくる。
ここでもホーンとストリングスのサウンドが今まで以上にライブでのずとまよサウンドを増強しているが、続く新曲「ミラーチューン」ではスクリーンに「イカちぃーっす」などのギャル語的な単語が次々にエフェクトとして浮かび上がるという、ずとまよ流原宿ポップと言える曲であり、この曲を歌っている時はACAねが原宿ギャルのように見えてくるから不思議だ。それはもちろんこの曲に合わせて変化させる歌い方によるものもあるだろうし、だからこそ曲最後に張り上げる声も力強さだけでなくキュートさを感じさせるものになっているのだろう。
そんな一大パーティーもいよいよ最終盤ということで、ACAねは
「今日、めちゃくちゃ踊ったなぁって忘れられない日になるように、シャイでも空騒ぎでも踊りましょう!」
と、巧みに歌詞を取り入れながらすでに踊りまくって熱くなっている観客をさらに煽ると、「あいつら全員同窓会」のサビでしゃもじを振りながらリズムに合わせて観客が一斉にジャンプすると、ACAねも佐々木や安達も一緒になって飛び上がるのが楽しい。ACAねも言葉は少ないし、他のメンバーに関しては喋ることはない、観客もそうしたずとまよの世界の中にいるからか、情勢的にも声をあげたりすることはないのだけど、だからこそこの曲でこうしてシャイな空騒ぎをすることができる。すでにずとまよの新たな代表曲になっている曲であるが、この2日間のライブでこうして聴いたことによってより特別な曲になったのだ。
自分も含めて、ずとまよのファンの人にはいわゆる今で言う「陽キャ」的な人は少ないと思う。でもそんなシャイな人たちが、ずとまよのライブに来て、その音を浴びることによって、ACAねが前日に言っていたように精神を解放して空騒ぎすることができる。それはきっとACAねの普段の生活とライブでのギャップと同じなんだと思う。そうして精神を解放して、普段の生活では絶対やる機会がないくらいに踊りまくることができる。そんなことができる自分が確かにいることに気付く。そうしてずとまよのライブに来れば普段は隠れている自分に出会うことができる。またいつかこうやってこのメンバー全員で同窓会ができたらいいなと思う。
そしてこの日もやはり最後に演奏された「秒針を噛む」ではACAねがギターを刻みながら歌い、間奏ではコロナ禍だからこそのコール&しゃもじ拍子がアリーナならではの客席の位置ごとに行われ、さらには前日は「クレッシェンド」バージョンだったのが「デクレッシェンド」バージョンになっている。それにしっかり対応して徐々に小さくする観客も見事であるが、やはり何よりも見事というか素晴らしいのはACAねの絶唱にも似た声の張り上げっぷりだった。それは前日にも心も体も揺さぶられていたのを間違いなく更新していたし、やはりずとまよのライブで1番凄いのは何よりもACAねのボーカルなんだと改めて思った。そのACAねはこの日は登場時に使っていなかった、ステージ上段の巨大な壺の中に入ってステージから去っていった。それはまるで歌の精霊が自分の世界に帰っていくかのようだった。
アンコールで再びACAねが登場すると、この日はこのタイミングで観客を一度客席に座らせる。その状態で演奏された初期のバラード「またね幻」はそのタイトルと
「ちぐはぐで飛び込んで いけるとこまで
近づけるほど 夢で会えるかな
探さなくていい 探さないでよ
今は 忘れさせてよ」
という歌詞の通りに、ACAねの情念すら感じるようなボーカルとキーボードをメインにした削ぎ落としたサウンドであることによってより一層、ACAねがこのまま幻のように消えていってしまう存在なんじゃないかとすら思えるものだった。
そして前日同様にこのさいたまスーパーアリーナでライブをするということが、来たこともなかった頃からの目標であり夢だったことを語るのだが、前日とは違ったのはここで、まだずっと真夜中でいいのに。になる前の路上ライブ時代のことを口にしたこと。
「路上ライブをやっていても見てくれる人は1人とかしかいなくて。その人に「いつかさいたまスーパーアリーナでライブをやりたいんです」って言っても「ハハッ」ってあしらわれるような感じで。
でも路上ライブで人の前に立って歌うのもなんか違うというか怖さみたいなものもあって。それでボカロも好きだったから、ボカロの曲を歌ってみたら、ぬゆりさんや100回嘔吐さんと知り合うことができて、一緒に音楽を作ることができて、ライブを作ってくれるメンバーとも出会えて、こうやってさいたまスーパーアリーナに立つことができました。
今日が集大成ってわけではないけれど、100年ぶりに弾き語りで歌います」
というこれまでの活動の中で感じてきた心情を素直に来てくれた人に打ち明ける(それは非常に珍しいことである)とともに、やはりこの日は前日の100年後の世界であるということを思わせながら、アコギを弾きながら歌い始めたのは前日はバンドバージョンで演奏されていた「サターン」。
この弾き語りというかアコースティックバージョン自体は「朗らかな皮膚とて不服」のCDにボーナストラック的に収録されているものであり、その音源やこれまでの弾き語り配信からも感じられることなのだが、ACAねの弾き語りはただ既存の曲をアコギで弾きながら歌いました、というものではなく、その歌声とアコギの音がどこかメロディだけではなくリズムを刻んでいるようにも感じる。それは例えば崎山蒼志の弾き語りにも通じるものでもあると思っているのだが、それによって生じる、一人で歌い鳴らすからこそ感じられるエモーションが確かにある。この歌声が路上に響いていた時にその存在に気付くことができなかった自分の未熟さを恥じるばかりと思うくらいに。
そうして「サターン」を弾き語りで歌い切ったかと思ったら、アウトロで急におなじみのバンドバージョンの「サターン」のダンサブルなサウンドが流れ始め、この日のライブメンバー全員がステージに現れる。メンバーによっては演奏しながら、あるいはしゃもじを持って踊りながら。それはかつて1人きりで歌っていたACAねが、ずっと真夜中でいいのに。になったことによって、1人ではなくて一緒に音楽を作る、ライブで音を鳴らす仲間がいるということを証明するかのようだった。踊っている姿もそうであるが、本当に楽しそうに演奏しているメンバーの姿を見ると、ずとまよのライブメンバーはただ演奏が上手いだけではなくて、こうしたコンセプチュアルなライブを一緒に面白がって作り上げてくれる人間性を持った人たちが集まっているんだなと思う。それはACAねの歌が引き寄せたのだとも言える。それもまたただ上手いだけではなくて、確かな感情が宿った歌声を発することができる人だから。
そうして再びこの日のライブメンバーが全員集合すると、この日は村山ではなくてオープニングに登場したピアニストのけいちゃんがACAねの指揮に合わせて調子外れなピアニカの音色を吹く。全員集合と言いながらも、前日よりもさらに人数が増えた編成での「正義」である。
無数のレーザー光線がステージからあらゆる方向の客席を照らす様はまさにさいたまスーパーアリーナが巨大なダンスフロアになった瞬間であったが、間奏ではやはりメンバー紹介も兼ねたソロ回しも行われる。そこには昨日はいなかったけいちゃんのピアノと河村、神谷のツインドラムの掛け合いという、この日にしかないバトル的な演奏までも追加されて、改めてこのメンバーの演奏の凄まじさを感じざるを得ないのだが、そのソロが終わるとベースの安達は定位置からさらにステージ前に出て、観客を「もっと来い」と煽るように、この曲のダンサブルなサウンドの心臓部分であるリズムを刻む。ずとまよのベースと言えばタンクトップ姿がおなじみの二家本亮介がずっと担ってきたが、この安達も完全にずとまよの一員として、感情が昂りまくっていることがわかる演奏を見せてくれている。もちろんその姿と鳴らす音が我々をたまアリの狭い客席をものともせずにさらに踊らせてくれる。
その安達のすぐ横までステージ上を歩き回りながら歌っていたACAねはアウトロでコーラスの声を受けながら、最後に思いっきり声を張り上げた。それはACAねの魂の叫びと言っていいくらいに、これまで聴いてきた中で最も凄まじいものだった。
きっとACAねは無自覚なようでいて、自分の歌声にとくべつな特別な力が宿っていることをわかっている。そしてそこには確かに感情が宿っていて、顔が未だによくわからないACAねが紛れもなく人間であることが伝わってくる。その感情がこもった歌声を聴いて、自分の感情が揺さぶられているのがわかる。人間と人間の、感情の交歓が行われている。自分にちゃんと人としての感情がある。ACAねの歌声は、ずとまよの鳴らす音はここにいる自分が人間であることを確かに証明してくれていたのだ。
演奏が終わるとメンバーが次々にステージを去る中、ACAねはこの日のオープニング時と同じように電話ボックスの中に入り、
「気をつけて帰って。また会いましょう」
と手を振った。その直後に暗転し、この会場は真夜中になった。その後、スクリーンには26公演に及ぶ次なるツアーの詳細が映し出された。集大成と言えないくらいにまたすぐに走り出そうとしているけれど、間違いなく他の誰にも同じことができっこない、今のずとまよの最高峰を刻んだ、さいたまスーパーアリーナ2daysだった。
「音楽は最大の好き嫌いである」と、自分の好きなアーティストがかつて口にしていた。確かにその通りだ。自分にも好きな音楽がある一方で、好きじゃない音楽も確かにある。逆に自分が好きな音楽を好きじゃない人がいることもわかっている。
でもライブの凄さというのは音楽の好き嫌いを飛び越えてわかるものだと思っている。音楽はそこまで好みじゃなくてもライブはめちゃくちゃ凄いな、と思ったことがあるライブも何度か見たことがある。
そんな、好き嫌いすら飛び越えたライブの凄まじさを今1番どんな人にとっても体感させてくれるのがずとまよのライブだと自分は思っている。もちろん自分はずとまよの音楽が大好きだからこそこうしてライブに行き続けているわけだが、ずとまよを知らない人や、知っていてもそこまで深く聴いていない人でも、ライブを観たらぶったまげてしまうような。そんなライブをやっている筆頭だと思っている。
目に見えるものが全てって思いたいのに、そう思うにはやっぱり目に見えないずとまよの音楽が、ACAねの歌声があまりにも凄まじすぎるからこそ、目に見えるものが全てじゃないと思えるようになった。
1.ばかじゃないのに
2.低血ボルト
3.勘冴えて悔しいわ
4.マイノリティ脈絡
5.JK BOMBER
6.違う曲にしようよ
7.機械油
8.彷徨い酔い音頭
9.袖のキルト
10.MILABO
11.脳裏上のクラッカー
12.Dear Mr「F」
13.暗く黒く
14.お勉強しといてよ
15.ミラーチューン
16.あいつら全員同窓会
17.秒針を噛む
encore
18.またね幻
19.サターン
20.正義
DOPING PANDA ∞ THE REUNION TOUR @Zepp Haneda 4/23 ホーム
ずっと真夜中でいいのに。 Z FACTORY 「鷹は飢えても踊り忘れず」 day1 "memory_limit=-1" @さいたまスーパーアリーナ 4/16