秋山黄色 「一鬼一遊 PRE TOUR Lv.3」 @栃木県総合文化センター 3/11
- 2022/03/12
- 01:00
忘れられないような悲しい出来事があった日であっても、誰かにとってはその日は記念日だったりする。東日本大震災が起きた3月11日、15年前のその日に生まれたのが秋山黄色である。
その秋山黄色が自ら誕生日を祝うようにして開催するライブは秋山黄色の地元である栃木県宇都宮にある、栃木県総合文化センターでのワンマン。すでにフェスなどではこのキャパ以上のステージにも立っているとはいえ、秋山黄色にとっては初のホールワンマンである。
最寄り駅としては東武宇都宮駅になるのだが、JR宇都宮駅から会場へ向かう途中には曲のタイトルにもなっている「宮の橋」があったりと、ファンにとっては聖地巡礼も兼ねているというような1日であり、会場は渋谷公会堂(現LINE CUBE SHIBUYA)を想起させるような形の客席のホール。近隣にある県庁などの施設も含めて思ったよりも新しい会場であると感じる。
開演前には場内BGMとしてBEAT CRUSADERS「HIT IN THE U.S.A.」やRIZEバージョンの「ピンクスパイダー」などの懐かしく感じるような曲が流れる中、開演予定時間の18時30分をかなり過ぎた頃にBGMがそのままSEのようになって場内が暗転し、白いTシャツを着た秋山黄色を先頭にバンドメンバーたちと4人でステージに登場すると、秋山黄色はライブではおなじみのアコースティックギターを手にして歌い始めたのは、このライブの2日前に発売されたばかりのアルバム「ONE MORE SHABON」の最後に収録されている、秋山黄色の曲の中でも屈指の長尺曲の「白夜」。
まさかこの曲で始まるとは、という意表をつくようなオープニングであるが、この日は秋山黄色の誕生日でもあり、東日本大震災が起きた日でもある。その日に歌われる
「幸福で死にたくないっていうのは
この地球上で君と居たい証だね
雪の季節が終わる頃に
同じ場所に二人歩きに行こう
消えないでいて」
というフレーズの、「消えないでいて」のファルセット気味のリフレインは、そうしたどこかにいた、どこにでもいたような二人が引き裂かれたり、消えたりしてしまった日でもあるんだなということを想起させる。そのフレーズを歌う秋山黄色の姿が、真っ暗な中でタイトル通りに白い光に照らされることによって神聖な存在として眼に映る。その歌声に「願い」や「祈り」という感情を思いっきり込めているかのように。
「ONE MORE SHABON」はインタビューで秋山黄色が口にしていた通りに、昨年の「FIZZY POP SYNDROME」という炭酸の泡をもう一度膨らませるように、というように地続きなモードの作品であるのだが、サウンドはさらに非ロックバンド化しているというか、最も目立つ楽器の音はピアノだったりと、ライブで果たしてどうやるのか?という曲が非常に多くもあるだけに、続けて演奏された「アク」もバンドとしてのサウンドは削ぎ落とされているからこそ、昨年末のライブからバンドメンバーとして参加するようになった、藤本ひかり(赤い公園)のうねりまくるベースのグルーヴが一層重要な役割を果たしている。これまでにも神崎峻や辻玲次(Bentham)と、秋山黄色のバンドに参加してきたベーシストたちはそれぞれ違うグルーヴを持った強者ばかりだったけれど、この藤本も含めてそうしたプレイヤーが参加しているのは秋山黄色がもともとベースを弾いていたからというのもあるんじゃないかと思う。
その「アク」はこれもすでにインタビューで語られているように、「悪」かと思いきや「灰汁」の方であるという、おそらくはダブルミーニングでもあるタイトルであると思うのだが、
「君が持つのならば拳銃も怖くはない」
というフレーズは、まさに今日本のはるか北の世界では拳銃を撃ち合っているような状況でもある。もちろん曲自体はこうした状況になってしまう前から作られ、産まれていたものであるけれど、時代を背負うようなアーティストの曲はその時代に引き寄せられるようなところがあるということを、それこそ震災の前にリリースされていた曲でも震災の後に意味が変わって聴こえるようになった曲たちで実感してきた。それで言うならばこの曲もやはりこれからそうした意味を持って響くようになっていくのだろうと思う。だって秋山黄色はこのホールの中いっぱいに響くような素晴らしいボーカルで最後に
「せめて両手で収まるほどの
怒りを話そう 愛で片付けてよ
手を取れなくても 何も盗らなければ…」
と歌っているのだから。そうした、人によって様々なことを想像できるような表現力を持ったボーカリストに秋山黄色はなっている。
そのまま秋山黄色がギターのイントロを弾くと、一転してライブではおなじみの過去曲「Caffeine」へと繋がるのだが、もはや相棒というべき存在のギタリスト・井手上誠もここまでは曲に合わせてあまり派手なアクションを見せていなかったのが、ここで一気に爆発してステージ端まで飛び跳ねながら進み、サビ入りではギターを抱えてジャンプまでする。イントロや音源のイメージでこの曲に静謐だったりオシャレなイメージを持っていた人はあまりのライブでの変貌っぷりにビックリするんじゃないだろうか、とライブで見るたびに思う。
するとドラムの片山タカズミのリズムを皮切りに藤本がゴリゴリとした重いベースの音を重ねてセッション的な演奏がイントロに追加されるという、秋山黄色のライブの醍醐味がここで早くも発揮され、前半からバンドの演奏が練り上げられて極まっていく様を見せてくれるのはアニメのタイアップとして秋山黄色の存在を世の中に広く知らしめた「アイデンティティ」で、井手上がさりげなくリズムに合わせて手拍子をすると、それが客席にも広がっていって、サビではたくさんの人が腕を上げている。きっとこの曲で秋山黄色を知って、この日初めてライブを見れたという人だっていたはず。そういう人からしたらこの曲を聴いたのは人生が変わった瞬間になっているのかもしれないし、その曲が目の前で鳴っていて、本人が目の前で歌っているというライブというものは改めて凄いことなんだよな、と思う。
ここで一息つくように秋山黄色が
「ただいま!」
と挨拶すると、本人も
「長っ!もう話始めますよ!」
と言うくらいに長く大きな拍手が秋山黄色を迎える。そこにこの日の観客がどれだけこのライブを特別に思っているかという思いと、秋山黄色ファンによる「おかえり」とでも言っているかのような温かさが詰まっていた。
この日のライブには同級生やかつてのバイト先の人など、「秋山黄色として音楽をやっていること」を知っている地元の友人も客席にいることを告げながら、そういう人とともに
「初めてライブに来たっていう人もいるかもしれない。俺のライブは基本的には決まりきった手拍子とかもないし、俺に逆らわなければ何をしたっていいんで!」
と言いながらも、次に演奏された「燦々と降り積もる夜は」では間奏で普通に秋山黄色自身が手拍子をして、
「手拍子やっちゃったけど(笑)」
と自分でツッコミを入れることに。
その「燦々と降り積もる夜は」も「ONE MORE SHABON」に収録された、タイトルからもわかるように冬の曲であるのだが、
「何を言ったって僕はこの日常も
楽しく生きるよ 一人は嫌いじゃない
誰に見せるわけでもない
服を着たりして」
というフレーズは明らかに一緒にいた人が居なくなってしまった喪失感とも、コロナ禍によって生活様式が変わってしまったこととも取れるような、今そのものが刻まれた歌詞であるのだが、アルバム全体を通してリズムが本当に複雑だ。手拍子をする箇所は確かにイーブンな感覚で手拍子を打てるのだけれど、他の箇所は変拍子と言っていいくらいにリズムが変わっていくし、それはある意味ではライブにおいてはノリにくさにも繋がるし、ひいてはポップさ、キャッチーさからは遠ざかっていきがちなものでもあるのだが、そうしたリズムの曲をこんなにもキャッチーなメロディと融合させることによって、どこまでもポップな曲として昇華して響かせることができる。
自分が「ONE MORE SHABON」を1回目に聴いて思ったのはそんな感覚だったし、3枚目のフルアルバムになっても初めて聴いた時とは全く違う衝撃を与えてくれる。我々の予想や想像を遥かに超えるようなスピードで秋山黄色は日々進化しているのである。
そんな「ONE MORE SHABON」の中でも屈指のメロディの美しさを、バラードと言ってもいいようなテンポと少し官能的とも言える歌詞で描いてみせる「あのこと?」は前半が秋山黄色のアコギでの弾き語りに同期のピアノなどのサウンドが重なり、2コーラス目からバンドサウンドが加わっていくというアレンジに。おそらく曲を作った時にはライブでの再現性を考えていないと思うのだが、この4人でのバンドとしてスタジオでライブのために練り上げてきた成果が見て取れるし、メンバーの演奏だけという固定観念なしに同期の音をライブで躊躇なく取り入れることができるというのは、形態こそバンドでありながらもソロアーティストであるという自由さ、フットワークの軽さによるものだろう。
そのフットワークの軽さと、もはや奔放と言っていいような自由さは「Night park」での秋山黄色がハンドマイクを持って、バックトラックが流れる中で歌うという、ある意味ではJ-POPシンガーかのような形態によって極まるのであるが、やはりそれも途中からバンドサウンドに切り替わることによってこのメンバーが鳴らす生の音の力強さを感じさせてくれるし、それが最も顕著なのは
「聞こえてくるよ
4回ずつ鳴る生きてる証」
という歌詞の通りに打たれる4つ打ちのリズムがトラックから生のバスドラに変わる瞬間だろう。
「真夜中 浮かんだ分だけ涙が出て」
というサビのフレーズの「出て」の後にベースの音階が一つずつ計4つ上がっていくのも実に心地良いのだが、背面に設置された、アルバムタイトル通りにシャボン玉を思わせるようでもあり、角度によってはその前に吊るされた棒が針のように重なって時計のようにも見える円形のオブジェが薄暗いステージの中で色を変えながら輝くことによって、まさにこのステージの上がNight parkそのものであるかのように感じられる。時にはサンプラーを操作しながら、リズムに身を委ねるような秋山黄色の軽やかな身のこなしは、まるで夜の公園でスケボーなどを楽しんでいる少年かのように見える。何よりもサビに入った瞬間の歌唱は聴いている側の脳が覚醒するくらいに素晴らしい。本当に歌が上手いし、それによってこの曲たちを乗りこなし、ライブで爆発させていることがよくわかる。
秋山黄色が再びアコギを手にすると、
「夢を見て少し目が腫れた
違うのさ 風?何もかも…」
という歌い出しのフレーズがそのままタイトル通りに「うつつ」という幽玄な世界に我々を誘う。
「指先で壊せるほど脆い
光の下 みんな笑う世界
優しさは全てを変えてしまうよ」
という歌詞のフレーズのバーチャルの中を思わせながらも残酷なまでのリアルさも、
「真夏に食べたフルーチェのように
白く美しいままでは居られなかった」
という幼少期の記憶が、フレーズ通りに無垢なままでいることができなかった今の我々聞き手一人一人に重なっていく共感も、秋山黄色の歌詞は本当にキラーフレーズのみが積み重なって構成されている。これは個人的な観測であるが、いずれ秋山黄色は自身による何らかの形での書籍も世に送り出すことになると思う。それくらいにこの男の綴る言葉はリアルな心情描写としても、文学としても研ぎ澄まされていると思う。
そうして「ONE MORE SHABON」の曲がひたすらに連打された理由を、
「昔の曲をやるのは飽きてる(笑)これまでにやり尽くしてきたから(笑)
この前アルバム発売した時に配信やって、そこでみんなが好きな曲を聞いたら、みんな「猿上がりシティーポップ」とか、「クラッカー・シャドー」とか、「クソフラペチーノ」とか挙げてくれるんだけど、もうやり尽くしてきたから飽きてるのね(笑)」
と言って、「クラッカー・シャドー」のイントロを弾くと、井手上にも
「まこっちゃんだって聞けばすぐにできるから」
と言って演奏を促すのだが、井手上はすぐにはフレーズが出てこないというのは、まだまだやり尽くすと言うには余地があるんじゃないの?と思ったりもするのだけれど、
「俺は普段は嘘つきだけど、ステージ上では嘘はつかないから。昔の曲は飽きてるっていうのもそうだけど、その頃に歌ってることって今はもう思ってないことだったりする。
「いつからこここんなん建ってんの?」(「やさぐれカイドー」)
も、そこに建ってるのは唐揚げ屋さんだってもうわかってるし(笑)
そういう意味でも、新しい曲で今思ってることを歌いたい」
という、確かにこちら側からしたら飽きていても「猿上がりシティーポップ」聴きたいんですけど、と思ってしまうような心情も、こうしてその理由をそこまで言って大丈夫なのかってくらいに素直に伝えてくれると納得せざるを得ないというか。もちろんどんな曲を演奏しても満足するようなライブを見せてくれるという信頼感は間違いなくあるけれど。
さらに秋山黄色はアルバムの内容についても、
「去年「FIZZY POP SYNDROME」っていうアルバムを出したんだけど、この1〜2年で周りの人がたくさん死んでしまって。俺がまだ家で1人で曲作ってネットに上げていた頃に、近くのコンビニで働いていた友達のお母さんも亡くなってしまって。「最近どう?」って言いながらからあげクンを内緒でくれたりしていたんだけど、俺はまだまだ成長していくつもりだし、その時もそういう成長した姿を見せたいと思っていたんだけど、それを見せることが出来なくなってしまって…。
そういう感情を「FIZZY POP SYNDROME」では忘れようとしていたというか。でも今回の「ONE MORE SHABON」ではその割れてしまったシャボン玉をもう一回膨らませてちゃんと向き合おうって思ったアルバムになっている」
と自身の口から語る。確かに冒頭に演奏された2曲を筆頭に喪失感を感じさせながらもあくまでポップなメロディであるという「ONE MORE SHABON」を貫いているものは秋山黄色のそうした向き合うことに決めた精神によるものが最も大きく作用しているのだろうし、そんな秋山黄色の隣に、コロナ禍以降に大きな喪失を経験して、今こうして秋山黄色のバンドでベースを鳴らすことを選んだ藤本ひかりがいるのが本当に頼もしく思える。実年齢も見た目もすっかりお姉さんと呼べるようになった(デビューした時はまだ10代だったから)からこそ、これからも秋山黄色のことをどうかサウンド的にも精神的にも支えてあげてください、と思う。
そんな喪失の感情を「FIZZY POP SYNDROME」の中で鳴らしたのは「ホットバニラ・ホットケーキ」であり、確かにこの曲は浮遊感のあるサウンドとしても「ONE MORE SHABON」に入っていてもおかしくないかのような地続き感を感じさせてくれるが、そんな曲すらも秋山黄色が
「爆発させる」
と言った通りの爆発力を持って鳴らされているというくらいにライブでは大きく化けている。
そんな爆発力をさらに感じさせてくれるのが、この宇都宮という街での過去の情景を曲にした「宮の橋アンダーセッション」なのだが、間奏から最後のサビに入る前のブレイクで演奏をピタッと止めると、秋山黄色はいったんティッシュで鼻をかんだり水を飲んだり、片山のドラムセットのウインドチャイムを鳴らしたりという自由っぷりを見せ、その姿に呼応するかのように井手上もステージ上に座り込み、藤本もその場にしゃがもうとすると、
「今日は物販が並んでしまって申し訳ありませんでした!」
と、開場時に開演には間に合わないくらいに物販が長蛇の列になってしまったことを謝るのであるが、ただこれはまだ曲中である。
「今回は本当に許してくださいとしか言えないので…」
と観客に告げると、その瞬間に演奏が再開してサビが始まるという、メンバー全員の息が合っていないと絶対にできないやり方で曲を再開してみせる。それは間違いなくセッションというものであるし、秋山黄色がやっているのは宇都宮の橋の下でやっていたことの規模が大きくなって、完成度がはるかに高くなっただけで、本質としては何も変わっていないんじゃないだろうかとも思う。
その「宮の橋アンダーセッション」のロックさから繋がるのは「ONE MORE SHABON」で初収録の曲の中で最もロックなサウンドの曲と言える「PUPA」。その性急なサウンドに乗るように次々と言葉が放たれていくのであるが、サビを締める
「青青青青」
というフレーズ部分でステージには真っ青な光が降り注ぐ。それはその色が青春というものを最もストレートに表すものであり、「宮の橋アンダーセッション」と確かに連なるものをそこからは感じさせる。26歳となり、年齢を重ねても失われない、洗練されすぎることのない青さが確かにまだ秋山黄色の中に宿っていることを感じさせてくれる曲だ。
するとここで一旦井手上と藤本がステージから捌けて、片山のドラムソロが始まる。力強さもありながらも、サウンドの幅が広がったことによってパッドを連打するというドラムのサウンドとしての幅の広さも見せてくれると、井手上がステージに戻ってきて、秋山黄色とともにギターをそこに重ねていき、もはやアメリカのハードロックバンドかのような激しいロックサウンドへと展開していくと、最後に藤本も戻ってきてベースを重ねていく。
何というか、秋山黄色のサウンドがどうやって出来上がっているのかということを可視化してくれているようでもあるのだが、このセッション的な演奏はある程度決めているのか、それともその場の空気やノリで決まっていくものなのか。おそらくはある程度は決めているのだろうけれど、でもガチガチには決まっていない自由さがあるからこその化け感というか、バンドマジックというものはこうして生まれるんですよ、ということを目の前で見せてもらっているかのようだ。
その激しいセッションからイントロへと繋がったのは昨年配信リリースされ、CMタイアップとしてもお茶の間に流れた「ナイトダンサー」。やはり井手上がリズムに合わせて手を叩くと、それが観客へと繋がっていくのだが、確かにこの曲をこうしてライブの終盤に演奏される、しかもセッションを経てというのを見ると、こうしたクライマックスのパートを担っていた過去の曲が入り込む余地がないな、というくらいに今の秋山黄色の曲によってライブが塗り替えられて更新されていっているのがよくわかる。
「汚れ増やして また夢中になって踊る
噛み締めた夜と世界を繋ぐ
その未来に用がある」
というフレーズの通りに、秋山黄色には過去ではなくて未来にしか用がないのだろうと思うし、
「天才の内訳は99%努力と
多分残りの1%も努力だ」
というキラーフレーズも、その通りであるならば秋山黄色も見えない部分でとんでもない努力を重ねまくっているんだろうなと思えるのだ。
さらにセッション的な演奏は激しさを増す。もはや「ジャムバンドだっけ?」というくらいに、そうしてセッションをして練り上げられたグルーヴによって演奏されることによって、これまでに飽きるくらいに演奏してきたであろうけれど、ライブのセトリから外れることのない「やさぐれカイドー」があの出会った時の衝撃を思い出させるようなリフから始まるバンドのサウンドをさらに強烈に、凶悪にと言っていいくらいの凄まじさでもって響かせている。
間奏では声を出せない状況ということもあっての手拍子&レスポンスも行われると、秋山黄色は
「飽きるくらいにやってきたってことは、みんなで一緒に育ててきた曲っていうことだ!」
と叫ぶ。ああ、確かにそうだ。まだスリーピースでライブをやっていた頃はこんなに濃厚なセッションも、観客とのコミュニケーションを図るようにレスポンスを求めることもなかった。ライブで演奏されまくってきたことによって、元から化け物みたいだったこの曲がそうした形に進化して、成長してきたんだ。その育ってきた過程に少しでも寄与することができていたのならば幸せなことこの上ないし、そうして過去の曲をライブで演奏することの大事さを秋山黄色は「飽きてる」と言いながらも確かにわかっている。それは他の過去の曲もきっとこれからも大事にしていってくれるということである。ということを井手上もキメ的なリズムに合わせてギターを振り下ろすように鳴らす姿を見ながら考えていた。
そんな自由な、というか、明らかに秋山黄色のライブでしか見ることができない光景を何度となく描き出しまくったことによって、秋山黄色は
「もう次で最後の曲。本当に始まってしまうとあっという間だ。授業の45分は長く感じることばかりだったけど、時間の感じ方が違うっていうのは本当なんだな」
と時間というものの概念を語る。日々の労働がこのライブくらいにあっという間に終わってしまったらどれだけ精神衛生上、ラクになれるかとも思うのだけれども、それに続けて
「俺は誰よりも自由なソロアーティストでありたいんだ!」
と叫んだ。もう充分そうなっているんじゃないか、と思いながらも、その自由さを最後にさらに見せつけてくれるのは「シャッターチャンス」。イントロでのみギターを弾いてからハンドマイクで歌いつつ、ヒップホップ的なリズムも取り入れながらも、やはりそうした音楽よりも圧倒的に秋山黄色の音楽はキャッチーであるし、それは
「暗いうちにタクシーに乗った
街に流れる血の一部になった
音のこもった車内から見る景色は
時間が戻ってるみたいだった」
という先ほどのMCのように時間という概念を秋山黄色がどう捉えているかを示すようなフレーズや、
「「明日が見えない」って一緒に笑おう
やるせない今日こそ意味があるのです」
という諦念であるかのようでいて、我々を肯定してくれるような歌詞が確かにこのライブが終わった後の我々の足を前に進ませてくれるからで、そんな瞬間を永遠に残すかのように最後のフレーズを叫ぶようにして歌うと、曲終わりで秋山黄色はスマホを手に取り、客席に向けてシャッターボタンを押した。それはきっと生きている中でも最高のシャッターチャンスと言える瞬間だったはずだ。
それでもアンコールを求める手拍子に導かれて再び4人がステージに現れると、
「何にも話すことないや…。俺のMC、実は台本があるんですよ。でもアンコールまでは間に合わなかった(笑)」
と、まさかのネタバラシをすると、年末からライブに参加していたが、フェスやイベントばかりで紹介しきれていなかった藤本を新たにベーシストとして招いたことを紹介し、
「バンドが解散する理由ってそれぞれにあって。同じ理由で解散するバンドって一つもなくて。でもバンドが解散するっていうことは仕方がないことでもあって。それぞれの選択だから。
でもみんな、俺が辞めたら嫌でしょ?…早く拍手しろよ(笑)
藤本さんのやっていたバンドが終わった理由は俺からは語らないけれど、今こうして俺のバンドにいるってことは、今はうちのもんなんだから(笑)
自由なボーカルと、頭がイカれたギタリストとドラムと一緒に、これから好きなようにやりまくってください!」
と、直接藤本の目を見て言えないというのはきっと目を見て言ったら泣いてしまうであろう秋山黄色らしくもあるのだが、その言葉からは藤本とこれから先長い音楽人生を共にしていくという宣言とともに、井手上と片山を心の底から信頼しているんだなということがよくわかる。このメンバーがいるからこそ、自分が好きなようにできる、自分の曲をライブという場で鳴らすことができるというように。その秋山黄色の思いに井手上も片山も、そして藤本も「このメンバーだからこその、ソロ名義ではあるけれど、秋山黄色というれっきとしたバンド」としての音を鳴らすことで応えてくれているし、それが秋山黄色のライブがこんなにも凄まじい最大の理由であると言える。
そんなバンドがアンコールで鳴らすのは「ONE MORE SHABON」のリリースに先駆けて配信された「見て呉れ」。アルバムでも1曲目に収録されている曲であるだけに、てっきりこの日も最初に演奏するのかと思っていたのだが、それがこの位置で演奏されたということが、この曲が今の秋山黄色にとってどれだけ大事な曲であるかということがわかるし、アルバムを通して聞くとこの曲がピアノをメインにしたサウンドの変化のきっかけ的に聴こえるのだが、この日の曲順で聴くとその変化が実に自然なものとして受け止められる。そう聴こえるようなライブ作りをしたということであり、それはそのまま何度も聴いたアルバムの印象をさらに変えることにもなる。というよりも新たな発見というべきか。
そんな「ONE MORE SHABON」を軸としたライブも、アルバムの曲を全て演奏しきったことによって、セッション的にメンバーが演奏する音はシャープなロックサウンドとなり、秋山黄色はそのメンバーの演奏する音の上で
「学生時代から300万円借金があった俺がこの生まれて育った宇都宮にある、何回も来たことがある場所でライブをやることができている!お前ら本当に愛してるぜ!」
と感情が振り切れたかのように観客への感謝と愛を叫んでから最後に演奏されたのは「とうこうのはて」。間奏では藤本と井手上がドラムセットのライザーの上に乗って片山と目を合わせて演奏するというバンドとしての姿を見せてくれる中で、秋山黄色は
「コンビニで安酒買えそう」
というかつて歌詞をその都度変えて歌っていたフレーズもそのまま歌うと、最後にはステージにギターを置いて倒れ込んだ。その姿は「Hello my shoes」リリース時の渋谷O-Crestでの自主企画ライブのアンコールで
「もう曲をやる体力がない」
と息も絶え絶えな状態で言っていた時のことを思い出させるくらいに全ての力をこのライブで出し尽くしたということを感じさせてくれた。自由すぎるということはペース配分できるような器用さを持っていないということでもあるのだが、それこそがロックアーティストのライブのあるべき姿だよなと思った。ただ自分らしくライブをやるだけでそれがロックの真髄となる。だから秋山黄色ほどロックなアーティストはいないよな、と思えるのだ。と思っていたら床に置いたままのギターを鳴らしてから、ステージから去る際に見事な側転をしてから捌けていった。でもそれは余力があるからできることじゃなくて、きっと普通のアーティストが頭を下げて去っていくということを秋山黄色がやるとこうなるんだろうなと思った。
地元凱旋、かつ自身の誕生日というシチュエーションならば普通はこれまでの活動の集大成的なライブになりがちである。でも秋山黄色はそうしたライブをしなかった。それは秋山黄色が普通のアーティストではなくて、常に今を生きて今を鳴らし歌うアーティストだから。だからこの日のライブは2日前にリリースされたばかりのアルバムの曲を全て演奏するという内容になったのだし、そこにこそ秋山黄色の生き様が刻まれていた。26歳になった今の自分で、宇都宮に帰ってきて今の自分としての音を鳴らすという。それはどこまでも秋山黄色らしい自由なものだった。
こうしてホールでの満員のライブを見ると、つい「武道館が見えた」「アリーナが見えた」ということを言ってしまいがちだ。でも秋山黄色のホールライブでそうは思わないのは、O-Crestでライブを見た時からすでに武道館まで行く姿がハッキリと見えていたから。このツアーに東京がないのは、最後にその場所が追加されるのだと思っている。すでにいろんなバンドやアーティストが傑作アルバムをリリースしている2022年の大本命となった「ONE MORE SHABON」というアルバムをリリースすることができた秋山黄色の、その未来にだけ用がある。
1.白夜
2.アク
3.Caffeine
4.アイデンティティ
5.燦々と降り積もる夜は
6.あのこと?
7.Night park
8.うつつ
9.ホットバニラ・ホットケーキ
10.宮の橋アンダーセッション
11.PUPA
12.ナイトダンサー
13.やさぐれカイドー
14.シャッターチャンス
encore
15.見て呉れ
16.とうこうのはて
その秋山黄色が自ら誕生日を祝うようにして開催するライブは秋山黄色の地元である栃木県宇都宮にある、栃木県総合文化センターでのワンマン。すでにフェスなどではこのキャパ以上のステージにも立っているとはいえ、秋山黄色にとっては初のホールワンマンである。
最寄り駅としては東武宇都宮駅になるのだが、JR宇都宮駅から会場へ向かう途中には曲のタイトルにもなっている「宮の橋」があったりと、ファンにとっては聖地巡礼も兼ねているというような1日であり、会場は渋谷公会堂(現LINE CUBE SHIBUYA)を想起させるような形の客席のホール。近隣にある県庁などの施設も含めて思ったよりも新しい会場であると感じる。
開演前には場内BGMとしてBEAT CRUSADERS「HIT IN THE U.S.A.」やRIZEバージョンの「ピンクスパイダー」などの懐かしく感じるような曲が流れる中、開演予定時間の18時30分をかなり過ぎた頃にBGMがそのままSEのようになって場内が暗転し、白いTシャツを着た秋山黄色を先頭にバンドメンバーたちと4人でステージに登場すると、秋山黄色はライブではおなじみのアコースティックギターを手にして歌い始めたのは、このライブの2日前に発売されたばかりのアルバム「ONE MORE SHABON」の最後に収録されている、秋山黄色の曲の中でも屈指の長尺曲の「白夜」。
まさかこの曲で始まるとは、という意表をつくようなオープニングであるが、この日は秋山黄色の誕生日でもあり、東日本大震災が起きた日でもある。その日に歌われる
「幸福で死にたくないっていうのは
この地球上で君と居たい証だね
雪の季節が終わる頃に
同じ場所に二人歩きに行こう
消えないでいて」
というフレーズの、「消えないでいて」のファルセット気味のリフレインは、そうしたどこかにいた、どこにでもいたような二人が引き裂かれたり、消えたりしてしまった日でもあるんだなということを想起させる。そのフレーズを歌う秋山黄色の姿が、真っ暗な中でタイトル通りに白い光に照らされることによって神聖な存在として眼に映る。その歌声に「願い」や「祈り」という感情を思いっきり込めているかのように。
「ONE MORE SHABON」はインタビューで秋山黄色が口にしていた通りに、昨年の「FIZZY POP SYNDROME」という炭酸の泡をもう一度膨らませるように、というように地続きなモードの作品であるのだが、サウンドはさらに非ロックバンド化しているというか、最も目立つ楽器の音はピアノだったりと、ライブで果たしてどうやるのか?という曲が非常に多くもあるだけに、続けて演奏された「アク」もバンドとしてのサウンドは削ぎ落とされているからこそ、昨年末のライブからバンドメンバーとして参加するようになった、藤本ひかり(赤い公園)のうねりまくるベースのグルーヴが一層重要な役割を果たしている。これまでにも神崎峻や辻玲次(Bentham)と、秋山黄色のバンドに参加してきたベーシストたちはそれぞれ違うグルーヴを持った強者ばかりだったけれど、この藤本も含めてそうしたプレイヤーが参加しているのは秋山黄色がもともとベースを弾いていたからというのもあるんじゃないかと思う。
その「アク」はこれもすでにインタビューで語られているように、「悪」かと思いきや「灰汁」の方であるという、おそらくはダブルミーニングでもあるタイトルであると思うのだが、
「君が持つのならば拳銃も怖くはない」
というフレーズは、まさに今日本のはるか北の世界では拳銃を撃ち合っているような状況でもある。もちろん曲自体はこうした状況になってしまう前から作られ、産まれていたものであるけれど、時代を背負うようなアーティストの曲はその時代に引き寄せられるようなところがあるということを、それこそ震災の前にリリースされていた曲でも震災の後に意味が変わって聴こえるようになった曲たちで実感してきた。それで言うならばこの曲もやはりこれからそうした意味を持って響くようになっていくのだろうと思う。だって秋山黄色はこのホールの中いっぱいに響くような素晴らしいボーカルで最後に
「せめて両手で収まるほどの
怒りを話そう 愛で片付けてよ
手を取れなくても 何も盗らなければ…」
と歌っているのだから。そうした、人によって様々なことを想像できるような表現力を持ったボーカリストに秋山黄色はなっている。
そのまま秋山黄色がギターのイントロを弾くと、一転してライブではおなじみの過去曲「Caffeine」へと繋がるのだが、もはや相棒というべき存在のギタリスト・井手上誠もここまでは曲に合わせてあまり派手なアクションを見せていなかったのが、ここで一気に爆発してステージ端まで飛び跳ねながら進み、サビ入りではギターを抱えてジャンプまでする。イントロや音源のイメージでこの曲に静謐だったりオシャレなイメージを持っていた人はあまりのライブでの変貌っぷりにビックリするんじゃないだろうか、とライブで見るたびに思う。
するとドラムの片山タカズミのリズムを皮切りに藤本がゴリゴリとした重いベースの音を重ねてセッション的な演奏がイントロに追加されるという、秋山黄色のライブの醍醐味がここで早くも発揮され、前半からバンドの演奏が練り上げられて極まっていく様を見せてくれるのはアニメのタイアップとして秋山黄色の存在を世の中に広く知らしめた「アイデンティティ」で、井手上がさりげなくリズムに合わせて手拍子をすると、それが客席にも広がっていって、サビではたくさんの人が腕を上げている。きっとこの曲で秋山黄色を知って、この日初めてライブを見れたという人だっていたはず。そういう人からしたらこの曲を聴いたのは人生が変わった瞬間になっているのかもしれないし、その曲が目の前で鳴っていて、本人が目の前で歌っているというライブというものは改めて凄いことなんだよな、と思う。
ここで一息つくように秋山黄色が
「ただいま!」
と挨拶すると、本人も
「長っ!もう話始めますよ!」
と言うくらいに長く大きな拍手が秋山黄色を迎える。そこにこの日の観客がどれだけこのライブを特別に思っているかという思いと、秋山黄色ファンによる「おかえり」とでも言っているかのような温かさが詰まっていた。
この日のライブには同級生やかつてのバイト先の人など、「秋山黄色として音楽をやっていること」を知っている地元の友人も客席にいることを告げながら、そういう人とともに
「初めてライブに来たっていう人もいるかもしれない。俺のライブは基本的には決まりきった手拍子とかもないし、俺に逆らわなければ何をしたっていいんで!」
と言いながらも、次に演奏された「燦々と降り積もる夜は」では間奏で普通に秋山黄色自身が手拍子をして、
「手拍子やっちゃったけど(笑)」
と自分でツッコミを入れることに。
その「燦々と降り積もる夜は」も「ONE MORE SHABON」に収録された、タイトルからもわかるように冬の曲であるのだが、
「何を言ったって僕はこの日常も
楽しく生きるよ 一人は嫌いじゃない
誰に見せるわけでもない
服を着たりして」
というフレーズは明らかに一緒にいた人が居なくなってしまった喪失感とも、コロナ禍によって生活様式が変わってしまったこととも取れるような、今そのものが刻まれた歌詞であるのだが、アルバム全体を通してリズムが本当に複雑だ。手拍子をする箇所は確かにイーブンな感覚で手拍子を打てるのだけれど、他の箇所は変拍子と言っていいくらいにリズムが変わっていくし、それはある意味ではライブにおいてはノリにくさにも繋がるし、ひいてはポップさ、キャッチーさからは遠ざかっていきがちなものでもあるのだが、そうしたリズムの曲をこんなにもキャッチーなメロディと融合させることによって、どこまでもポップな曲として昇華して響かせることができる。
自分が「ONE MORE SHABON」を1回目に聴いて思ったのはそんな感覚だったし、3枚目のフルアルバムになっても初めて聴いた時とは全く違う衝撃を与えてくれる。我々の予想や想像を遥かに超えるようなスピードで秋山黄色は日々進化しているのである。
そんな「ONE MORE SHABON」の中でも屈指のメロディの美しさを、バラードと言ってもいいようなテンポと少し官能的とも言える歌詞で描いてみせる「あのこと?」は前半が秋山黄色のアコギでの弾き語りに同期のピアノなどのサウンドが重なり、2コーラス目からバンドサウンドが加わっていくというアレンジに。おそらく曲を作った時にはライブでの再現性を考えていないと思うのだが、この4人でのバンドとしてスタジオでライブのために練り上げてきた成果が見て取れるし、メンバーの演奏だけという固定観念なしに同期の音をライブで躊躇なく取り入れることができるというのは、形態こそバンドでありながらもソロアーティストであるという自由さ、フットワークの軽さによるものだろう。
そのフットワークの軽さと、もはや奔放と言っていいような自由さは「Night park」での秋山黄色がハンドマイクを持って、バックトラックが流れる中で歌うという、ある意味ではJ-POPシンガーかのような形態によって極まるのであるが、やはりそれも途中からバンドサウンドに切り替わることによってこのメンバーが鳴らす生の音の力強さを感じさせてくれるし、それが最も顕著なのは
「聞こえてくるよ
4回ずつ鳴る生きてる証」
という歌詞の通りに打たれる4つ打ちのリズムがトラックから生のバスドラに変わる瞬間だろう。
「真夜中 浮かんだ分だけ涙が出て」
というサビのフレーズの「出て」の後にベースの音階が一つずつ計4つ上がっていくのも実に心地良いのだが、背面に設置された、アルバムタイトル通りにシャボン玉を思わせるようでもあり、角度によってはその前に吊るされた棒が針のように重なって時計のようにも見える円形のオブジェが薄暗いステージの中で色を変えながら輝くことによって、まさにこのステージの上がNight parkそのものであるかのように感じられる。時にはサンプラーを操作しながら、リズムに身を委ねるような秋山黄色の軽やかな身のこなしは、まるで夜の公園でスケボーなどを楽しんでいる少年かのように見える。何よりもサビに入った瞬間の歌唱は聴いている側の脳が覚醒するくらいに素晴らしい。本当に歌が上手いし、それによってこの曲たちを乗りこなし、ライブで爆発させていることがよくわかる。
秋山黄色が再びアコギを手にすると、
「夢を見て少し目が腫れた
違うのさ 風?何もかも…」
という歌い出しのフレーズがそのままタイトル通りに「うつつ」という幽玄な世界に我々を誘う。
「指先で壊せるほど脆い
光の下 みんな笑う世界
優しさは全てを変えてしまうよ」
という歌詞のフレーズのバーチャルの中を思わせながらも残酷なまでのリアルさも、
「真夏に食べたフルーチェのように
白く美しいままでは居られなかった」
という幼少期の記憶が、フレーズ通りに無垢なままでいることができなかった今の我々聞き手一人一人に重なっていく共感も、秋山黄色の歌詞は本当にキラーフレーズのみが積み重なって構成されている。これは個人的な観測であるが、いずれ秋山黄色は自身による何らかの形での書籍も世に送り出すことになると思う。それくらいにこの男の綴る言葉はリアルな心情描写としても、文学としても研ぎ澄まされていると思う。
そうして「ONE MORE SHABON」の曲がひたすらに連打された理由を、
「昔の曲をやるのは飽きてる(笑)これまでにやり尽くしてきたから(笑)
この前アルバム発売した時に配信やって、そこでみんなが好きな曲を聞いたら、みんな「猿上がりシティーポップ」とか、「クラッカー・シャドー」とか、「クソフラペチーノ」とか挙げてくれるんだけど、もうやり尽くしてきたから飽きてるのね(笑)」
と言って、「クラッカー・シャドー」のイントロを弾くと、井手上にも
「まこっちゃんだって聞けばすぐにできるから」
と言って演奏を促すのだが、井手上はすぐにはフレーズが出てこないというのは、まだまだやり尽くすと言うには余地があるんじゃないの?と思ったりもするのだけれど、
「俺は普段は嘘つきだけど、ステージ上では嘘はつかないから。昔の曲は飽きてるっていうのもそうだけど、その頃に歌ってることって今はもう思ってないことだったりする。
「いつからこここんなん建ってんの?」(「やさぐれカイドー」)
も、そこに建ってるのは唐揚げ屋さんだってもうわかってるし(笑)
そういう意味でも、新しい曲で今思ってることを歌いたい」
という、確かにこちら側からしたら飽きていても「猿上がりシティーポップ」聴きたいんですけど、と思ってしまうような心情も、こうしてその理由をそこまで言って大丈夫なのかってくらいに素直に伝えてくれると納得せざるを得ないというか。もちろんどんな曲を演奏しても満足するようなライブを見せてくれるという信頼感は間違いなくあるけれど。
さらに秋山黄色はアルバムの内容についても、
「去年「FIZZY POP SYNDROME」っていうアルバムを出したんだけど、この1〜2年で周りの人がたくさん死んでしまって。俺がまだ家で1人で曲作ってネットに上げていた頃に、近くのコンビニで働いていた友達のお母さんも亡くなってしまって。「最近どう?」って言いながらからあげクンを内緒でくれたりしていたんだけど、俺はまだまだ成長していくつもりだし、その時もそういう成長した姿を見せたいと思っていたんだけど、それを見せることが出来なくなってしまって…。
そういう感情を「FIZZY POP SYNDROME」では忘れようとしていたというか。でも今回の「ONE MORE SHABON」ではその割れてしまったシャボン玉をもう一回膨らませてちゃんと向き合おうって思ったアルバムになっている」
と自身の口から語る。確かに冒頭に演奏された2曲を筆頭に喪失感を感じさせながらもあくまでポップなメロディであるという「ONE MORE SHABON」を貫いているものは秋山黄色のそうした向き合うことに決めた精神によるものが最も大きく作用しているのだろうし、そんな秋山黄色の隣に、コロナ禍以降に大きな喪失を経験して、今こうして秋山黄色のバンドでベースを鳴らすことを選んだ藤本ひかりがいるのが本当に頼もしく思える。実年齢も見た目もすっかりお姉さんと呼べるようになった(デビューした時はまだ10代だったから)からこそ、これからも秋山黄色のことをどうかサウンド的にも精神的にも支えてあげてください、と思う。
そんな喪失の感情を「FIZZY POP SYNDROME」の中で鳴らしたのは「ホットバニラ・ホットケーキ」であり、確かにこの曲は浮遊感のあるサウンドとしても「ONE MORE SHABON」に入っていてもおかしくないかのような地続き感を感じさせてくれるが、そんな曲すらも秋山黄色が
「爆発させる」
と言った通りの爆発力を持って鳴らされているというくらいにライブでは大きく化けている。
そんな爆発力をさらに感じさせてくれるのが、この宇都宮という街での過去の情景を曲にした「宮の橋アンダーセッション」なのだが、間奏から最後のサビに入る前のブレイクで演奏をピタッと止めると、秋山黄色はいったんティッシュで鼻をかんだり水を飲んだり、片山のドラムセットのウインドチャイムを鳴らしたりという自由っぷりを見せ、その姿に呼応するかのように井手上もステージ上に座り込み、藤本もその場にしゃがもうとすると、
「今日は物販が並んでしまって申し訳ありませんでした!」
と、開場時に開演には間に合わないくらいに物販が長蛇の列になってしまったことを謝るのであるが、ただこれはまだ曲中である。
「今回は本当に許してくださいとしか言えないので…」
と観客に告げると、その瞬間に演奏が再開してサビが始まるという、メンバー全員の息が合っていないと絶対にできないやり方で曲を再開してみせる。それは間違いなくセッションというものであるし、秋山黄色がやっているのは宇都宮の橋の下でやっていたことの規模が大きくなって、完成度がはるかに高くなっただけで、本質としては何も変わっていないんじゃないだろうかとも思う。
その「宮の橋アンダーセッション」のロックさから繋がるのは「ONE MORE SHABON」で初収録の曲の中で最もロックなサウンドの曲と言える「PUPA」。その性急なサウンドに乗るように次々と言葉が放たれていくのであるが、サビを締める
「青青青青」
というフレーズ部分でステージには真っ青な光が降り注ぐ。それはその色が青春というものを最もストレートに表すものであり、「宮の橋アンダーセッション」と確かに連なるものをそこからは感じさせる。26歳となり、年齢を重ねても失われない、洗練されすぎることのない青さが確かにまだ秋山黄色の中に宿っていることを感じさせてくれる曲だ。
するとここで一旦井手上と藤本がステージから捌けて、片山のドラムソロが始まる。力強さもありながらも、サウンドの幅が広がったことによってパッドを連打するというドラムのサウンドとしての幅の広さも見せてくれると、井手上がステージに戻ってきて、秋山黄色とともにギターをそこに重ねていき、もはやアメリカのハードロックバンドかのような激しいロックサウンドへと展開していくと、最後に藤本も戻ってきてベースを重ねていく。
何というか、秋山黄色のサウンドがどうやって出来上がっているのかということを可視化してくれているようでもあるのだが、このセッション的な演奏はある程度決めているのか、それともその場の空気やノリで決まっていくものなのか。おそらくはある程度は決めているのだろうけれど、でもガチガチには決まっていない自由さがあるからこその化け感というか、バンドマジックというものはこうして生まれるんですよ、ということを目の前で見せてもらっているかのようだ。
その激しいセッションからイントロへと繋がったのは昨年配信リリースされ、CMタイアップとしてもお茶の間に流れた「ナイトダンサー」。やはり井手上がリズムに合わせて手を叩くと、それが観客へと繋がっていくのだが、確かにこの曲をこうしてライブの終盤に演奏される、しかもセッションを経てというのを見ると、こうしたクライマックスのパートを担っていた過去の曲が入り込む余地がないな、というくらいに今の秋山黄色の曲によってライブが塗り替えられて更新されていっているのがよくわかる。
「汚れ増やして また夢中になって踊る
噛み締めた夜と世界を繋ぐ
その未来に用がある」
というフレーズの通りに、秋山黄色には過去ではなくて未来にしか用がないのだろうと思うし、
「天才の内訳は99%努力と
多分残りの1%も努力だ」
というキラーフレーズも、その通りであるならば秋山黄色も見えない部分でとんでもない努力を重ねまくっているんだろうなと思えるのだ。
さらにセッション的な演奏は激しさを増す。もはや「ジャムバンドだっけ?」というくらいに、そうしてセッションをして練り上げられたグルーヴによって演奏されることによって、これまでに飽きるくらいに演奏してきたであろうけれど、ライブのセトリから外れることのない「やさぐれカイドー」があの出会った時の衝撃を思い出させるようなリフから始まるバンドのサウンドをさらに強烈に、凶悪にと言っていいくらいの凄まじさでもって響かせている。
間奏では声を出せない状況ということもあっての手拍子&レスポンスも行われると、秋山黄色は
「飽きるくらいにやってきたってことは、みんなで一緒に育ててきた曲っていうことだ!」
と叫ぶ。ああ、確かにそうだ。まだスリーピースでライブをやっていた頃はこんなに濃厚なセッションも、観客とのコミュニケーションを図るようにレスポンスを求めることもなかった。ライブで演奏されまくってきたことによって、元から化け物みたいだったこの曲がそうした形に進化して、成長してきたんだ。その育ってきた過程に少しでも寄与することができていたのならば幸せなことこの上ないし、そうして過去の曲をライブで演奏することの大事さを秋山黄色は「飽きてる」と言いながらも確かにわかっている。それは他の過去の曲もきっとこれからも大事にしていってくれるということである。ということを井手上もキメ的なリズムに合わせてギターを振り下ろすように鳴らす姿を見ながら考えていた。
そんな自由な、というか、明らかに秋山黄色のライブでしか見ることができない光景を何度となく描き出しまくったことによって、秋山黄色は
「もう次で最後の曲。本当に始まってしまうとあっという間だ。授業の45分は長く感じることばかりだったけど、時間の感じ方が違うっていうのは本当なんだな」
と時間というものの概念を語る。日々の労働がこのライブくらいにあっという間に終わってしまったらどれだけ精神衛生上、ラクになれるかとも思うのだけれども、それに続けて
「俺は誰よりも自由なソロアーティストでありたいんだ!」
と叫んだ。もう充分そうなっているんじゃないか、と思いながらも、その自由さを最後にさらに見せつけてくれるのは「シャッターチャンス」。イントロでのみギターを弾いてからハンドマイクで歌いつつ、ヒップホップ的なリズムも取り入れながらも、やはりそうした音楽よりも圧倒的に秋山黄色の音楽はキャッチーであるし、それは
「暗いうちにタクシーに乗った
街に流れる血の一部になった
音のこもった車内から見る景色は
時間が戻ってるみたいだった」
という先ほどのMCのように時間という概念を秋山黄色がどう捉えているかを示すようなフレーズや、
「「明日が見えない」って一緒に笑おう
やるせない今日こそ意味があるのです」
という諦念であるかのようでいて、我々を肯定してくれるような歌詞が確かにこのライブが終わった後の我々の足を前に進ませてくれるからで、そんな瞬間を永遠に残すかのように最後のフレーズを叫ぶようにして歌うと、曲終わりで秋山黄色はスマホを手に取り、客席に向けてシャッターボタンを押した。それはきっと生きている中でも最高のシャッターチャンスと言える瞬間だったはずだ。
それでもアンコールを求める手拍子に導かれて再び4人がステージに現れると、
「何にも話すことないや…。俺のMC、実は台本があるんですよ。でもアンコールまでは間に合わなかった(笑)」
と、まさかのネタバラシをすると、年末からライブに参加していたが、フェスやイベントばかりで紹介しきれていなかった藤本を新たにベーシストとして招いたことを紹介し、
「バンドが解散する理由ってそれぞれにあって。同じ理由で解散するバンドって一つもなくて。でもバンドが解散するっていうことは仕方がないことでもあって。それぞれの選択だから。
でもみんな、俺が辞めたら嫌でしょ?…早く拍手しろよ(笑)
藤本さんのやっていたバンドが終わった理由は俺からは語らないけれど、今こうして俺のバンドにいるってことは、今はうちのもんなんだから(笑)
自由なボーカルと、頭がイカれたギタリストとドラムと一緒に、これから好きなようにやりまくってください!」
と、直接藤本の目を見て言えないというのはきっと目を見て言ったら泣いてしまうであろう秋山黄色らしくもあるのだが、その言葉からは藤本とこれから先長い音楽人生を共にしていくという宣言とともに、井手上と片山を心の底から信頼しているんだなということがよくわかる。このメンバーがいるからこそ、自分が好きなようにできる、自分の曲をライブという場で鳴らすことができるというように。その秋山黄色の思いに井手上も片山も、そして藤本も「このメンバーだからこその、ソロ名義ではあるけれど、秋山黄色というれっきとしたバンド」としての音を鳴らすことで応えてくれているし、それが秋山黄色のライブがこんなにも凄まじい最大の理由であると言える。
そんなバンドがアンコールで鳴らすのは「ONE MORE SHABON」のリリースに先駆けて配信された「見て呉れ」。アルバムでも1曲目に収録されている曲であるだけに、てっきりこの日も最初に演奏するのかと思っていたのだが、それがこの位置で演奏されたということが、この曲が今の秋山黄色にとってどれだけ大事な曲であるかということがわかるし、アルバムを通して聞くとこの曲がピアノをメインにしたサウンドの変化のきっかけ的に聴こえるのだが、この日の曲順で聴くとその変化が実に自然なものとして受け止められる。そう聴こえるようなライブ作りをしたということであり、それはそのまま何度も聴いたアルバムの印象をさらに変えることにもなる。というよりも新たな発見というべきか。
そんな「ONE MORE SHABON」を軸としたライブも、アルバムの曲を全て演奏しきったことによって、セッション的にメンバーが演奏する音はシャープなロックサウンドとなり、秋山黄色はそのメンバーの演奏する音の上で
「学生時代から300万円借金があった俺がこの生まれて育った宇都宮にある、何回も来たことがある場所でライブをやることができている!お前ら本当に愛してるぜ!」
と感情が振り切れたかのように観客への感謝と愛を叫んでから最後に演奏されたのは「とうこうのはて」。間奏では藤本と井手上がドラムセットのライザーの上に乗って片山と目を合わせて演奏するというバンドとしての姿を見せてくれる中で、秋山黄色は
「コンビニで安酒買えそう」
というかつて歌詞をその都度変えて歌っていたフレーズもそのまま歌うと、最後にはステージにギターを置いて倒れ込んだ。その姿は「Hello my shoes」リリース時の渋谷O-Crestでの自主企画ライブのアンコールで
「もう曲をやる体力がない」
と息も絶え絶えな状態で言っていた時のことを思い出させるくらいに全ての力をこのライブで出し尽くしたということを感じさせてくれた。自由すぎるということはペース配分できるような器用さを持っていないということでもあるのだが、それこそがロックアーティストのライブのあるべき姿だよなと思った。ただ自分らしくライブをやるだけでそれがロックの真髄となる。だから秋山黄色ほどロックなアーティストはいないよな、と思えるのだ。と思っていたら床に置いたままのギターを鳴らしてから、ステージから去る際に見事な側転をしてから捌けていった。でもそれは余力があるからできることじゃなくて、きっと普通のアーティストが頭を下げて去っていくということを秋山黄色がやるとこうなるんだろうなと思った。
地元凱旋、かつ自身の誕生日というシチュエーションならば普通はこれまでの活動の集大成的なライブになりがちである。でも秋山黄色はそうしたライブをしなかった。それは秋山黄色が普通のアーティストではなくて、常に今を生きて今を鳴らし歌うアーティストだから。だからこの日のライブは2日前にリリースされたばかりのアルバムの曲を全て演奏するという内容になったのだし、そこにこそ秋山黄色の生き様が刻まれていた。26歳になった今の自分で、宇都宮に帰ってきて今の自分としての音を鳴らすという。それはどこまでも秋山黄色らしい自由なものだった。
こうしてホールでの満員のライブを見ると、つい「武道館が見えた」「アリーナが見えた」ということを言ってしまいがちだ。でも秋山黄色のホールライブでそうは思わないのは、O-Crestでライブを見た時からすでに武道館まで行く姿がハッキリと見えていたから。このツアーに東京がないのは、最後にその場所が追加されるのだと思っている。すでにいろんなバンドやアーティストが傑作アルバムをリリースしている2022年の大本命となった「ONE MORE SHABON」というアルバムをリリースすることができた秋山黄色の、その未来にだけ用がある。
1.白夜
2.アク
3.Caffeine
4.アイデンティティ
5.燦々と降り積もる夜は
6.あのこと?
7.Night park
8.うつつ
9.ホットバニラ・ホットケーキ
10.宮の橋アンダーセッション
11.PUPA
12.ナイトダンサー
13.やさぐれカイドー
14.シャッターチャンス
encore
15.見て呉れ
16.とうこうのはて
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