ヨルシカ LIVE TOUR 2022 月光再演 @東京ガーデンシアター 3/30
- 2022/03/31
- 22:21
ヨルシカが「だから僕は音楽を辞めた」「エルマ」というアルバム2枚を通して描いた物語を描いた、2019年のライブ「月光」。
当時全くチケットが取れず、遠征しようとしてもそれでもチケットが取れないというくらいの状況だっただけに、ライブで聴くことができないと思っていた曲たちを今にしてライブで聴けるというのは実に嬉しいことである。
大阪、名古屋を経ての東京は有明のガーデンシアターでの2daysであり、この日は初日。昨年も東京国際フォーラムでライブ「盗作」を開催しており、ようやく今の状況にふさわしい会場でライブをやるようになったということだろうか。
しかし大きな会場になったことによって、入場前から場内は長蛇の列に。すでにガーデンシアターには何回も来ているけれど、こんなに入場に時間がかかったことはなかったというレベル。それくらいにたくさんの人を入れていい状況になったということでもあるけれど。
そんな入場列の長さを超えてようやくガーデンシアターの中に入ると、広いステージには機材とともに、アルバムの中のとある場面を思い出させるような(そして最近観たサカナクションのライブを思い出すような)オブジェと、ステージ真ん中のスクリーンには桟橋とその上に光る満月の映像が。波がさざめくようなBGMも相まって、自分自身がこの物語の中のこの場所にいるかのような気分になる。
そんな入場列の混雑具合だったので、まぁ開演はちょっと押すだろうとは思っていたのだが、やはり開演時間の19時を15〜20分ほど過ぎた頃に開演を告げるブザーの音が鳴って場内が暗転。スクリーンには水中を思わせるような映像が映し出されると、その映像に
「海の底にいるような気分だ」
という朗読が乗る。その朗読も最初は録音したものを流しているような聞こえ方だったのが、すぐに明らかにステージ上でマイクを通して発しているのがわかる声に変わる。薄暗いステージ上にはn-buna(ギター)がマイクスタンドの前におり、その声の主が彼であるのがわかる…というのは昨年の「盗作」の時と同様であり、映像に
歌唱:suis
ギター:n-buna
とサポートメンバーも含む演者の名前も映し出され、メンバー全員もステージに登場。suisは白い衣装を着ているのが薄暗い中でも目立つ。やはりアリーナ席であっても顔まではハッキリと観ることは出来ないけれど。
朗読が終わると、物語の始まりを告げるようにn-bunaのギターが鳴る。ステージ下手端の高台にはドラム、その下にギターとベース(シンガーソングライターとしても活動するキタニタツヤ)、上手端の高台にはキーボード、その真ん中にsuis、上手よりにn-bunaという立ち位置で演奏されたのは「エルマ」収録の「夕凪、某、花惑い」。何度聴いたかわからない、でもライブで聴けることはないんじゃないかとすら思っていたギターリフが目の前で鳴っている。スクリーンに映し出される手書き文字の歌詞をsuisが目の前で歌っている。その感覚はどれだけたくさんいろんなライブを観てきても抗えないくらいに体が、何よりも心が底から震えるようなものだった。2枚のアルバムをどちらも初回盤で買っていたのにその曲たちをライブで聴けなかった自分がついにエイミーとエルマの2人の物語を目の前で体感しているのだ。
「ロックンロールを書いた
あの夏ばっか歌っていた」
というBメロからサビへと至る瞬間に一気にスピード感を増していくドラムのリズム。語り部として高らかにその透明感あふれる歌声を響かせるsuis。
「想い出の僕ら 夜しか見えぬ幽霊だった」
というバンド名が出てくるフレーズも、
「僕らを貶す奴らを殺したい
君ならきっと笑ってくれる」
という、未だに共感を覚えてしまうようなフレーズも。まるで自分が物語の中に入り込んだかのようであり、曲最後には
「僕に差す月明かり」
というライブタイトルに合わせたフレーズを、まさに月明かりのような、ステージの真ん中に向かってのみ差す黄色い照明に照らされながらsuisが歌う。その直後のアウトロのギターリフも含めて、ヨルシカのギターロックさがオープニングから炸裂している。
それは続く
「何もいらない」
というsuisの歌い出しとともにn-bunaのギターリフが鳴らされる、先ほどの曲と対になる視点での「八月、某、月明かり」では
「東伏見の高架橋、小平、富士見通りと商店街」
というフレーズに合わせるかのように都内の商店街の中などを疾走感あふれるサウンドによって駆け抜けていくような映像が流れる。n-bunaのギターは音源と比べるとところどころ外し気味かもしれない、とも思うような部分もあったのだが、それが逆にライブならではだなというか、音源とは全く違う人間が鳴らす音楽としての体温を確かに感じさせてくれる。
「人生、二十七で死ねるならロックンロールは僕を救った
考えるのも辞めだ!どうせ死ぬんだから
君も、何もいらない」
という歌詞は27歳を過ぎてもなおこうして生き長らえている自分がシド・ヴィシャスやカート・コバーンのようにその年齢でこの世を去ってしまったロックンロールスターではなかったということを痛感させられるし、それはもしかしたらn-bunaもそうなのかもしれないし、(年齢は知らないけれど)
「ストックホルムの露天商、キルナ、ガムラスタンは石畳」
というフレーズが描く情景からはこの後に迎える物語の展開に想いを馳せざるを得ない。
「そうだ、きっとそうだ
あの世ではロックンロールが流れてるんだ
賛美歌とか流行らない
神様がいないんだから」
というフレーズがその通りならば、あの世というのは居心地が良いからロックスターたちが早くにそちらに行ってしまって帰ってこれないんだろうなということも。
ここで朗読が入ることによって場面、シチュエーションは変わる。この朗読によって改めてこの物語がエイミーとエルマの2人のものであるということがわかるのであるが、ここから挟まれる朗読は全てn-bunaがステージ上で口にする。どこか口調がたどたどしく感じるのはその朗読をトラック的なリズムに乗せているからでもあり、病を抱えたエイミーの口調がこうしたものであるということを表現しているのだろう。
その朗読はエイミーが物語を綴る覚悟を口にしたものであるのだが、
「変わらないように
君が主役のプロットを書くノートの中」
「エルマ、君なんだよ
君だけが僕の音楽なんだ」
という「藍二乗」のフレーズはそのエイミーの心情がそのまま音楽になったかのようですらあるし、
「ただ、ただ君だけを描け」
というサビでの「ただ」のファルセットかどうかのギリギリのラインで歌うsuisの歌唱がその心情に強い信念がこもっていることを感じさせる。ただキーに合わせて歌うだけではない、エイミーの心情を完璧に理解した上で感情を込めて歌うことで、フィクションは現実となって我々の目の前に現れる。そんなことすら感じさせてくれる。
そのエイミーが「八月、某、月明かり」で見えていた都内の商店街の光景を後にして旅に出ていくのがわかるのは、「神様のダンス」演奏時の映像が電車の車窓から見ている景色が流れていくというものだったからだ。
「音楽だけでいいんだろ
他人に合わせて歩くなよ
教えてくれたのはあんたじゃないか」
「どうだっていいよ、このまま遠くへ
誰も知らない場所で月明かりを探すのだ」
というタイトルや物語の確信に迫るようなフレーズも散りばめられているが、この段階ではまだそこまでの切迫感は感じられないのはどこか飄々としているような浮遊感を感じさせる、先ほどまでの疾走感あふれるギターロックとはまた違ったタイプのギターのサウンドによるものが大きいのだろう。
それはこの後に演奏される曲を想起させる軽快なリズムの「夜紛い」もそうであるが、
「人生ごとマシンガン、消し飛ばしてもっと
心臓すら攫って ねぇ、さよなら一言で
悲しいことを消したい
嬉しいことも消したい
心を消したい
君に一つでいい、ただ穴を開けたい」
というサビのフレーズもまたこの後に演奏される曲を想起させながらも、どこかこの物語が綴られる前にリリースされ、この物語の後にn-bunaが描いた物語でも大きな役割を果たすことになる「爆弾魔」をも彷彿とさせるところもあるのだが、何よりも
「ライブハウスの中で等身大を歌ってる
金にもならないような歌なんか歌いやがってさ、馬鹿みたいだな」
という強烈なフレーズは
「切ない歌を消したい 優しい歌も消したい
聞くだけで痛い 僕に一つでいい」
という歌詞が続くことによって、この主人公(エイミー)もかつてはそうした歌を歌ってということを感じさせるし、こんなにも歌詞を引用しまくってしまうのは、全ての曲においてその歌詞が手書きの文字でスクリーンに映し出されるからであり、そうして改めて歌詞を追いながら聴くことによってsuisの歌唱の感情も相まって1フレーズ、1単語が深く突き刺さってくるからだ。それはやはりこうしてこの「月光」をライブで体験することができているからこそ。
実際にエイミーが旅をして物語を書こうと誓う、それをエルマに読んでもらいたいことを語る朗読を挟むとガラッとサウンドと雰囲気は変わる。それはどこかオシャレさすら感じるサウンドが、カフェでまさにカプチーノを飲みながら文章を書いているかのようなアニメーションと融合している「雨とカプチーノ」が演奏されたからであるが、個人的にはこの曲と対になっている曲である「詩書きとコーヒー」も大好きな曲であるために、いつかまた違う機会にでも是非ライブで聴いてみたいと思っている。
すると「六月は雨上がりの街を書く」と、雨の描写の曲が続くのだが、その雨が降っていることによってステージ上がさらにどんよりとした暗さを纏う中、それを照らすようにレーザーもステージへ向かって煌めくのであるが、曲間のわずかな暗転の間にステージには海外(特にヨーロッパ)の家が並ぶ風景を思わせるような窓などのセットも登場しており、朗読で口にしていた「天国に1番近い場所」にエイミーが近づいてきているということを感じさせる、実にさりげなくかつ見事な演出である。
そんなヨーロッパ特有の湿った空を晴れさせるように
「やっと雨が上がったんだ
この街をきっと君が描いたんだ」
というフレーズがsuisのさわやかなボーカルとともに響き渡る「雨晴るる」ではしかし、
「歌え 人生は君だ」
「もっと書きたい ずっと冷めない愛の歌を
君のいない夏がまた来る」
というフレーズではやはり歌唱に激情にも似た感情が確かに乗っているのがわかる。その感情が雨を晴れに変え、季節を夏に向かわせていることも。
再びここで朗読を挟むのだが、それは物語が核心に、終焉に向かってきているということでもある。
それを示すかのように、タイトル通りにダンサブルなサウンドに乗せて
「嗚呼、音楽なんか辞めてやるのさ
思い出の君が一つも違わず描けたら
どうせもうやりたいこと一つ言えないからさ
浮かばないからさ」
と歌われる「踊ろうぜ」ではアルバム内にも封入されていた、エイミーが撮影した旅した場所で見てきた光景の写真が次々に映し出されていくのだが、その映像の横でキーボーディストの方が頭をブンブン振り乱しながらシンセを弾いている。それは感情を込めているのはレーザーに照らされながら歌うsuisだけではなくステージ上のメンバー全員だということだ。それを示すかのようにn-bunaも間奏から最後のサビに向かう瞬間にはギターを頭の上に掲げた態勢で演奏している。ここまでの深く腰を落としてギターを弾く姿もそうだが、クールかつ神秘的なイメージも強い彼はステージ上ではむしろロックスター、ギターヒーロー的な振る舞いをするミュージシャンに映るし、それは近年のギターロックの範疇を超えるような楽曲たちよりもこの2枚のアルバムの曲において強く発揮されているものなのかもしれない。
その「踊ろうぜ」が終わった瞬間にドラムのスティックを合わせる音からすぐにイントロの激しいサウンドへと繋がった「歩く」では
「君の旅した街を歩く
訳もないのに口を出てく」
というフレーズの通りに様々な場所を歩いている映像が流れる。その中の広大な緑が茂る公園の光景はいつかこんな場所に自分も行ってみたいと思いながらも、
「今日、死んでいくような
そんな感覚があった
ただ明日を待って
流る季節を見下ろした」
「今日、生きてるような
そんな錯覚があった
妄想でもいいんだ
君が居てくれたらいいや」
という、聴き心地は似ていても意味は真逆な1コーラスと2コーラスの歌詞は本当に見事としか言いようがないし、確かにヨルシカは曲で物語を描くような歌詞を書き、その曲が連なることでさらに大きな物語を生み出してきたアーティストであるが、こうした1センテンス、1フレーズのみを切り取っただけでもその作家性の恐ろしさを垣間見ることができる。そうした歌詞の最後を
「今でも、エイミー」
というフレーズで締めることによって、この曲がエイミーが旅した場所を巡るエルマの視点の曲であることを示す。キーボーディストの方はこの曲でもガンガン頭を振りながらシンセを弾くのは、誰よりも踊り、速く歩いているかのようですらあった。
そのキーボードの清冽なサウンドがイントロから響くのは「心に穴が空いた」であるが、この曲からsuisのボーカルは明らかに1段階ギアを上げたというか、さらに声に張りと伸びと力強さを増したと感じた。
それは「エルマ」リリース時のインタビューで
「レコーディングの時にエルマ自身になって歌えた感じがして泣いてしまった」
と言っていたくらいに物語に入り込むというよりも物語の主役になって歌えていたからであり、その感覚が歌にこの声でしか有り得ない説得力の強さを与えている。そうしてこの物語の主役になることで得た歌の表現力が盗っ人の男性を演じたり(「昼鳶」)、一曲の中で男女の視点が入れ替わる情景(「春泥棒」)を歌えるようになった。つまりはこの物語がちゃんとそれ以降のヨルシカの活動や表現へと繋がっているのだ。
そのsuisのボーカルの表現力は物語の情景が夜になったことを感じさせるような照明の中で「Ah〜」と口ずさむ場面転換的なインタールードからも窺えるのであるが、実際にそのインタールードからイントロへと繋がった「パレード」ではスクリーンに主人公が見上げているであろう夜の空が映し出されていた。もちろんその空にはこのライブのタイトルにふさわしい満月も一緒に映し出されている。
「ずっと前から思ってたけど
君の指先の中にはたぶん神様が住んでいる」
というフレーズはエルマの弾くピアノへのエイミーの思いが込められたものになっているし、まさに「一人ぼっちのパレード」を想起させるような、穏やかだけれどもじわじわと熱量が込み上げてくるかのようなサウンドをsuisの歌声に込められた感情がさらに強いものにしている。
その「パレード」での夜の情景から、冒頭の朗読ではそうした感覚だけであったものが、まさにエイミーが湖の底へと体を投げた描写であろう映像とともにインスト曲の「海底、月明かり」が演奏されると、曲間のわずかな暗転の最中にsuisだけでなくn-bunaやキタニタツヤというメンバーたちが皆椅子に座っている。楽器もアコースティックのものに変わった形で演奏されたのは、
「湖の底にいるみたいだ」
というsuisの柔らかなボーカルによって始まる「憂一乗」。
「ずっとずっとずっとずっとずっと
君を追っているだけで」
というエイミーを追い続けてきたエルマがその場所に到達したことを思わせるような歌唱とともに、スクリーンに映し出された細い月が徐々に満月へ近づくように大きくなっていく。それはまさに「月光」という名のこの物語が終焉に達しようとしていることを否が応でも感じてしまう。
そんな感覚とともに物語のクライマックスというか、この曲に到達するための物語であったかのようにすら感じさせるのが
「さよならの速さで顔を上げて
いつかやっと夜が明けたら
もう目を覚まして。見て。
寝ぼけまなこの君を何度だって描いているから」
と、エルマが別れを意識したであろうフレーズによって描かれる「ノーチラス」。このサビを歌っている時のsuisの歌唱はまさにもう届くことがないことをわかっていてもエイミーへと手を伸ばすエルマが憑依したかのようであり、
「ラップランドの納屋の下
ガムラスタンの古通り
夏草が邪魔をする」
というここまでに2人が見てきた景色が、この物語よりも前に編まれたヨルシカの作品のタイトルとともに浮かび上がるのは、そうした曲たちもが実はこの物語へと繋がっていたものなんじゃないかとも思わせる。そんなことを思いながらも、アウトロのバンドでの演奏はこうしてこの「月光」という物語を経てこの曲へと達したからこそ感じられるカタルシスに満ちていた。こんな感覚は今まで味わったことがない、というように、聴いている自分自身までもが湖に浮かんでいるようにすら感じた。
そしてn-bunaはエイミーの最後の心情を朗読として口にする。
「今になって君に会いたい」
という切迫した感情はそれまでの少しのたどたどしさもあった口調とは全く違う、はっきりとしたまっすぐなエイミーの願いとして響き、
「今まで僕が見てきたのは全てが走馬灯だった」
という、この旅が死ぬ直前に見る景色であったことを口にした瞬間に響くドラムのキックの四つ打ち。そのリズムに導かれるようにして
「考えたってわからないし
青空の下、君を待った
風が吹いた正午、昼下がりを抜け出す想像
ねぇ、これからどうなるんだろうね
進め方教わらないんだよ
君の目を見た 何も言えず僕は歩いた」
とsuisが歌い始めた、この物語のエンドロールのように響く「だから僕は音楽を辞めた」ではここまでの曲たちでスクリーンに映し出されてきた映像がまさに走馬灯のように次々に映し出されていく。都内の商店街も、電車の車窓からの景色も、カプチーノを飲んだカフェも、歩いた公園も…。そうした記憶を辿るにつれてサビではsuisの歌唱がここまでで最大と言えるような感情を込めた力強いものになって…と思っていたら、2サビでいきなりsuisはステージに倒れ込んだ。
n-bunaは最初はコーラスを歌いながらギターを弾いていたのだが、そのsuisの姿を見てすぐさまギターを下ろしてsuisを担ぐようにしてステージから去っていき、メンバーも続いてステージから去ってしまう。
最初はそれすらも演出なのかと思っていた。自分はこの物語を観るのは初めてであるだけに、あまりにも心臓に悪い演出ではあるけれど、その2人の姿があまりにエイミーとエルマそのものだったから。
しかし、観客が呆気に取られている中で会場に流れた
「現在、状況を把握しております。しばらくそのままでお待ちください」
というアナウンスによって、これが演出ではなくて紛れもないリアルなアクシデントであることがわかる。
確かに、倒れる前のフレーズをsuisはn-bunaの方を見ながら歌っていたのは気になったところではあった。明らかにチラ見というよりも何かを訴えているような感じだったから。
ただ、自分は前にもこうしてライブの演奏中にボーカルの方が倒れるという経験をしている。その時は過呼吸で倒れたということだったのだが、今回もそうだったのか、あるいは
「エルマになって歌えた」
と前述のインタビューでも話していた人であるだけに、入り込み過ぎてしまって、この物語の結末に喰らってしまっていたのか。それは正式に発表があるまではわからないが、ただn-bunaのスタッフを含めた誰よりも早かった対応を見ると、もしかしたら彼はこれまでにもsuisのこうした状況に対応してきたことがあるんじゃないかとも思った。
そうして待ち続ける間には開演前のように波のさざめく音がBGMとして流れている。15分〜20分くらいは待ち続けていただろうか。その時間に驚いたのは、開演前に「今日はどんなライブだろうね」みたいに話していた2人組でライブに来ていたような人たちですら、全くざわつくこともなく、スマホをいじったりすることもなく、BGMだけが聞こえる空間の中で全員がただただじっと椅子に座って長い時間待ち続けていたということ。
そこには祈りにも似たような、信じる力もあったのかもしれないが、ライブが頻繁にあるわけではないだけに普段なかなか目にする機会がないヨルシカのファンの方々のこの姿には本当に驚いた。この「月光」の物語を、ヨルシカがこれまでに紡いできた物語を受け止めてきた人たちの純粋さのようなものが可視化した瞬間だったかのようだった。
そんな祈りが通じたのか、
「間もなく公演を再開します」
というアナウンスが流れる。その瞬間にも、観客は誰かと話したりすることはなく、ただ姿勢を正すように座り直していた。正直、自分はこのまま終わっても仕方がないと思っていたし、それでも返金や振替公演を求めることもしないで受け入れるつもりだった。そうした対応をすればsuisが自分を責めてしまうというさらなる悪循環に陥ることになってしまうから。
しかしアナウンス通りにメンバーはステージに戻ってきた。suisが変わらぬ姿で現れて客席に深々と一礼すると、鳴り止まないんじゃないかと思うくらいに大きな拍手が起こった。その音にこの日の観客の思いが確かに現れていた。安堵と、我々のために戻ってきてくれたという感謝。ただ音が大きいだけではない温かさが確かにその音には宿っていた。
そんな鳴り止まないような拍手はsuisがマイクを持ったことによって止まり、suisは
「ご心配をおかけしました。最後まで歌わせていただきます」
と普段と全く変わらないであろう穏やかな口調で一言観客へ口にした。するとやはり再び大きな拍手が起こった。
実際の再開は「だから僕は音楽を辞めた」の前の朗読から始まるのだが、MCなども一切挟まずに物語を紡ぐという形態のライブをやるヨルシカにとってはこの中断の時間は物語の流れを遮ってしまうものになってしまう。小説を途中で読むのを中断するかのように。
それだけに少し意識としては没入していた物語から一度抜けてしまった感覚ですらあったのだが、それを引き戻すのは再び朗読の直後にドラムのキックの四つ打ちによって始まった「だから僕は音楽を辞めた」でのsuisの、倒れた人のものとは思えないくらいの先ほどよりもさらに力強くなった歌唱だった。
そこにはやはり待っていてくれた人への思いがさらに曲に乗ったからという要素があると思うのだが、この日の他の曲とは少し切り離されたこの曲によって「月光」はただの3年前の焼き直しではない、この日だけの再演になった。それがあまりにも美し過ぎて、suisが、ヨルシカがあまりにも強過ぎて感動してしまっていた。きっとこのアクシデントがなくてもただ物語として感動していただろうけれど、それをはるかに超えたであろう感動がこの日確かにあった。
演奏が終わるとメンバーがステージを去る中でsuisとn-bunaの2人だけがステージに残り、n-bunaは最後の朗読を始める。
「生まれ変わっても君といたい」
というエイミーの最後のリフレインは最近放送していた某大人気アニメの兄弟キャラクターの死後の感動的なセリフを彷彿とさせるのだが、「盗作」にもそうした朗読があった。というか「盗作」の時に来場者に配布された短編冊子のタイトルがそのまま「生まれ変わり」だった。もしかしたら、ヨルシカが描く物語に登場する2人は全てが同じ人物の生まれ変わりなのかもしれない。そんなことすら考えていた。
そして「月光」のタイトルと月が映し出されると、n-bunaはステージ上手から、suisはステージに作られた橋を渡って去っていく。その姿はまさにエイミーとエルマそのものだった。2人は語り部でありながらも主人公だった。「月光」は、ヨルシカのライブは、それを感じさせてくれる。だから2人が去った後に周りから涙を啜るような音が聞こえていたのは、ライブの終わりというよりもエイミーとエルマとの別れという意味での涙だったのだと思った。
予期せぬアクシデントもあったとはいえ、何故ヨルシカは今になってこの「月光」を再演しようと思ったのだろうか。例えばUNISON SQUARE GARDENはコロナ禍でライブに来れない人もたくさんいる中で自分たちが進むとそうした来れない人を置いて行ってしまうという意識の元で、過去のツアーの再現ツアーを行ったりした。
でもそもそもコロナ禍の中にあっても「盗作」を開催して前に進んだヨルシカはそうした思惑ではないはず。きっと、エルマになり切ることができて以降のsuisの歌唱の表現力(それは近年の曲を聴けばすぐにわかる)があれば、3年前よりも完成した「月光」を見せることができるという思いがあってのことであると自分は思っている。
そしてその「月光」はライブだからこそ起こりうるアクシデントも含めて、前述のように単なる3年前の焼き直しではない、今のヨルシカの2人としての再演だった。この日のありとあらゆる場面を、思い出すだけじゃ足りないのさ。
1.夕凪、某、花惑い
2.八月、某、月明かり
3.藍二乗
4.神様のダンス
5.夜紛い
6.雨とカプチーノ
7.六月は雨上がりの街を書く
8.雨晴るる
9.踊ろうぜ
10.歩く
11.心に穴が空いた
12.パレード
13.海底、月明かり
14.憂一乗
15.ノーチラス
16.だから僕は音楽を辞めた
当時全くチケットが取れず、遠征しようとしてもそれでもチケットが取れないというくらいの状況だっただけに、ライブで聴くことができないと思っていた曲たちを今にしてライブで聴けるというのは実に嬉しいことである。
大阪、名古屋を経ての東京は有明のガーデンシアターでの2daysであり、この日は初日。昨年も東京国際フォーラムでライブ「盗作」を開催しており、ようやく今の状況にふさわしい会場でライブをやるようになったということだろうか。
しかし大きな会場になったことによって、入場前から場内は長蛇の列に。すでにガーデンシアターには何回も来ているけれど、こんなに入場に時間がかかったことはなかったというレベル。それくらいにたくさんの人を入れていい状況になったということでもあるけれど。
そんな入場列の長さを超えてようやくガーデンシアターの中に入ると、広いステージには機材とともに、アルバムの中のとある場面を思い出させるような(そして最近観たサカナクションのライブを思い出すような)オブジェと、ステージ真ん中のスクリーンには桟橋とその上に光る満月の映像が。波がさざめくようなBGMも相まって、自分自身がこの物語の中のこの場所にいるかのような気分になる。
そんな入場列の混雑具合だったので、まぁ開演はちょっと押すだろうとは思っていたのだが、やはり開演時間の19時を15〜20分ほど過ぎた頃に開演を告げるブザーの音が鳴って場内が暗転。スクリーンには水中を思わせるような映像が映し出されると、その映像に
「海の底にいるような気分だ」
という朗読が乗る。その朗読も最初は録音したものを流しているような聞こえ方だったのが、すぐに明らかにステージ上でマイクを通して発しているのがわかる声に変わる。薄暗いステージ上にはn-buna(ギター)がマイクスタンドの前におり、その声の主が彼であるのがわかる…というのは昨年の「盗作」の時と同様であり、映像に
歌唱:suis
ギター:n-buna
とサポートメンバーも含む演者の名前も映し出され、メンバー全員もステージに登場。suisは白い衣装を着ているのが薄暗い中でも目立つ。やはりアリーナ席であっても顔まではハッキリと観ることは出来ないけれど。
朗読が終わると、物語の始まりを告げるようにn-bunaのギターが鳴る。ステージ下手端の高台にはドラム、その下にギターとベース(シンガーソングライターとしても活動するキタニタツヤ)、上手端の高台にはキーボード、その真ん中にsuis、上手よりにn-bunaという立ち位置で演奏されたのは「エルマ」収録の「夕凪、某、花惑い」。何度聴いたかわからない、でもライブで聴けることはないんじゃないかとすら思っていたギターリフが目の前で鳴っている。スクリーンに映し出される手書き文字の歌詞をsuisが目の前で歌っている。その感覚はどれだけたくさんいろんなライブを観てきても抗えないくらいに体が、何よりも心が底から震えるようなものだった。2枚のアルバムをどちらも初回盤で買っていたのにその曲たちをライブで聴けなかった自分がついにエイミーとエルマの2人の物語を目の前で体感しているのだ。
「ロックンロールを書いた
あの夏ばっか歌っていた」
というBメロからサビへと至る瞬間に一気にスピード感を増していくドラムのリズム。語り部として高らかにその透明感あふれる歌声を響かせるsuis。
「想い出の僕ら 夜しか見えぬ幽霊だった」
というバンド名が出てくるフレーズも、
「僕らを貶す奴らを殺したい
君ならきっと笑ってくれる」
という、未だに共感を覚えてしまうようなフレーズも。まるで自分が物語の中に入り込んだかのようであり、曲最後には
「僕に差す月明かり」
というライブタイトルに合わせたフレーズを、まさに月明かりのような、ステージの真ん中に向かってのみ差す黄色い照明に照らされながらsuisが歌う。その直後のアウトロのギターリフも含めて、ヨルシカのギターロックさがオープニングから炸裂している。
それは続く
「何もいらない」
というsuisの歌い出しとともにn-bunaのギターリフが鳴らされる、先ほどの曲と対になる視点での「八月、某、月明かり」では
「東伏見の高架橋、小平、富士見通りと商店街」
というフレーズに合わせるかのように都内の商店街の中などを疾走感あふれるサウンドによって駆け抜けていくような映像が流れる。n-bunaのギターは音源と比べるとところどころ外し気味かもしれない、とも思うような部分もあったのだが、それが逆にライブならではだなというか、音源とは全く違う人間が鳴らす音楽としての体温を確かに感じさせてくれる。
「人生、二十七で死ねるならロックンロールは僕を救った
考えるのも辞めだ!どうせ死ぬんだから
君も、何もいらない」
という歌詞は27歳を過ぎてもなおこうして生き長らえている自分がシド・ヴィシャスやカート・コバーンのようにその年齢でこの世を去ってしまったロックンロールスターではなかったということを痛感させられるし、それはもしかしたらn-bunaもそうなのかもしれないし、(年齢は知らないけれど)
「ストックホルムの露天商、キルナ、ガムラスタンは石畳」
というフレーズが描く情景からはこの後に迎える物語の展開に想いを馳せざるを得ない。
「そうだ、きっとそうだ
あの世ではロックンロールが流れてるんだ
賛美歌とか流行らない
神様がいないんだから」
というフレーズがその通りならば、あの世というのは居心地が良いからロックスターたちが早くにそちらに行ってしまって帰ってこれないんだろうなということも。
ここで朗読が入ることによって場面、シチュエーションは変わる。この朗読によって改めてこの物語がエイミーとエルマの2人のものであるということがわかるのであるが、ここから挟まれる朗読は全てn-bunaがステージ上で口にする。どこか口調がたどたどしく感じるのはその朗読をトラック的なリズムに乗せているからでもあり、病を抱えたエイミーの口調がこうしたものであるということを表現しているのだろう。
その朗読はエイミーが物語を綴る覚悟を口にしたものであるのだが、
「変わらないように
君が主役のプロットを書くノートの中」
「エルマ、君なんだよ
君だけが僕の音楽なんだ」
という「藍二乗」のフレーズはそのエイミーの心情がそのまま音楽になったかのようですらあるし、
「ただ、ただ君だけを描け」
というサビでの「ただ」のファルセットかどうかのギリギリのラインで歌うsuisの歌唱がその心情に強い信念がこもっていることを感じさせる。ただキーに合わせて歌うだけではない、エイミーの心情を完璧に理解した上で感情を込めて歌うことで、フィクションは現実となって我々の目の前に現れる。そんなことすら感じさせてくれる。
そのエイミーが「八月、某、月明かり」で見えていた都内の商店街の光景を後にして旅に出ていくのがわかるのは、「神様のダンス」演奏時の映像が電車の車窓から見ている景色が流れていくというものだったからだ。
「音楽だけでいいんだろ
他人に合わせて歩くなよ
教えてくれたのはあんたじゃないか」
「どうだっていいよ、このまま遠くへ
誰も知らない場所で月明かりを探すのだ」
というタイトルや物語の確信に迫るようなフレーズも散りばめられているが、この段階ではまだそこまでの切迫感は感じられないのはどこか飄々としているような浮遊感を感じさせる、先ほどまでの疾走感あふれるギターロックとはまた違ったタイプのギターのサウンドによるものが大きいのだろう。
それはこの後に演奏される曲を想起させる軽快なリズムの「夜紛い」もそうであるが、
「人生ごとマシンガン、消し飛ばしてもっと
心臓すら攫って ねぇ、さよなら一言で
悲しいことを消したい
嬉しいことも消したい
心を消したい
君に一つでいい、ただ穴を開けたい」
というサビのフレーズもまたこの後に演奏される曲を想起させながらも、どこかこの物語が綴られる前にリリースされ、この物語の後にn-bunaが描いた物語でも大きな役割を果たすことになる「爆弾魔」をも彷彿とさせるところもあるのだが、何よりも
「ライブハウスの中で等身大を歌ってる
金にもならないような歌なんか歌いやがってさ、馬鹿みたいだな」
という強烈なフレーズは
「切ない歌を消したい 優しい歌も消したい
聞くだけで痛い 僕に一つでいい」
という歌詞が続くことによって、この主人公(エイミー)もかつてはそうした歌を歌ってということを感じさせるし、こんなにも歌詞を引用しまくってしまうのは、全ての曲においてその歌詞が手書きの文字でスクリーンに映し出されるからであり、そうして改めて歌詞を追いながら聴くことによってsuisの歌唱の感情も相まって1フレーズ、1単語が深く突き刺さってくるからだ。それはやはりこうしてこの「月光」をライブで体験することができているからこそ。
実際にエイミーが旅をして物語を書こうと誓う、それをエルマに読んでもらいたいことを語る朗読を挟むとガラッとサウンドと雰囲気は変わる。それはどこかオシャレさすら感じるサウンドが、カフェでまさにカプチーノを飲みながら文章を書いているかのようなアニメーションと融合している「雨とカプチーノ」が演奏されたからであるが、個人的にはこの曲と対になっている曲である「詩書きとコーヒー」も大好きな曲であるために、いつかまた違う機会にでも是非ライブで聴いてみたいと思っている。
すると「六月は雨上がりの街を書く」と、雨の描写の曲が続くのだが、その雨が降っていることによってステージ上がさらにどんよりとした暗さを纏う中、それを照らすようにレーザーもステージへ向かって煌めくのであるが、曲間のわずかな暗転の間にステージには海外(特にヨーロッパ)の家が並ぶ風景を思わせるような窓などのセットも登場しており、朗読で口にしていた「天国に1番近い場所」にエイミーが近づいてきているということを感じさせる、実にさりげなくかつ見事な演出である。
そんなヨーロッパ特有の湿った空を晴れさせるように
「やっと雨が上がったんだ
この街をきっと君が描いたんだ」
というフレーズがsuisのさわやかなボーカルとともに響き渡る「雨晴るる」ではしかし、
「歌え 人生は君だ」
「もっと書きたい ずっと冷めない愛の歌を
君のいない夏がまた来る」
というフレーズではやはり歌唱に激情にも似た感情が確かに乗っているのがわかる。その感情が雨を晴れに変え、季節を夏に向かわせていることも。
再びここで朗読を挟むのだが、それは物語が核心に、終焉に向かってきているということでもある。
それを示すかのように、タイトル通りにダンサブルなサウンドに乗せて
「嗚呼、音楽なんか辞めてやるのさ
思い出の君が一つも違わず描けたら
どうせもうやりたいこと一つ言えないからさ
浮かばないからさ」
と歌われる「踊ろうぜ」ではアルバム内にも封入されていた、エイミーが撮影した旅した場所で見てきた光景の写真が次々に映し出されていくのだが、その映像の横でキーボーディストの方が頭をブンブン振り乱しながらシンセを弾いている。それは感情を込めているのはレーザーに照らされながら歌うsuisだけではなくステージ上のメンバー全員だということだ。それを示すかのようにn-bunaも間奏から最後のサビに向かう瞬間にはギターを頭の上に掲げた態勢で演奏している。ここまでの深く腰を落としてギターを弾く姿もそうだが、クールかつ神秘的なイメージも強い彼はステージ上ではむしろロックスター、ギターヒーロー的な振る舞いをするミュージシャンに映るし、それは近年のギターロックの範疇を超えるような楽曲たちよりもこの2枚のアルバムの曲において強く発揮されているものなのかもしれない。
その「踊ろうぜ」が終わった瞬間にドラムのスティックを合わせる音からすぐにイントロの激しいサウンドへと繋がった「歩く」では
「君の旅した街を歩く
訳もないのに口を出てく」
というフレーズの通りに様々な場所を歩いている映像が流れる。その中の広大な緑が茂る公園の光景はいつかこんな場所に自分も行ってみたいと思いながらも、
「今日、死んでいくような
そんな感覚があった
ただ明日を待って
流る季節を見下ろした」
「今日、生きてるような
そんな錯覚があった
妄想でもいいんだ
君が居てくれたらいいや」
という、聴き心地は似ていても意味は真逆な1コーラスと2コーラスの歌詞は本当に見事としか言いようがないし、確かにヨルシカは曲で物語を描くような歌詞を書き、その曲が連なることでさらに大きな物語を生み出してきたアーティストであるが、こうした1センテンス、1フレーズのみを切り取っただけでもその作家性の恐ろしさを垣間見ることができる。そうした歌詞の最後を
「今でも、エイミー」
というフレーズで締めることによって、この曲がエイミーが旅した場所を巡るエルマの視点の曲であることを示す。キーボーディストの方はこの曲でもガンガン頭を振りながらシンセを弾くのは、誰よりも踊り、速く歩いているかのようですらあった。
そのキーボードの清冽なサウンドがイントロから響くのは「心に穴が空いた」であるが、この曲からsuisのボーカルは明らかに1段階ギアを上げたというか、さらに声に張りと伸びと力強さを増したと感じた。
それは「エルマ」リリース時のインタビューで
「レコーディングの時にエルマ自身になって歌えた感じがして泣いてしまった」
と言っていたくらいに物語に入り込むというよりも物語の主役になって歌えていたからであり、その感覚が歌にこの声でしか有り得ない説得力の強さを与えている。そうしてこの物語の主役になることで得た歌の表現力が盗っ人の男性を演じたり(「昼鳶」)、一曲の中で男女の視点が入れ替わる情景(「春泥棒」)を歌えるようになった。つまりはこの物語がちゃんとそれ以降のヨルシカの活動や表現へと繋がっているのだ。
そのsuisのボーカルの表現力は物語の情景が夜になったことを感じさせるような照明の中で「Ah〜」と口ずさむ場面転換的なインタールードからも窺えるのであるが、実際にそのインタールードからイントロへと繋がった「パレード」ではスクリーンに主人公が見上げているであろう夜の空が映し出されていた。もちろんその空にはこのライブのタイトルにふさわしい満月も一緒に映し出されている。
「ずっと前から思ってたけど
君の指先の中にはたぶん神様が住んでいる」
というフレーズはエルマの弾くピアノへのエイミーの思いが込められたものになっているし、まさに「一人ぼっちのパレード」を想起させるような、穏やかだけれどもじわじわと熱量が込み上げてくるかのようなサウンドをsuisの歌声に込められた感情がさらに強いものにしている。
その「パレード」での夜の情景から、冒頭の朗読ではそうした感覚だけであったものが、まさにエイミーが湖の底へと体を投げた描写であろう映像とともにインスト曲の「海底、月明かり」が演奏されると、曲間のわずかな暗転の最中にsuisだけでなくn-bunaやキタニタツヤというメンバーたちが皆椅子に座っている。楽器もアコースティックのものに変わった形で演奏されたのは、
「湖の底にいるみたいだ」
というsuisの柔らかなボーカルによって始まる「憂一乗」。
「ずっとずっとずっとずっとずっと
君を追っているだけで」
というエイミーを追い続けてきたエルマがその場所に到達したことを思わせるような歌唱とともに、スクリーンに映し出された細い月が徐々に満月へ近づくように大きくなっていく。それはまさに「月光」という名のこの物語が終焉に達しようとしていることを否が応でも感じてしまう。
そんな感覚とともに物語のクライマックスというか、この曲に到達するための物語であったかのようにすら感じさせるのが
「さよならの速さで顔を上げて
いつかやっと夜が明けたら
もう目を覚まして。見て。
寝ぼけまなこの君を何度だって描いているから」
と、エルマが別れを意識したであろうフレーズによって描かれる「ノーチラス」。このサビを歌っている時のsuisの歌唱はまさにもう届くことがないことをわかっていてもエイミーへと手を伸ばすエルマが憑依したかのようであり、
「ラップランドの納屋の下
ガムラスタンの古通り
夏草が邪魔をする」
というここまでに2人が見てきた景色が、この物語よりも前に編まれたヨルシカの作品のタイトルとともに浮かび上がるのは、そうした曲たちもが実はこの物語へと繋がっていたものなんじゃないかとも思わせる。そんなことを思いながらも、アウトロのバンドでの演奏はこうしてこの「月光」という物語を経てこの曲へと達したからこそ感じられるカタルシスに満ちていた。こんな感覚は今まで味わったことがない、というように、聴いている自分自身までもが湖に浮かんでいるようにすら感じた。
そしてn-bunaはエイミーの最後の心情を朗読として口にする。
「今になって君に会いたい」
という切迫した感情はそれまでの少しのたどたどしさもあった口調とは全く違う、はっきりとしたまっすぐなエイミーの願いとして響き、
「今まで僕が見てきたのは全てが走馬灯だった」
という、この旅が死ぬ直前に見る景色であったことを口にした瞬間に響くドラムのキックの四つ打ち。そのリズムに導かれるようにして
「考えたってわからないし
青空の下、君を待った
風が吹いた正午、昼下がりを抜け出す想像
ねぇ、これからどうなるんだろうね
進め方教わらないんだよ
君の目を見た 何も言えず僕は歩いた」
とsuisが歌い始めた、この物語のエンドロールのように響く「だから僕は音楽を辞めた」ではここまでの曲たちでスクリーンに映し出されてきた映像がまさに走馬灯のように次々に映し出されていく。都内の商店街も、電車の車窓からの景色も、カプチーノを飲んだカフェも、歩いた公園も…。そうした記憶を辿るにつれてサビではsuisの歌唱がここまでで最大と言えるような感情を込めた力強いものになって…と思っていたら、2サビでいきなりsuisはステージに倒れ込んだ。
n-bunaは最初はコーラスを歌いながらギターを弾いていたのだが、そのsuisの姿を見てすぐさまギターを下ろしてsuisを担ぐようにしてステージから去っていき、メンバーも続いてステージから去ってしまう。
最初はそれすらも演出なのかと思っていた。自分はこの物語を観るのは初めてであるだけに、あまりにも心臓に悪い演出ではあるけれど、その2人の姿があまりにエイミーとエルマそのものだったから。
しかし、観客が呆気に取られている中で会場に流れた
「現在、状況を把握しております。しばらくそのままでお待ちください」
というアナウンスによって、これが演出ではなくて紛れもないリアルなアクシデントであることがわかる。
確かに、倒れる前のフレーズをsuisはn-bunaの方を見ながら歌っていたのは気になったところではあった。明らかにチラ見というよりも何かを訴えているような感じだったから。
ただ、自分は前にもこうしてライブの演奏中にボーカルの方が倒れるという経験をしている。その時は過呼吸で倒れたということだったのだが、今回もそうだったのか、あるいは
「エルマになって歌えた」
と前述のインタビューでも話していた人であるだけに、入り込み過ぎてしまって、この物語の結末に喰らってしまっていたのか。それは正式に発表があるまではわからないが、ただn-bunaのスタッフを含めた誰よりも早かった対応を見ると、もしかしたら彼はこれまでにもsuisのこうした状況に対応してきたことがあるんじゃないかとも思った。
そうして待ち続ける間には開演前のように波のさざめく音がBGMとして流れている。15分〜20分くらいは待ち続けていただろうか。その時間に驚いたのは、開演前に「今日はどんなライブだろうね」みたいに話していた2人組でライブに来ていたような人たちですら、全くざわつくこともなく、スマホをいじったりすることもなく、BGMだけが聞こえる空間の中で全員がただただじっと椅子に座って長い時間待ち続けていたということ。
そこには祈りにも似たような、信じる力もあったのかもしれないが、ライブが頻繁にあるわけではないだけに普段なかなか目にする機会がないヨルシカのファンの方々のこの姿には本当に驚いた。この「月光」の物語を、ヨルシカがこれまでに紡いできた物語を受け止めてきた人たちの純粋さのようなものが可視化した瞬間だったかのようだった。
そんな祈りが通じたのか、
「間もなく公演を再開します」
というアナウンスが流れる。その瞬間にも、観客は誰かと話したりすることはなく、ただ姿勢を正すように座り直していた。正直、自分はこのまま終わっても仕方がないと思っていたし、それでも返金や振替公演を求めることもしないで受け入れるつもりだった。そうした対応をすればsuisが自分を責めてしまうというさらなる悪循環に陥ることになってしまうから。
しかしアナウンス通りにメンバーはステージに戻ってきた。suisが変わらぬ姿で現れて客席に深々と一礼すると、鳴り止まないんじゃないかと思うくらいに大きな拍手が起こった。その音にこの日の観客の思いが確かに現れていた。安堵と、我々のために戻ってきてくれたという感謝。ただ音が大きいだけではない温かさが確かにその音には宿っていた。
そんな鳴り止まないような拍手はsuisがマイクを持ったことによって止まり、suisは
「ご心配をおかけしました。最後まで歌わせていただきます」
と普段と全く変わらないであろう穏やかな口調で一言観客へ口にした。するとやはり再び大きな拍手が起こった。
実際の再開は「だから僕は音楽を辞めた」の前の朗読から始まるのだが、MCなども一切挟まずに物語を紡ぐという形態のライブをやるヨルシカにとってはこの中断の時間は物語の流れを遮ってしまうものになってしまう。小説を途中で読むのを中断するかのように。
それだけに少し意識としては没入していた物語から一度抜けてしまった感覚ですらあったのだが、それを引き戻すのは再び朗読の直後にドラムのキックの四つ打ちによって始まった「だから僕は音楽を辞めた」でのsuisの、倒れた人のものとは思えないくらいの先ほどよりもさらに力強くなった歌唱だった。
そこにはやはり待っていてくれた人への思いがさらに曲に乗ったからという要素があると思うのだが、この日の他の曲とは少し切り離されたこの曲によって「月光」はただの3年前の焼き直しではない、この日だけの再演になった。それがあまりにも美し過ぎて、suisが、ヨルシカがあまりにも強過ぎて感動してしまっていた。きっとこのアクシデントがなくてもただ物語として感動していただろうけれど、それをはるかに超えたであろう感動がこの日確かにあった。
演奏が終わるとメンバーがステージを去る中でsuisとn-bunaの2人だけがステージに残り、n-bunaは最後の朗読を始める。
「生まれ変わっても君といたい」
というエイミーの最後のリフレインは最近放送していた某大人気アニメの兄弟キャラクターの死後の感動的なセリフを彷彿とさせるのだが、「盗作」にもそうした朗読があった。というか「盗作」の時に来場者に配布された短編冊子のタイトルがそのまま「生まれ変わり」だった。もしかしたら、ヨルシカが描く物語に登場する2人は全てが同じ人物の生まれ変わりなのかもしれない。そんなことすら考えていた。
そして「月光」のタイトルと月が映し出されると、n-bunaはステージ上手から、suisはステージに作られた橋を渡って去っていく。その姿はまさにエイミーとエルマそのものだった。2人は語り部でありながらも主人公だった。「月光」は、ヨルシカのライブは、それを感じさせてくれる。だから2人が去った後に周りから涙を啜るような音が聞こえていたのは、ライブの終わりというよりもエイミーとエルマとの別れという意味での涙だったのだと思った。
予期せぬアクシデントもあったとはいえ、何故ヨルシカは今になってこの「月光」を再演しようと思ったのだろうか。例えばUNISON SQUARE GARDENはコロナ禍でライブに来れない人もたくさんいる中で自分たちが進むとそうした来れない人を置いて行ってしまうという意識の元で、過去のツアーの再現ツアーを行ったりした。
でもそもそもコロナ禍の中にあっても「盗作」を開催して前に進んだヨルシカはそうした思惑ではないはず。きっと、エルマになり切ることができて以降のsuisの歌唱の表現力(それは近年の曲を聴けばすぐにわかる)があれば、3年前よりも完成した「月光」を見せることができるという思いがあってのことであると自分は思っている。
そしてその「月光」はライブだからこそ起こりうるアクシデントも含めて、前述のように単なる3年前の焼き直しではない、今のヨルシカの2人としての再演だった。この日のありとあらゆる場面を、思い出すだけじゃ足りないのさ。
1.夕凪、某、花惑い
2.八月、某、月明かり
3.藍二乗
4.神様のダンス
5.夜紛い
6.雨とカプチーノ
7.六月は雨上がりの街を書く
8.雨晴るる
9.踊ろうぜ
10.歩く
11.心に穴が空いた
12.パレード
13.海底、月明かり
14.憂一乗
15.ノーチラス
16.だから僕は音楽を辞めた